こころのレシピ
三津名ぱか
ひとみ集う場所
あつい。頭がぼーっとする。それなのに
「苦しいだろうが、頑張ってくれ」
励ましてくれる誰かの声にそっとまぶたを開けると、そこには涼しげな青い瞳があった。目を細めて笑うのは見知らぬ青年。だがその優しい面持ちに、嫌な感じは全くなかった。
「ぼく、おうちはどこかな?」
穏やかな問いかけに首を横へ振る。すると、熱いものが目尻からこめかみを伝ってまっすぐ枕へとこぼれ落ちた。
「おっと……ごめんごめん。無理しなくていいよ。なに、心配するのは後回しってことにして、ゆっくりおやすみ。おれはケビン。よろしくね」
向けられた素朴な微笑みになんと答えればいいかわからず、ただうんと頷いた。
ひたいの布が熱を帯びるたび、大きな手が冷たい水で固く絞り直してくれる。震える体をゆっくりさすってくれる。ちょっとしたことだけど、折れそうだった身も心も彼にしかと支えられていた。訪れた安らぎに導かれるまま、ゆるりと眠りに吸い込まれてゆく。
――それが、覚えている中で最も古い記憶。つい一昨日の出来事だ。
ベッドの上はひどく退屈だった。クリーム色の壁紙に囲まれた、飾り気のない小さな部屋にただ一人。外はあいにくの天気で、雨粒が窓を忙しなく叩いている。まだ昼間だというのに薄暗くて、時折揺らぐガス灯の光が頼りなく通りを照らしていた。石畳を行く足音はまばら。あまり大きくない街らしい。
どうしてここにいるのか考えると、すぐ頭が痛くなる。だって、覚えていることがあまりにも少なかったから。自分は冷たく降りしきる雨の中、道端に倒れていたのだという。この家に運び込まれる前は、真っ暗闇の向こうに覆い隠されている。
初めは何もかもを忘れてしまったのかと思った。でも
なんとなく、それは手放したくなかったものな気がする。うつろな体だけ、世界の
押さえていないと、シャツの襟がどんどんずり落ちてしまう。着ていた服はびしょ濡れだったそうだし、寝るには少し堅苦しい。だから仕方なく大人用の寝巻き上一枚を借りていた。ケビンはさして大柄ではないが、丈ならこれだけで事足りる。袖はたっぷり余ってしまって、いちいち捲るのが面倒くさい。本当は子供服もあるらしいのだが、固く断られたため貸せないんだとか。
おそらく、持ち主は昨日会った女の子だろう。同い年くらいで、深みある緑の瞳に、緩くウェーブした栗色のミディアムヘア。おとなしそう――というよりどこか怯えているふうで、父親の腰にしがみつきながら部屋に入ってきて、名乗りもせず一番にこう言ったのだった。
「いや……怖い。この子髪がまっしろ。それに目が赤いわ!」
そのままぱっと踵を返して一人逃げてしまった。毎日鏡に映していた顔くらい覚えているが、おかしいなんて思ったことはない。平謝りするケビンをどこか他人事のように呆然と眺める。やがて彼も、我が子の後を追って消えてしまった。
「いつもはあんな風じゃないんだ。ごめんね」
少し経ってから戻ってきて、やはりまだ申し訳なさそうにしているのだった。あのときは単に驚いただけだったが、今思い出すと胃の辺りがきゅっとする。ケビンが悪いわけじゃない。でもあの子だって、意地悪をしたかったようには見えなくて、このモヤモヤをどこに置けばいいか余計に悩ましいのだった。
昨日まで熱があったから、これでもまだ気分は良い方――なのだけど。何かで気を紛らわせないと、また悲しい気持ちになってしまいそうで、それがとても怖い。昼も夜もなく寝てしまったから、目を閉じても眠気は全く訪れず、たまりかねて体を起こした。
他人の住処をまじまじと眺めるなんて、やっぱり少し気後れしてしまう。でも、天井ばかりはもううんざりだ。ここは予備の部屋なのか、端に使ってなさげな家具や物が固めてある。
何かないかと見渡せば、壁際に追いやられた古い棚に、一冊の本が忘れ去られていた。小さくて黒っぽい革の装丁で、タイトルは掠れてしまっている。少しは暇つぶしになるかもと、軽く埃を払ってベッドに持ち込んだ。
開いてみるとわずかにカビ臭い。小口はシミだらけだが、長いこと放っておかれていたようで中は意外と傷んでいなかった。透けてしまいそうなほどペラペラの紙に、細かい活字がびっしりと並んでいる。図版は数ページおきに申し訳程度の地図や肖像画が入るのみ。あまり楽しげではない。
(おとな向けだ)
文字は読めても知らない単語ばかりで、言い回しも難しい。頑張って目を通すと、辛うじて歴史について書かれているらしいということはわかった。絵本のような易しさを期待していたわけではないが、これでは
