ジョーダンの思い出

肥後妙子

第1話 昭和から遠いところに

 ひとっ風呂浴びて台所に麦茶を飲みに行くと、息子の圭志が居間のテーブル上のパソコンに向かっていた。動画を観ているようだ。

 僕は麦茶を磨りガラスのコップに淹れて、飲みながら圭志の背後に近付き、パソコン画面を覗き込む。画面には激しくも華麗な動きをする青年が映っていた。


 ブレイクダンスだ。少しだがそう判断出来る知識は僕にもあった。

「オリンピック、これもやるんだっけな」

 僕は圭志に声をかけた。圭志はパッと振り向くと嬉しそうに会話に乗ってきた。

「そう。俺のクラスのきい君がブレイキン習っててさ、今日体育の時間にマットの上でちょっとやって見せてくれたんだ。パワームーブとかなんか」

「パワーム……?へぇ、十歳になるとそういう習い事してる子もいるのかあ。カッコ良いよな、ブレイクダンス」

 父と子で並んで動画を観ていると、画面の中の青年は、素早く片手だけで倒立し、数秒静止した。


「この技、ジョーダンって言うんだって。きい君やって見せてくれたよ」

「ふーん、凄いなあ」

「この技はね、わりと憶えやすいんだって」

「あ、そうなのか……あれ、見たことあるような」

「ふーん。メジャーな技だから、テレビとかじゃない?」

「いや、直接見たことが……ずっと昔……小学校低学年だったな……」

 僕は麦茶を口の中で転がすように飲みながら頭の中の記憶を引っ張り出そうとした。

「お父さんの同級生とかにブレイクダンサーいたの?」

「いや、いないと思う……うん?憶えやすい技ってあ、そっか……そうなんだ」

「思い出したの?」

パソコン画面の中では踊り手が交代した。さっきの青年より年下らしい若者だ。


 僕は画面と圭志の表情を交互に見ながら遠い昔の思い出を話し初めた。

「お父さんがお前より小さかった時にな、さっきのジョーダンて技をやって見せてくれた同級生がいたんだ。運動神経の良い男の子だったと思う。ぼやっと憶えてる」

「へぇ、習ってたの?その子」

「たぶん違う。たしかその前日かもう少し前にテレビでブレイクダンスを特集した番組があって、真似できるって話になったんだと思う」

「へぇ、学習能力高いね」

「ジョーダンは片手の逆立ちに近いから、逆立ちできる子が勢い付けてやってみたんだと思う。ちゃんとした形になってたかは覚えてないけど、子供の目にはカッコ良く見えたからみんなで盛り上がったなあ」

「きい君も憶えやすいとは言ってたなあ」

「うん、でも先生に見つかって怒られたんだよ」

「え、なんで?」


「先生が言うには、片手で逆立ちなんて危ないって理屈だったんだけど、そのうちなんか違う事を言い始めた」

 パソコン画面の若者は身体を捻りながらジャンプしていた。凄い。

「その子もお前の友達のきい君みたいに、体育マットを使って技をやってたんだ。だから危なくないって反論したと思う。ジョーダンを見せてもらったみんなで。そしたら、先生は」

「うん」

「アメリカのギャングの真似なんかするなって怒り始めた」

 

 多分その時初めて、僕はブレイクダンスがギャングの抗争の中から生まれたと知ったのだ。周りにいた同級生達もほぼそうだろう。でもそれは怒られた当時でもすでに遠い昔の事だった。

「えっ、古い」

「今ではお父さんもそう思う。でもその時は先生が正しいのかなと思ってしまったんだよな。その場の雰囲気で多分みんなも」

「えー」

「だって、お父さんがお前より小さかった時って昭和時代だぞ。今は令和で、昭和から遠いところにいるからそう言えるんだよ。」

「昭和ダメじゃん」

「第二次世界大戦を若い時に経験した人がギリギリ現役世代に沢山いたような時代だ。難しいよ。あ、お前風呂入らないと。お母さんに、また順番を止めるなって文句言われる」

「あ、分かった。ちょうど良いから入る」

 ちょうど動画が終わったところだ。

「お父さんもブレイクダンスみたいからパソコンそのままで良いぞ」


 息子が湯船に去った後も僕はパソコンでブレイクダンスを見学した。ブレイクダンサー達はきっと怪我と戦いながら鍛錬を積んでいたのだろう。きっと僕が小さかった時代以前から。


 そして長い時間が経ってブレイキンはオリンピック種目になった。

 あの時の先生のような偏見を持った人は確実に減るだろう。いや、もうすでに減ってきている筈だ。


かつてのブレイクダンサー達は報われたのかな。だったら良いのだが。

 画面の中のブレイキンを見ながら私はそう思った。


                  終


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ジョーダンの思い出 肥後妙子 @higotaeko

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