料理で一番大切なのは
(なんか、そういうこともあったなー)
あくびと一緒にふと溢れた思い出に、ウィルはしみじみと浸る。もう九年も経ったなんて信じられない。結局あのまま記憶は戻らず、養父ケビンのもとで幼少期を過ごした。
最初にルナから浴びせられた言葉は幼さ故の過ちであるし、とっくの昔に赦している。だが、やはり家の外ではどこか白々しい視線を感じることはままあって、ひどく人見知りになってしまった。一方ここでは、姿についてとやかく言われることはない。
現在は親離れして、アルベドという街で暮らしていた。この城郭都市を取り仕切るリチャード氏の屋敷は、多くの部屋がゲストルームとなっている。そのうちの一室が、差し当たっての生活拠点だった。独特なコミュニティの中で毎日新鮮なことばかり。人付き合いも心地よく、さらに手伝い程度とはいえ仕事も貰っていた。近頃は新しい生活にも慣れて、人心地がついたと思えている。
今日は厨房に呼び出され、タイル張りの壁に背を預けていた。広々とした室内に調理器具が整然と備えられ、ピカピカに磨かれた作業台には、薄力粉の袋を始めかぼちゃにベーコンの塊、卵や牛乳など、いくつもの食材が並ぶ。ゆうに十人前は作れそうな量だ。それを前にして、エプロンをまとった二人が顔を突き合わせている。
片方はふんわりと伸ばした栗色の髪を、後ろでゆるくまとめた少女。ルナとはケビンとともに別れを告げたはずだったが、わけあって再び近くで暮らしていた。明るい面差しに上がった口角。臆病さはすでになく、快活な人になっていた。
そしてもう一人は、どこかオリエンタルな雰囲気漂うすらりとした立ち姿。スラックスにタイと男性的な身なりは、単に動きやすいかららしい。こちらも長い黒髪を一つに束ねているが、まとまりよく垂れる様子は猫の尻尾を思わせる。いつもは落ち着いている彼女が、今日は珍しく緊張の色を見せていた。
「プディングか。初心者には難しそうだが」
「大丈夫よう! 具を混ぜて焼くだけだもの。残り物を入れてもいいし、応用が効くのよ。今回はおかず系だけど材料次第ではおやつにもなるわ。むしろ初めてにはもってこい。ナギさん器用だし、このくらいすぐマスターできるでしょうよ」
本日はかねてより興味を示していた彼女のため、厨房で料理教室が開かれていた。励まされてようやく余裕ができたのか、ルナへ微笑みが向けられる。ひと段落したところで、咳払いで気を引いた。
「なあ、俺っている必要ある?」
せっかく呼ばれたのはいいが、このまま二人で十分やっていけそうだ。仕事を押してまで食材たちの行く末を見届けるのは、上司に少し申し訳ない。
「あるある。あんただって作り慣れている部類でしょう?」
「まあ、ルナに仕込まれたんだからな」
そうでしょうともと義姉は胸を張る。彼女の拵える食事は素朴だが美味しく、心安らげる温かさがあった。何より、好きなことをする姿は楽しげだったのだ。ケビンは常に家にいるわけではなかったし、帰りを待つうち自然とキッチンに集うようになったというわけで。
「ってことで、後輩へいい感じのアドバイスを期待したいわね! それに心配いらないわ。ルイスさんには、ちゃんと話を通してるもの」
上司のお墨付きならこれ以上文句は言うまい。あの人は放っておくと休むことを忘れてしまうから、後で様子は見た方がいいだろうが。完成したプディングを手土産に持って行こう。
「ほう、さしずめウィルは
「えぇ……そんな剣術の稽古じゃないんだから」
軽く頭を下げるのをまごまごと制する。東国の作法らしいが、どう返すものなのかよく知らなかった。それをわかってやっているのだから、なお意地が悪い。
「ふふ、わかっているさ。――で、おまえはなぜここに?」
ウィルと肩を並べて壁際に立つ、淡い金髪の少年に注目が集まる。
「どうも、試食役のスマッジーでーす」
ゆるい挨拶をしたのは、ここでできた友人だ。青い垂れ目が親しみ深く、一緒にいても気が楽な良いやつなのだが……エプロンを召した二人はため息をついている。
「あのな。野菜を洗わずいきなり包丁入れるようなヤツの口出しに、何の意味がある」
彼が料理についてからっきしなのは、このアルベドでは周知の事実だ。前科は先の例だけに留まらない。鍋の番をお願いすれば、早く煮えるだろうと火力を強めてシチューを焦げ付かせる。つい先週も、任せろと言いながらめちゃくちゃをやって摘み出されていた。
「ナギさんてば冷たァ……オレだって未経験者だからな? そのくらい水に流してよ。今回はただの見学だし、舌なら自信ありますけど?」
口を尖らせて抗議しているのを傍目に、もういいから始めましょうとルナが仕切り直す。
「さて、まずはひとつ問題。料理をする時、私が一番心がけていることがあるの。さあ、それは一体なんでしょう?」
