酢豚のパイナップルは許しません!

壱単位

酢豚のパイナップルは許しません!


 家が、近所で。

 幼稚園も一緒。

 二人とも絵本や漫画が好きで、貸し借りして。

 小学校でも中学校でも、奇跡のように同じクラス。

 自然と、同じ高校を受験して。


 だけど、高校一年の冬。

 気持ちを打ち明けようとようやく決心した、ちょうどその頃に、彼女はご両親の仕事の都合でイギリスに移り住むことになってしまった。


 電話だってネットだって、手紙だってある。いくらでも連絡は取れるし、たぶん国を越えた長距離恋愛なんて、このご時世で珍しいものでもなんでもない。

 でも、僕は、言い出せなかった。

 じゃあね、っていう彼女に、僕はただ小さく笑って、ん、って手を振るだけだった。

 飛び立った飛行機を目で追って、二月の空の蒼が痛いくらいに目に染みたから、たぶんそのときにこぼした雫は単なる身体反応だったんだ。


 彼女がいない高校生活を、僕はたぶん、楽しんだ。楽しむべきだったから、なにも考えなかった。

 あの日、空港の、光のあふれる出発ロビーで手を振った彼女の姿なんて、寂しそうに微笑んだ色素の薄い瞳なんて、その日どんな靴を履いていたかなんて、珍しく乗せているチークの色味なんて、思い出すことなど、いちどだってなかった。

 いちど、だって。

 

 東京の大学に合格して、ごく平凡な成績で卒業して、勤め先は出版社を選んだ。

 児童書の編集部に所属して、数年後にはひとりで担当を持つようになっていた。仕事が良くできたとは言わないけれど、作家さんに恵まれて、いくつかの本はランキングに載るような売り上げとなった。

 その、出版パーティで。


 新進の絵本作家、ペンネームはもちろん何度も聞いたことがあった。

 きらきらした照明の下、その名を僕の上司から呼ばれて振り向いた女性は、僕と目が合って、息を吸い込むような顔をして、それからほんの一瞬、泣きそうな表情を浮かべて。でも、すぐに微笑んで、手をちいさく上げてくれた。

 あの日に、空港でそうしたように。


 向こうで大学を終え、そのまま現地の日系企業で働いていると、彼女は小さく声を出した。趣味で続けていた絵本で賞をとって、一時的に帰国しているとのことだ。

 君は、編集者になったんだね。

 お互い、小さなころのまんま、だね。

 うれしそうにそういう彼女の言葉に、僕は気の利いた応答をしようとして、失敗した。声が、出なかった。出せばきっと、胸のなかに溜まったものが溢れたからだ。


 パーティが終わって、皆は二次会に向かった。

 なんとなく二人で会場を出てきた僕たちは、なんとなくそのまま、駅に向かって並んで歩いていた。

 互いの今の生活のこと。現地で付き合ったひとはいたけれど、続かなかったこと。僕の方も似たような状況であること。そんなことをしゃべりながら、車道を流れるヘッドライトに揺れる影をつくりながら、僕たちは歩いた。


 うちに、来る?

 誰かがそう言い、僕は驚いて見回した。

 声が自分のものであることを発見して、もう一度驚愕した。

 そうして、相手が、うん、と頷いたから、ほんの瞬きの間に僕は三回、血圧を急変動させることとなったのだ。


 いくつか先の駅で降りて、五分ほど歩くとごく平凡な外観のマンションが現れる。築十五年のその建物の三階、いちばん奥が、僕の部屋だった。

 鍵を開ける手が震えていた。毎日なんども開け閉めする鉄の扉が重く、もどかしかった。はやく部屋に入りたくて、だけど入るのが怖くて、僕は誤魔化すように、わざと乱雑に靴を脱ぎ捨てた。

 彼女は丁寧にローファーを揃えて、上り框に登った。海外暮らしが長いのに、その仕草は小さな頃となにも変わっていなかった。


 先にリビングに入って待つ僕のところへ、彼女は少し俯くように、指先を身体の前で重ねて歩いてきた。立ち止まらない。僕の目の前、八十センチのところでゆっくりと手をあげる。肩からバッグが、すとんと落ちる。

 あげた手は広げられ、僕の腕の横をかすめて、背に回される。

 僕は抵抗もせず、迎えもせず、ただ、ただ、顔をあげた彼女の瞳をずっと見ていた。


 鼻先が触れかけた、そのとき。


 「……!」


 彼女が息を呑んだ。

 顔を離す。その目線は、僕の左、ダイニングテーブルの上にあった。


 「……それ、は……」


 ああ、しまった、と思った。

 昨日の夕食、酢豚。

 残ったものを朝に食べて、それでも残ったから、冷蔵庫に入れようと思ってラップをかけて、そのままテーブルに置き忘れてしまったのだ。

 いくら涼しい季節とはいえ、ちょっともう、厳しいだろう。

 彼女は、どちらかといえば潔癖なタイプだ。おそらくそのだらしなさが気になったんだろう。


 「ああ、これ……しまい忘れちゃった。昨日の酢豚」

 「……すぶ、た……これが……」


 彼女の唇が小さく震えていることに、そのときはじめて気がついた。気のせいか、顔の色も青白くなっているように思えた。


 「あ、うん……もうダメになっちゃってると思うけど」


 そう言いながら、僕は皿を手に取り、ラップを剥がして見せた。酸味のある香りが漂う。悪くなったような様子でもない。

 が、彼女は、動いた。顔を引き攣らせ、手の甲を口にあて、もはや明瞭に震え出した足を引き摺るように後退している。


 「……そ、それ……なに」

 「え」

 「……黄色い、もの……」


 黄色いもの。

 見下ろせば、ひとくち大のパイナップルが中華あんに濡れて光っている。


 「パイナップル……だけど」


 そう告げると、彼女は頬を両手で挟んで、息を吸い込んだ。


 「いやあああああああああああああり得ない、あり得ないいいいいいいいい」

 「え、ちょっと、なに」

 「ばかやだこっちこないでさわらないで信じらんないマジあり得ないもうやだ」


 彼女は叫びながら床に転がったバッグを拾い上げ、部屋を走り出た。靴を乱暴にひっかけて、開き切るのも待ちきれない感じでドアを開け、出ていった。


 皿を持ったまましばらく佇んでいた僕は、やがてパイナップルを一切れ、つまみ上げた。口に入れる。悪くなってはいなかった。複雑な酸味と甘辛い味が口中を満たす。摘んで食べ、摘んで、食べ。


 ふう、と、僕は息を吐いた。

 たぶん今回は、空港には見送りにいかないほうがいいんだろうな。



 <了>

  


 


 


 



 

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