縁側のカサブランカ

天川

おかえり

 たんっ、たんっ……


 鉈を振り降ろす度に細く割られ、五寸ほどの短木片が積み上がっていく。

 ワックスのような、灯油のような、どこかねっとりとした香り。でも、僕はこの匂いが好きだった。この匂いがすると、暦の上だけの朧気な存在だったお盆の気配がいよいよ現実となって心を動かし始める。


 松の巨木の根っこには松脂まつやにが多く含まれており、お盆に使う「松明かし」のたきぎに最適とされている。生前のじいちゃんが用意しておいた松の根は、まだ小屋の中にたくさん残っており、僕が生きている内に使う分くらいは十分確保されているだろう。


 しかしながら、最近のこの地域で松明かしをする家は殆ど無くなってきている。十年ほど前に墓地の区画整理があり、どこのお墓もきれいな現代風の設えに様変わりしてしまった。昔ながらの地べたの石の上にまつたきぎを積んで火を灯すやり方は、その時一緒に廃れてしまったのだ。稀に見かける事もあったが、墓石が煤けると言われて周りの評判はあまり良ろしくないらしい。


 でも僕は、この松明かしが大好きだった。火の揺らめきと松脂まつやにの焦げる匂い、その幾重にも重なる炎に照らされた原初を彷彿とさせる、毎年変わらない景色。子供の頃は、墓参りが趣味と言ってもいいほどだった。


 僕は今でも、この松明かしをずっと続けている。昔から続けていることでもあり、時代に流され消えてしまう事へのささやかな抵抗でもある。何より、じいちゃんが遺してくれた松脂のよく肥えた松薪、これがあるうちは続けようと思っていたのだ。


 盆の入り、迎え火の日────。

 僕は例年のように早朝から出かけていた。誰もいない墓地で静かに松明かしをして雰囲気を楽しむとともに、先祖を偲ぶためだ。


 自分の車に水桶と線香、お花と松明かしの松のたきぎ。それらを積んで、僕はまだ日の登らない墓地を目指す。

 土用入りの前に、掃除は済ませておいたので汚れてはいないはずだが、一応手袋と雑巾も持っていきなさいと、出かけに母に言われていた。


 この辺りでは、道路に車を停めても文句を言う人など誰もいない。そもそも、住んでいる人が少ないのだ。若い人間などは、僕を含めて何人残っているだろうかと……集落の行く末を軽く案じてみたりする。


 墓所の丘の下に到着し車を降りると、少し離れた場所にもう一台車が止まっているのが見えた。こんな朝早くに、同じような思考の変わり者が他にもいるのだなと、自分を棚に上げて少しおかしくなった。


 僕がこんな時間に墓参りを済ませるのには、理由がある。

 端的に言えば、他の人に遭いたくないからだった。

 もはや、敬遠されているような文化、松明かし。それをしたいが為に、人に見られない時間にわざわざ出かけてきたのだ。


 田舎特有の、人付き合いの濃密さ。どこの誰か、お互い知らない者など一人もいない。だから、僕が家から離れず都会にも出ていかずにこんな田舎で暮らしている事を、大抵は変わり者扱いする。村に人口が減って困っているような話題は出すくせに、である。


 そういえば、北海道の大学に行った同級生が帰省した時に言っていた話がある。

「……教授が言うには、田舎が過疎化するのは必然で止めようがない、ってことらしいんだ」

 その話を聞いて、当然僕は反発心も湧いたが、同時に納得してしまっている部分もあった。

 どうあがいても、不便な土地柄。収入の少なさ、就労場所の乏しさ。濃厚で濃密な人付き合い、プライバシーなど存在しないようなものだ。たとえ田舎育ちであっても、現代人ならこれは耐え難いことだろう。


 それでも田舎に居着く者はいる。村特有の空気が生んだ、既得権益を持つ一部の派閥に属する者たちは、ここをと感じ暮らしているのだろう。僕の様に、そんな多数派には一切関わらず、それでもなお居残り続ける人間というのは、文字通りの変わり者なのだろう。



 石段を登って、墓地にたどり着く。気の早い蝉の声が時折聞こえてくるが、他に物音はしない。涼しく透き通って時を止めたような、そんな場所だ。僕は、この空気感が好きだった。