いかにも先生らしく人差し指を立てて、ナギを上目遣いに見る。
「そうだな。食材選びや旬? あとは味付け……材料を正確に量るとか?」
「どちらもある程度気を配らないとよね。そうねぇ、質問の仕方が曖昧すぎたかも。清潔や安全とかそういう類の、って方がわかりやすいかしら?」
これは昔からルナの持論だった。何度も聞かされたし、実際非常に理にかなっている。むむと唸って以降黙ってしまった生徒の代わりに、スマッジーが笑いながら口を開いた。
「あれじゃね? よく言うじゃん。愛情って」
茶化しは余計に場を寒々しくする。決して空気が読めないわけでも、適当抜かすやつでもないのだが、流石のウィルも呆れてしまった。
「おまえって……意外とロマンチストっていうか」
「そ、実はね。結局人の原動力ってそういうもんだったりしてな。案外馬鹿にならねーかもよ」
むしろ調子に乗るそこへ、思わぬ助け舟が入った。
「あら、いいこと言うじゃない。誰かのためにって想いは、実際作り手の心持ちを大きく左右するもの。私だって食べてほしい人がいたから料理を続けたわけだし」
「おっと、当てちゃったか。悪いねぇ」
もう完全に解を得た気でいる。ナギはにわかに眉間に皺を寄せ、なぜか憐れむような目を送っていた。その理由はさておき、これではまだ具体的にどうするか答えは出ていない。つまり不正解。案の定、ルナはいたずらっぽく笑っていた。
「うふふ残念。言いたかったこととは違うわ。じゃあウィル! 正解は?」
指されると思っていた。わかるも何も、それは。
「もちろん、段取りだよ」
ビギナー二人が、へえと声を合わせた。
「そ! すなわち次にやるべきことを常に頭に入れて、滞りなく作業をすること。これに限るわ。全てに通ずるもの」
おもむろに振り返るルナに倣って、みんなで広々とした屋内を眺めた。ケビン宅は戸建てとはいえ、狭い土地に建つ一般的な郊外の家。キッチンだってここに比べれば天と地ほどの差があった。薪の管理が面倒なオーブンだって、屋敷にはコンパクトなガス式が備わる。大きな流し台に、掃除もしやすい余裕のある部屋の規模。でも、だからといってやりたい放題できるわけではない。
「たとえばね。作業スペースを広く使うには、作りながら片付けなければならない。料理っていろんな工程があるから、パズルのようにうまく組み合わせないと回らないの。時間を掛ければ美味しくなるとも限らないし。丁寧に下拵えするつもりが、お肉やお魚を傷めてしまったら元も子もないでしょ? それに、いつまでも出来上がらないなんてお腹空いちゃうもの。手際よくやらないとね」
ナギは相槌を打ちながら、ポケットから取り出したメモにペンを走らせている。
「ひとつ良いだろうか。段取りの大切さはわかった。だが、それを私がすぐに実践するのは厳しすぎやしないか?」
ルナが目を細めてにっと笑う。ついと手にしたヘラはさながら教鞭。今や厨房は彼女の独擅場だった。
「実はとっておきがあるの! 経験を積まなくても、まったくの初心者でも、手際をぐんと底上げできる秘策が! それはね――
必要なことは書いてある。だから、しっかり内容を咀嚼して動きを頭の中で思い描けば、次に何をするかすぐに判断できる、というわけだ。プロの料理人とて、見聞きしたことのないものは作れない。ビギナーならなおさらだ。
ルナは教えられて技術を習得したわけではない。全て自分で本を読んで、その手で実践しながら身につけている。
「なるほど。それで前もってこれをくれたわけか」
ナギがメモの間から四半分にされた紙を取り出した。そこには綺麗な字でレシピがまとめられている。
「ちゃんと予習してくれたかしら?」
「もちろん。……でもまあ、お手柔らかに願いたいね」
熱心な生徒に気を良くして、任せなさいと腕をまくる。ふと、初めて会ったときはひどく臆病だったのに、と不思議になった。文字を教えたから――なんて自惚れは見当はずれだ。考えるまでもない。でも少しだけ、ほんの少しだけそうであったなら。
存在証明だなんて大げさだろうか。しかし他人が自分を覚えていて、わずかでも影響を残したという心強さは、記憶が抜け落ちているからこそよく沁みる。忘れてしまったであろう誰かも、きっと密かに自我を与えてくれたと願いたいから。
「……これじゃ人のこと言えねえな」
ぽろりと口から溢れる。
「は、何が?」
スマッジーが頭に疑問符を浮かべているのがおかしくて、つい笑ってしまった。なんだよと肘で小突かれ、
「ばか、言わせんな。俺も意外とロマンチストかもってことだよ」
お互いあれからずいぶん変わった。でもあの時の思い出が、今も
こころのレシピ 三津名ぱか @willerik0213
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