しばらく紙面と睨み合ってみたものの、これ以上は相当な根気がいる。諦めて顔を上げた時、ドアの影にいた女の子とばっちり視線がぶつかった。
「ひゃっ」
小さな悲鳴に慌てて本に目を落とす。しかし、これでは内容がどんなに簡単でも理解できそうにない。たまらずにドアの方をおそるおそる見る。やはりあちらも気になるらしく、淡い黄色のワンピースの裾を握りしめて、前のめり気味にこちらを覗き込んでいた。もうお互い気付かないフリはできない。
「えっと……ケビンさんは?」
何か切り出さなければと、当たり障りなさそうな言葉で場を繋ぐ。彼女は唇を一度きゅっと結んでから小声で答えた。
「お買い物……」
「そうなんだ」
大人の仲立ちを期待したのに、その願いは儚く散った。絶望的に会話が続かない。重々しい沈黙が容赦なく二人の間を流れていく。
「えっと。それ……」
人差し指が黒い本を示している。そこで自分の行いにはっとした。他人の家の物を勝手に漁ってしまったのだ。初対面の印象を和らげるどころか、さらに怪しまれてしまう。
「ご、ごめん! 今戻すから!」
慌てて立ちあがろうとすると、相手は突然駆け寄ってきて手でそれを制した。
「そうじゃなくて……もしかして字が読めるの?」
思わぬ問いかけ。今度は真剣なまなざしが、じっとこちらを見つめた。
「えっ、うん。少しなら。かんたんなのだったら」
内容をきちんと理解できるかならノーだが、文字を追うという意味ではこう答えてもいいはずだ。少女はわずかに緊張を解く。そこでようやく、彼女が本を持っていることに気付いた。
「あなたが良ければなんだけど……お勉強に付き合ってもらえないかしら。わたし、これを読めるようになりたいの」
そう言って差し出されたのは、この部屋に置き去りにされていた物よりもずっと薄く、また二回りほど大きな版だ。あらかじめ指を入れていたページを開けば、読みやすいサイズの活字がすっきりと並べられている。ジャガイモ四つ、牛乳一カップ、バター五十グラム、白身魚が二尾。そして、きれいに焼き色のついたフィッシュパイの挿絵――どうも料理の本らしい。
「前にこれを作った時……って言っても半分くらい手伝ってもらっちゃったけど。えっとね、すごくおいしいって誉めてくれたの。だからもっと他のにも挑戦してみたい。ケビンさんにたくさん喜んでもらいたい、から」
なんだ、と胸の中で安心した。彼女はただ、家族の団欒に割り込んだよそ者が怪しかっただけなのだ。
「そっか。君はお父さん想いなんだね」
心意気に応えると笑顔で示したのに、緑の瞳は泳いでいる。
「……お父さんじゃないの。あの人は」
突然の告白にえっと声を上げた。そういえば親に「さん」付けなんてあまりしない。
「わたし、引き取られてきたんだって。赤ちゃんの時だったから、ほんとうの両親のこと、ぜんぜん覚えてない。でもね! ケビンさんは大切な家族なの。貰うばっかりじゃなくてお礼をしたくって。……昨日あんなこと言ったのにお願いだなんておかしいわよね。あなたに会って、どうしてか背中がぞわぞわしちゃって。瞳の色が珍しいからかしら。その……ごめんなさい」
熱を込めて語り始めたのに、次にはしゅんとうなだれる。でも、なんだか少しだけ心が浮き立つような気がした。けして明るい話題ではないけれど、相手は嬉しくないかもしれないけど。歩み寄ってくれた喜びが、ほんのりと体の芯を温める。
「そんなの平気だよ。それよりオレも君とおんなじ……ううん、もっと空っぽかもしれない。思い出せないことを考えるって、すごく疲れるんだよね。だから、違うことで気を紛らわせられたらいいなって。誰かのためにできることがあったら、オレも嬉しいよ」
自分で口にして、ちょっぴり寂しさが胸を刺す。少女は本を閉じて、ベッドの縁に浅く腰掛けた。
「ねえ。あなた、もしかして良いおうちの子なんじゃないかしら。着ていた服もすてきな仕立てだったし、歳もあまり変わらないのにすらすら読めるなんて、そうとしか考えられないもの」
「うーん、どうだろう。もしかしたら探しに来てくれたりするのかなぁ……。じゃあさ、その間だけでも君のお手伝いをさせてよ。オレだってケビンさんにお礼したいし」
今までぎゅっと寄せていた眉が開かれる。いつのまにか雨は止んでいて、窓から射す光が揺れる髪の上できらりと波打った。
「ありがとう。わたしルナっていうの。あなたお名前は?」
「ウィリアム。たぶんウィルって呼ばれてた」
互いに自然と手を差し出して、しっかりと握手を交わした。
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