 だが、今日は珍しく先客がいた。

 さきほど、下に停まっていた車の主だろう。遠目に女性のようだが、僕は努めて気にせず自分の家の墓石を目指す。少し奥まったところにある我が家のお墓は、いつもと変わらずそこで待っていてくれた。

 雨が降って落ち葉も少し乗っていたので、脇にある水場で雑巾を洗って軽く石を拭き清めておく。それからおもむろに、裏返しになっていた火受け皿を元にもどして、その上に松薪を乗せていく。ミニチュアのキャンプファイヤーのようでもある。

 薪の、ささくれて火の着きやすいところにマッチを擦って火を移す。じりじりと、音を立てて油が燃えるような勢いで火が回り、すぐに辺りが松脂の焦げる匂いに満たされていった。毎年感じていたお盆の雰囲気が匂いによって、今はっきりと呼び覚まされる。黒い煤煙の混ざった炎に、更に数本の松薪を足して炎を大きくさせていく。それから、線香を付けて花も飾った。


 僕は、しばし炎に見入ってから、手を合わせて想いを紡いでいく。


 じいちゃん、ばあちゃん……。今年も夏が来たよ。二人が生きてた頃とは違って、長くて過酷な夏になっちゃったけど、それでも村の景色も空気も、相変わらずだ。


 ここでの暮らしは、それほど良いものではなかっただろう。けど、生きることに対してどこまでも真っ直ぐだった、じいちゃんとばあちゃん。

 その孫である僕は、生きることにあまりにも優柔不断だ。いつ死んでも悔いは無いとさえ思っている。ここに来れば、少しでも二人の前向きさを分けてもらえるかと思って毎年訪れているが、未だ年中行事の消化という以上の成果は見出だせていなかった。


 合わせていた手をほどき、水桶の水を柄杓で掬って墓石にそっと水をかけていく。


玲弥れいやくん……?」


 不意に、後ろから声がした。

 普段なら敢えて聞き流すところだが、自分の名前を呼ばれている以上、振り返らない訳にはいかない。そして、その声には聞き覚えもあった。


 覚悟を決めて、僕は振り返った。


 その姿は、少し違っていたけれど面影は確かに記憶の中のものだった。懐かしさと同時に、鈍く疼く胸の痛み。年月は人を変えるのだと実感するが、今はそれがありがたかった。記憶のままの姿だったら、僕は逃げ出していたかも知れなかったから。


夏子かこちゃん……」

 僕は、つい名前で呼んでしまって慌てて訂正した。

「あ、ごめん。田端さん、だったよね」

 田端たばた夏子かこ、それが彼女の名前。


 しかし、

「ううん、夏子でいいよ。それに……もう知ってると思うけど、三崎みさきに戻ったから」


 また、胸がちくりと痛む。


 ……彼女は、近所に住んでいた二つ年上のお姉ちゃんだった。小さい頃から、色々面倒見てくれて、遊んでもらっていた。

 彼女の家は、裕福ではなかったが家族三人慎ましく暮らしていた。だが僕が高校に上がる頃、彼女の父親は事故で亡くなってしまった。突然の不幸に夏子ちゃんも、夏子ちゃんのお母さんも深く悲しんだ。それからは亡くなったお父さんへの恩を返すように、僕も家族も夏子ちゃん母娘を支えながら暮らしていたのだ。


 亡くなったお父さんは保険に入っていたため、生活の方は何とかなっていたのだが、周囲との人付き合いでは苦難があった。


 夏子ちゃんのお母さんは、若く美人でもあったので、寡婦となったお母さんを狙って言い寄る男が後を断たなかったのだ。小さな村だ、家の内情など隠しようもない。お母さんの周りには常に下卑た男たちの影があり、一周忌も過ぎていないのに、平気で家に上がり込む酷い輩もいたくらいだ。

 僕も、僕の家族も彼女たちを守ろうと努力はしたが、助平さに全力の悪党どもの狡猾さと陰湿さに太刀打ちしきれるものでもない。ある日ついに、家にいたお母さんが一人の悪漢に乱暴される事態となってしまったのだ。

 お母さんはそれでも、自分が悪いんですと言い、事を荒立てないようにと言っていたが、それを看過できなかった僕ら家族は、警察に通報。……程なく、一人の村人が犯人として捕まることになった。


