第6話 稗田阿礼

 一試合はあっという間に終わった。樒の圧勝である。樒が「もう一試合!」と叫んだところに、カインが「それ僕の台詞では」と口を挟む。

 だが、春子はそんな二人はよそに、立ち上がって、ずいずいとアレンたちの方まで歩いた。茜の襟首をわしりと掴む。

「ごめんね、あたしも仕事があるからさ。茜とこれからもよろしく」

「あ、あのっ!」

 そこで樒が興奮と緊張で真っ赤になりながら叫ぶ。春子はん? と首を傾げた。

「さ、サインください!!」

「いいよ。ペンある?」

 幸い、色紙はアレンの家にあったため、そこに春子がサインをする。「東雲春子」という文字をお洒落に崩して、若葉をちょんちょんとつけたり、小鳥を留まらせたり。ちょっとしたイラストみたいなサインだ。字も綺麗である。

 樒は憧れの人からのサインを受け取り、感動に目を輝かせ、ありがとうございます、と頭を下げた。

 これくらいお安い御用さ、と爽やかに言って、春子さんは帰っていった。茜が首根っこ掴まれてぐええ、といっていることには誰も突っ込まない。

 樒は、紙の匂いをすんすんと嗅いで、サイン色紙を抱きしめる。それはもう嬉しそうだ。

「よかったね、樒ちゃん」

「うん!」

「さてと、姉貴」

 カインが呼ぶのでアレンはん? とカインを見た。

 黒く黒く、どよんとした瞳がアレンをじっとり見上げている。

「学校で何があったか、聞かせて」

「……はい」

 カインはアレンの態度から、何かあったことは間違いない、と見通していた。茜も何かを言いかけたのだ。

 そんなカインのことを察しがいいなあ、とアレンはいつも思う。カインの察しのよさ、というか、空気を読む力は昔からすごかった。

 両親が食事中に大喧嘩をしたとき、たった一言で二人を正気に戻したとき、アレンはカインがすごいことに気づいた。夫婦喧嘩のきっかけはほんの些細なことだったと思う。境内の掃除が行き届いていないだとか、舐め箸はだらしがないとか、そんな感じの小言が飛び交ったのがヒートアップした感じだ。

 普段は仲のいい夫婦だが、一度怒ると、山の麓まで聞こえるのではないかというほど声が大きくなる。大きい声がアレンは怖かった。けれど、次の日にはお父さんもお母さんもいつも通りけろっとしているだろう、とアレンはやり過ごそうとしていたのだ。それくらい、両親を信用していたし、それくらいなら我慢できると思っていた。

 だからその日の喧嘩はなかなか終わらないなあ、と噛みすぎて味のしなくなったごはんを噛み続けながら聞き流していた。

 ふっと一瞬だけ、二人の怒声が止んだそのときだ。

「ごちそうさまでした」

 カインがそう言った。それだけで、夫婦喧嘩は収まった。

 カインは両親に何も言っていない。大声を出したわけでもない。ただ、狙いを研ぎ澄ましたようなタイミングで「ごちそうさま」と、当たり前のことを口にしただけだった。

 カインは少食で、ごはんもみんなより少なめで食べる。それでも残すことがたまにある。それがこういう食事中に喧嘩があったときだ。

 空気を読んで、誰も傷つけることなく、正気に戻す「ごちそうさま」を言えるカインのことをアレンはすごいと思った。気を遣ってごはんを残したのだろうか、とアレンが小さなおにぎりを握っていくと、カインは「食欲、本当にないから」と言った。その夜食は翌朝の朝食になる。

 まあ、人ががみがみ怒っている脇でごはんを食べていたくないのもわかるが、カインは間を読むのが上手いのだと思った。

 本人は意識していないのかもしれないが、人の様子を見て、このタイミングなら言葉を止めざるを得ない、気を抜くのにちょうどいいところを見極めるのが上手いのだと思う。会話の抑揚を捉えるのが。だから、少し話しただけで、その人がどういう精神状態なのか察せられるのだ。

 樒と遊んで別れたり、連れて帰ってきたりするのも、樒のそういう波長を読んでいるのだと思う。樒も「カインって気が利くけど、気を利かせてる感じがしなくて付き合いやすい」といつだったか言っていた。

 だから、カインには敵わないなあ、とアレンはいつも思う。

「実は、今日、階段踏み外しかけて」

「はあ!?」

「わ、私のおっちょこちょいだから! ね、落ち着いて。結局落ちなかったし」

 カインについて心配事があるとすれば、異様に姉であるアレンのことを気にかけることだろう。シスコンという言葉が、時折アレンの脳裏をよぎる。

「おっちょこちょいだとしても、穏やかじゃないよ、お姉。怪我はなかったの?」

「うん、通りかかった人に抱き止めてもらって」

 カインがものすごい顔になる。なんだろう、ものすごいという言葉しか出て来ない。般若とか、能面とか、様々な言い様はあるだろうが、とにかく、なんだかものすごい顔だ。感情を全部入れてスムージーにしたような、ものすごい顔。

 一方、樒はぴゅう、と小気味よく口笛を鳴らした。明らかに茶化す勢いでアレンに聞いてくる。

「もしかして、一目惚れ? 一目惚れ? どんなやつ?」

 興味津々に聞いてくる樒に、アレンはなんだか安心する。樒に年相応の好奇心というか、野暮ったいところがあるのが、人間らしくて、生き生きしているのが嬉しかったのだ。

 そこでふと、気がついた。そもそも何故今まで気づかなかったのか、ということに気づいたのだ。

「ねえ、もしかして、樒ちゃんのお兄さんの名前、おおのやすまろ、だったりする?」

 瞬間、樒の表情が凍りつく。それで、全てわかってしまった。

 カインも深刻そうに顔を俯けている。

「姉貴、それってつまり、『見つけた』ってこと?」

「わからない……」


 アレンの前世──稗田阿礼は、古事記の編纂者として有名だ。それゆえに、学問の神などと奉られ、稗田神社というのは各地に存在する。

 阿礼と共に古事記を編纂したことで歴史的に名を残した人物。それこそが太安万侶である。

 阿礼が暗誦したものを安万侶が文字として書き出した。膨大な情報を記憶し、暗誦した阿礼も、それを全て文字に書き起こした安万侶も天才と言えよう。

 天才と言うのが大袈裟でも、非凡なのは間違いない。

 非凡な阿礼はあの後、浮いてしまった。立派なことをしたはずなのに、阿礼が来るとその場からは人が去っていく。要するに、避けられたのだ。

 そんな阿礼に歩み寄ってくれたのは、一人だけだった。

「稗田殿。彼の暗誦のこの部分はこの解釈で合っているだろうか」

「確認いたします」

 阿礼は彼の示したページに触れ、その能力で意味を読み取った。

「さすがでございます。一文字たりとも、間違いありません」

「それはよかった」

 ただ、お国のための大切な書物を編纂するためだけだったのかもしれないけれど。

 太安万侶だけは稗田阿礼から離れていかなかった。


 だから、阿礼は安万侶のことが好きだった。なんでもない話だってしたことがある。

 その心がアレンに染み着いて剥がれないのだ。たぶんきっと、太安万侶にしか、恋ができない。

 樒が静かに聞く。

「お姉は、お兄のこと好き?」

「まだ、わからない。けど……」

 目があの方にそっくりだった……

 そう呟いたのは、きっと阿礼だった。

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今は昔、時に魂宿れども 九JACK @9JACKwords

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