1-1. 何もできないどこにでもいる小太りのチビ


 

「うげぇっ!」

 ドスンという衝撃を腹に受けて、僕は地面に転がった。

「うげぇだって。ヒャハッ、マジでウケんやけど」

 そう言って僕を見下ろしてくるのは同級生の平野高志だ。その取り巻き数人がにやにやと笑ってこっちを見ている。

 同級生といっても立場は同等なんかじゃない。

 あっちが上で、こっちが下。

 捕食者と非捕食者。強食と弱肉。

 いじめっ子と、いじめられっ子。

 校舎裏の逆光で、平野の歯を剥き出しにする笑みがなおさら凶悪に見える。

「へ、へへっ。痛かって平野くん……」

 膝を叩き込まれた腹をさすりながら、僕は後ずさりする。すぐに背中が校舎にぶつかった。逃げ場は無い。

「俺さぁ、ずっと前から気になっとったん」

「な、なにを?」

「俺の親父さぁ、ずっと柔道ばしとったけん、よぉ言うとったっさ。『人間って結構頑丈ばってん、結構簡単に壊るる』って」

「――ひっ」

「ひっ、だってよ。ヒャハッ、マジで啓介サイコーやん。……なぁ、ケースケ? 堂本啓介くん? 良かよね?」

「よ、よかって何ば……」


「壊しても良かよね?」


「う、うわぁぁぁぁぁっっ」

 その言葉に僕は悲鳴を上げて立ち上がると、一目散に逃げだした。

「はぁっはっはっはっ、ケースケまじで必死過ぎやろ。冗談、冗談やって」

 平野の笑い声を背に僕は必死に走る。

 畜生、僕が一体なにをしたっていうんだ?

 囲まれて殴られるようなことを何かしたか?

 結局世の中なんて理不尽で、何事にも明快な理由があるとは限らない。

 愚鈍そうな小太りオタクが目についた。

 だから小突き回してやろう。きっとピーピー泣いて面白いぞ。

 あいつらが僕を殴る理由なんてそんなもんだ。

 猫が鼠をいたぶるように。

 『そうしたいから、そうしてみたかったから』

 そういう習性の生き物が、そういうことをしてみたいのはつまり本能だ。それ以上の理由はないし、必要でもない。本能に従うことは快感でキモチイイ。キモチイイを我慢する理由なんてない。だからそうする。

 獣の理屈だ。

 猫はそれでいいかも知れないが、いたぶられる鼠としてはたまったもんじゃない。闘争が強者の生存戦術なら、逃走は弱者の生存戦略だ。

 余りに必死過ぎてちゃんと前を見ていない僕は、校舎の角を曲がって駐輪場に出たところで何かにぶつかった。

「きゃあっ!?」

「うわっ、だあ……ッ」

 どすんガシャンがりりっ、そんな音と膝の痛み。

 背後の平野たちを気にするあまり、そこに居た少女に気が付かず、彼女が押していた自転車に膝蹴りを叩き込んでしまったらしい。僕も彼女も倒れることはなかったけど、

「あっ、あっ、あっ、」

 彼女の自転車がコンクリの地面に転がってしまっていた。

「ご、ごめんなさいっ!?」

「あっあっあっ、あたしのビ……が……買ったばかりのオル……が、」

 慌てて彼女は自転車を引っ張り起こした。

 転がった場所に運悪く石があって、それにぶつかったのだろう。メーカーロゴらしい文字の周辺に大きな傷が入ってしまっている。

「えっと、ビアン……?」

「ビアンキ!! びーあいえーえぬしーえいちあい!! Bianchi Oltre XR3!! ちょっ、ほんとマジでチェレステカラーに傷が入ったやん! アンタどがんすっとぉ!?」

「えっえっ、ご、ごめんなさい!?」

「ごめんで済んだらケーサツ要らんっやろが! うわ、マジごつかぁ……ッ」

 怒りと悲しみを織り交ぜて自転車のキズ部分を撫でる彼女に、僕は掛ける言葉もない。

「~~~~~~~ッッ」

 空を見上げて唸るように怒りを噛み締める彼女は、盛大なため息とともにこちらを見た。

「あー、もう! アンタ誰ぃよ? 何年何組?」

「えっ、に、二年五組の堂本啓介……」

「同い年か。あたしは六組の辻まこと。ねえ堂本くん。もうすぐ昼休み終わっけん、放課後、ここに来ぃよ」

「う、うん」

 茶髪に焼けた肌。釣り目で何より僕よりも背の高い彼女――辻さんに睨まれると有無を言わさぬ迫力がある。っていうかノーなんて言える空気じゃない。

「絶対やけんね!? 逃ぐんなよ!」

「わ、わかったって」

 そう言い捨てると辻さんは自転車に跨って、そのまま校門の方へと走って行ってしまった。

 えっと、あれ?

 授業はいいんだろうか。

 そんな感じで取り残された僕は呆気に取られてその場に突っ立っていたのだけど、直ぐに昼休みの終わりを告げる予鈴で我に返る。

 平野たちは面倒事の予感か、いつの間にかいなくなっていた。



  †



 戦え、と十年前に死んだじいちゃんは言った。

 嫌だなぁ、と思ったことを今でも覚えている。



  †


 どんよりとした重たい雲が空を覆っている

 梅雨の時期特有のジメっとした重たい空気に包まれて古典の授業は進むが、原田先生の声は僕の耳には届いていなかった。古典と漢文を担当するこの中年男性はクラス担任でもあるのだが、正直に言って僕は何も期待はしていなかった。  

 四月に僕が平野に突き飛ばされて階段を転がり落ちるのを見ていたのに、何もしてくれなかったからだ。

 あの時の原田先生の表情はハッキリと覚えている――言葉で表すならば、『事勿れ』。

 肋骨を折り、頭を打ってるかもしれないと入院した僕の見舞いに来た先生は「喧嘩は良くない」「みんなと仲良く」と当たり障りのない事を言っていたが、終始僕の目を見ようとしなかった。

 もちろん世の中には漫画に出てくるような、熱血な教師もいるのだろう。

 だがこのくたびれた中年は、面倒ごとの回避を選んだのだ。

 先生だって人間だ。

 色々と事情があるのかもしれないし、いじめみたいな問題は本来教師ではなくカウンセラーの領域だとか、そもそも日本の教師はブラック労働云々とかなんとか言い訳はできる。

 けどあの時先生は安易な問題回避を選んで、僕はそんな彼に期待するのを止めた。

「だっせぇ。どいつもこいつも死ねばいいのに」

 人の間と書いてニンゲンと呼ぶ。だけど人と人の間にあるものが、良い物ばかりだとは限らない。

 日本の西の果てにある長崎県。長崎県の東の端っこにあるこの島原市。

 噴火とか乱とか歴史的な出来事で名前こそ全国に知られているこの小さな街は、知名度の割にはやっぱり田舎で、そこに住むのはつまるところやっぱり人間で、僕は高校生で、小さな地方都市の小さな箱庭のような学校に通う、何もできないどこにでもいる小太りのチビなのだった。

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