 当然の結末である筈だが、田舎特有の空気の中では事情が違った。村に要らぬ騒ぎを起こしたとして、僕ら家族も被害者である夏子ちゃんの家族も、村の中では睨まれることとなったのだ。犯人の男が、いわゆる村の有力者に近い人間だった事も影響していたのだろう。それ以来、住みにくくなった村の空気の中で僕らは生きる事となってしまったのだ。


 夏子ちゃんは高校を卒業して二年ほど経った頃、結婚すると言った。相手は就職先で知り合った男らしい。随分、急な話だったので僕ら家族は驚いたものだった。決め手になったのは、相手の男がお母さんとの同居に前向きだったということらしい。

 住みにくくなったこの村を一刻も早く離れ、お母さんと静かに暮らしたかったのだろう。結局、彼女と会ったのは引っ越しの日が最後だった。結婚式も無く、葉書で「結婚しました」という報せが届いたきりだった。


 だが、今年の春先に嫌な噂を耳にした。

 夏子ちゃんが、離婚してお母さんと共にこの村に戻ってきているらしいという噂。そればかりか、その離婚原因はお母さんが同居していることに起因するらしいという内情まで漏れ伝わっていた。

 僕ら家族は、他人の家庭の内情までも平気で噂する田舎の空気というものに辟易していたし、夏子ちゃんやお母さんが噂の種にされる事も耐え難かった。

 だから僕は、敢えて聞かなかったつもりで過ごしていた。彼女たちを住みにくくしてしまった責任の一端は、僕ら家族にもあるのだから。


 ────三崎姓に戻った。


 離婚して旧姓に戻ったということを、彼女の言葉は裏付けている。もちろん知っていた事だ。聞かなかったことにしたところで、記憶に蓋ができるわけでもない。僕の心は、再び揺れ動いてしまっていた。


 僕は、ずっと夏子ちゃんが大好きだった。


 もう、必然でさえあったように自然とそう思っていた。小さい頃からずっと一緒だった。子供の頃は一緒にお風呂に入ったこともある。一緒に勉強したり、お互いの家で夕飯を融通し合ったり、家族同士も親密に付き合いがあったのだ。心を通わせるなという方が無理な相談だった。


 あの事件があって村に居づらくなった母娘は、夏子ちゃんの結婚を機に隣町へと引っ越した。僕はもちろん、寂しかったし哀しかったが、二人が静かに暮らすことができるのならと、僕ら家族も同意したのだ。


「元気だった? 玲弥くんは、変わってないね」


 そう話す彼女の声は、それでも思っていたよりずっと明るいものだった。その声に幾分励まされ、僕も勇気を持って話すことが出来た。


「うん、相変わらずだよ。夏子ちゃんは、少し痩せたね。髪も───」


 彼女の長かった黒髪は、首が見えるほどの長さで切りそろえられていた。なんとなく、既婚者の雰囲気を漂わせているようで、また少し胸が苦しくなる。


 僕がそんな事をいうと、彼女は少し照れたように

「引っ越しとかいろいろ、ばたばたしてたから。でも、大丈夫。もう落ち着いたから」

 彼女はそう言いながら、うちの墓石の前まで歩み寄って来た。

 なんとなくだが、彼女に話したがっている雰囲気を感じたので、僕は誘ってみた。


「……そうだ。時間あるかな? よかったら、うちに寄っていかない? きっとうちの親も喜ぶよ」

 ここで話していたら村の誰かに見られるかもしれない。これ以上、余計な噂の種になるのだけは、避けたかった。


 夏子ちゃんは軽く頷いてから、目の前の墓碑に気づいたようだ。

 墓碑には、無くなった日付と俗名である『作蔵』という名前が彫り込まれている。その隣には、先に亡くなっていたばあちゃんの『イシ』という名も刻まれていた。


「……これ、おじいちゃん?」

「うん、一昨年の暮れにね」


 そうなんだね、と言って夏子ちゃんは手提げから線香を取り出した。

「お線香だけ、あげさせて?」

 僕は、うん、と答えた。

 彼女は、取り出した線香を松明かしに近づけ火を移し取って、墓石に供えてから手を合わせた。

 しばらくそうしてから、やがて合わせていた手を解いて、ゆっくりと立ち上がった。

 その間際、


 ごめんなさい……


 微かに、そう聞こえた気がした。



 …………………



 僕の家の近隣に、他の家は無い。少し離れたところに空き家が一軒見えるだけだ。その空き家というのが、以前夏子ちゃん親子が住んでいた家だった。

 僕の運転する車の後ろを、夏子ちゃんも車でついてきた。広い庭に適当に車を停め、彼女も降りてくる。


「……なつかしいな、たった三年くらいなのにね」

 彼女がそう言ったので、僕も…。

「ほとんど変わってないでしょ、三年くらいだと」

「うん、そうだね」

 そう言って彼女はまた、あたりを見回していた。


 僕は、自宅の開いたままの勝手口に声をかけた。

「ただいまー、母さんいる?」

 そう、中に向かって声をかけた。

 すぐに、足音が聞こえて、

「おかえり、お墓汚れてなかった? まだ、誰もいなかったでしょう」

 そう言いながら母さんは顔を出した。そして、彼女の姿に気づく。


「まぁ……! 夏子かこちゃん!?」


 母さんは、つんのめるようにしながらもサンダルをつっかけて飛び出してきた。そして、夏子ちゃんの手を握る。

「おばさん……」

 夏子ちゃんも、感極まったような顔をしていた。

 母さんは、その顔を見て辛抱できなかったのだろう。両腕でしっかりと抱きしめて、

「ごめんなさいね、ほんとうに……。おかえり、夏子ちゃん……」

 そう声を震わせ、涙を流していた。

「ううん、あたしたちこそ、ごめんなさい……。ただいま、帰りました」


 誰が悪いわけでもなかったはずだ、それでも謝らずにはいられなかったのだろう。

 二人はそうして、しばらく抱擁を交わし合っていた。



 僕の母親との再会を経てから、寝床から起き出してきた父さんも交えて縁側で麦茶を飲みながらお互いの経緯を話し合っていた。

 お墓でも話した通り、一昨年……つまり彼女が結婚した翌年にじいちゃんは亡くなったということ。それ以外は、殆ど変わらずに過ごしているということ。そして、彼女の住まいだった家は、今もうちで管理しているということを伝えた。

 彼女は、噂の通り離婚してこちらの村に帰ってきていたということ。今は、村外れにある村営住宅にお母さんと二人で住んでいるということ。落ち着いたので、こっちで仕事を探そうと思っているということなどを、彼女は語っていた。


 そう言えば、彼女の噂を辿ってみると出どころは村役場の職員だった気がする。大方、住所変更の手続の際に知り得た事を節操なくばらまいた結果だろう。個人情報を何の躊躇もなく触れ回る職業意識の欠如と品性の下劣さに、改めて権力側の人間性の腐敗ぶりを感じて言いようのない怒りを覚えた。


 そんな僕の内心を他所に、僕の両親は穏やかに会話を続けている。

「家は、時々手入れをしていたから、掃除すればすぐにでも使えると思うよ。お母さんも呼んで、こっちで暮らしたらどうだい?」

 父さんはそう言って、元住んでいた家の状態を語って聞かせていた。


 彼女たちがこの村を離れる時、住んでいた家は売りに出すつもりだったらしい。だが、買い手がつくかどうかも分からない。それに、もし帰ってきた時に生家が無いというのは忍びない、亡くなった父親だって、家が無くなったら寂しかろう、そう言って僕の父さんは彼女の家を買い取ったのだ。餞別と、せめてもの罪滅ぼしの意味もあったのだろう。


「ここから見えるんですね、うち」

 彼女は意外そうに言って、彼女は縁側の掃き出し窓から自身の生家の方を見つめていた。

「ああ、じいちゃんが木を切ったからね」

 父さんはそう答えたが、細かい事情までは伝えなかった。


 彼女と僕のうちの間には、以前は屋敷林と呼んでいた小さな木立があって直接お互いの家が見えることはなかった。だが、あんな事件があってじいちゃんは、

「木が邪魔しなければ、見えてたかもしれねぇのになぁ……」

 そう言って、その事を一番悔やんでいた。

 たとえ屋敷林が無かったからと言って、事件を防げていたとは思えない。しかし、じいちゃんはそのことをずっと悔いていた。屋敷林を一番大事にしていたのはじいちゃんだったから。

 彼女たちが引っ越した後でさえも、その気持ちは晴れなかったのだろう。


 ────これは、儂が生きているうちに片付ける責任だ


 そう言って、じいちゃんは一本ずつ木を切り倒していた。

 そうして、屋敷林のあった場所はすっきりと見通しがよくなり、彼女の家がいつでも見渡せるようになっていた。

 また二人が、あの家で暮らしてくれれば……いつしか、僕たち家族はその事を願っていたのかもしれない。

 

 父さんは、夏子ちゃんに鍵を手渡していた。

「せっかくだから、寄っていきなさい。仏壇も、そのままになってるから」

 そう言って、かつての生家を見ていくことを勧めていた。


 その後、徒歩で彼女の家を目指す。

 草刈りや周りの手入れは怠っていない。いつ二人が帰ってきてもいいように、その思いがあったから苦労だとも思わなかった。もし、使い道がないなら僕が譲り受けて住もうかと思っていたくらいだったから。


 玄関までくると、記憶を励起する匂いがした。その記憶を留めながら、僕は鍵を開けた。かつて彼女の家であったとしても現在の所有者は僕の父、そう思ってのことだろう、彼女は僕を促し後ろについて家に上がった。


 人の住まなくなった家というのは独特だ。埃っぽい、というのとは違う、人の気配がしばらく無かったことを感じさせる空気が漂っていた。

 勝手知ったる家の中を、僕はある意図を持って仏間に向かう。

 最初に、彼女を立ち会わせるべきだろう、そう思って仏壇の前に歩み出た。


 彼女も、僕に少しだけ目配せしてから頷いて、仏壇の観音扉を開けた。

 位牌は引っ越しの時に持っていった。ここにあるのは、燭台と……彼女の父親の写真だけ。それでも、ここに「会いに来た」ということが感じられる佇まいだった。

「ただいま、お父さん」

 そう言って、彼女は仏壇の前に膝を折って座り、手を合わせていた。そして、また……

「ごめんね……」

 そう、微かに呟いていた。


 僕は、仏間と奥の座敷とを隔てる襖を開き、そして西側の窓と雨戸を開けた。

 薄暗かった和室に光が差し込み、そして、懐かしい匂いが部屋に流れ込んできた。


「……カサブランカ?」


 彼女が、不思議そうに言いながら僕の横に来る。

 窓を開け放った家の脇にある花畑には、白い大きな花を咲かせた百合が、幾つも生えていた。


 彼女の家族は、花が好きだった。

 お盆になると、菊、トルコキキョウやカスミソウ、グラジオラスなどを切り花にして、家の前で小さな露店を開いて花屋さんの真似ごとをするのが僕と彼女の楽しみだったのを思い出す。

 中でもカサブランカは、彼女の父親が特に好きだった花だ。育てるのが難しく、よく手入れをしなければ綺麗な花を咲かせてはくれない。毎年お盆になると一斉に咲き誇るこの花の匂いは、僕と夏子ちゃんの想い出の匂いでもあったのだ。


「まだ、咲いてたんだね」

 彼女の手が、僕に触れる。

 きっと、彼女も同じ記憶を想起しているのだろう。


「お父さんの、大切にしてた花だったから……。枯らさないようにって」

 お父さんのように上手ではなかったかもしれないが、これだけは失くさないようにと、僕は毎年ずっと手入れをし続けていた。僕の家族も、この記憶の証だけは残しておこうと、ずっと思い続けていたのだ。


「ありがとう、玲弥くん」

「ううん……また見てもらえて、うれしいよ」


 またみんなで、ここに暮らす。

 それが叶うのかはわからない。それでも、この花はずっと大切にしていこうと思う。たとえ彼女の気持ちが、どう変わろうとも。


「ただいま、玲弥くん」

「おかえり、夏子ちゃん」


 僕は、彼女の帰る場所であり続けようと願う。

 そして、今度はこの手を離さないでいようと誓う。

 たとえ、彼女がどんなに道に迷ったとしても。

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縁側のカサブランカ 天川 @amakawa808

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