第5話 東雲茜
百人一首、詠み手はアレンで始まりかけたとき、ぶぅん、とバイブレーションが鳴る。
誰のケータイかと思ったら、茜が手を挙げた。
「ごめん、母上からだわ。出てくるネ」
別に茜は百人一首をするわけではないので、始めても何も問題はないのだが。
樒が声をひそめてアレンに問いを投げる。
「茜サンのお母さんって、確か東雲春子さんですよね? 声優の」
「うん。結構売れてる人だって聞いたよ。吹き替えとか、アニメとかやってるみたい」
「最近ヒットしたのは吹き替え版の海外ドラマでしょ。タイトルは『ドーナツが食べたかっただけ』」
カインがタイトルを口にすると、樒は「そう!!」とカインの方に乗り出してくる。興奮気味だ。
「他にもアニメでは『お菓子な勇者の魔王を倒すレシピ』の師匠役とかやってるし、吹き替えなら韓国ドラマの『アリア~無償の愛~』とかも好き! なんだろう、あのお母さんというより師匠って感じがたまらなく世界観に合っているのよね。静かに見守る役、吐息一つ一つまで世界観を表していて」
「つまり、ファンってこと?」
「滅茶苦茶好き!!」
頬を紅潮させる樒。普段は三白眼といっても過言ではないくらい目付きが悪い樒が、年相応の笑顔を浮かべている。
カインといるときは笑う方だが、それとはまた違った笑い方で、アレンは微笑ましく感じた。
茜の母、東雲春子は声優として活動している。ボーイッシュな声でクールな少年から少年誌の主人公のような声まで演じ分けられ、女声としても、可憐な少女の声から妖艶な大人の声、年嵩を重ねたおばあさんの声までできてしまう、七色の声の持ち主と言われている。主演作品が少ないのも特徴で、ファンからはもっと主役級の声をやってほしい、もっと有名になってほしい、などの声が多く上がっている。
最近の声優には珍しく、顔出しNGとのことで、その素顔を知る者は少ない。
「声優も今やメディアに引っ張りだこの芸能人ですもんね。私生活への支障とか考えたら、顔出しNGも仕方ないのかな……でも、娘がいるのは茜サンに会ってから聞いた初耳だったんですよ」
「そりゃ、それが一番東雲さんが隠したい情報だからね」
「アラフォーが結婚してても別にふーん、としか思わないんだけど」
「樒、気づいてないんだ」
カインに名前を呼ばれて、樒はきょとんとする。カインは憂鬱そうな声で告げた。
「あの馬鹿が母親のことを口に出しても、父親のこと話したことあった?」
「……え?」
小学生の頃からの知り合いである。授業参観は母親が来るもの、という固定概念はなくなりつつあるものの、授業参観に来るほとんどは母親だ。茜も例に漏れない。が、まあ樒とカインとは学年が違うので知らなくても無理はない。
カインの言う通り、茜が父親の話、父親の存在を匂わせたことは一度もない。
アレンが眉尻を下げて、こっそりと言った。
「東雲さん、結婚してないの」
「え、事実婚とかですか?」
「ノンノンノン」
そこへ話題の当人が帰ってくる。
ひそひそ話していたので、茜の大きな声の介入に主に樒がびっくりした。どこから聞いていたのだろうか。
「あたしは養子ダヨ☆ 捨て子なの」
滅茶苦茶重そうな過去を茜はウインクを添えて告げた。
あまりの軽さに樒が思わず「なにて?」と聞き返してしまう始末である。
「母上は独身主義なのサ。ま、なんであたしを引き取ったのかは、これから来るご本人に直接聞いてくれや」
「え、東雲さん来るの?」
「うん、口説いた」
「口説……!?」
樒が絶句する中、アレンとカインは茜らしい表現した。
茜の独特の言い回しは茜の特性から来るものだ。もしかしたら、様々な役を演じる春子の影響も受けたのかもしれない。
「母上に帰ってこいって怒られたんだけど、アレンちゃん家にいるって言って、百人一首やるから来てって言ったら『三時間後に仕事なんだが?』ってフラれそうになって焦ったー」
「三時間後に仕事の母親をよく呼び出せたね」
「早く帰らなきゃならないんだったら先に言ってくれればいいのに」
「待って、カインとお姉はそこなの? どうやってそこからここに来るよう取り付けたかじゃなくて?」
そんな樒の疑問に、二人は顔を見合わせ、頷き合う。
「茜のことだから、樒が春子さんのこと力説してるの聞かせたんでしょ。そういうところあるからな」
「えっ」
途端に顔が真っ赤になる樒。先程の東雲春子語りはご本人様に筒抜けだったわけだ。
ファンの力説、細かな好みと番組名まで出されては、春子も絆されてしまったのだろう。樒が静かに話していたつもりでも、スピーカーモードで聞かれていたのなら、打つ手はない。
茜はこういう狡猾なところがある。そこが信用のおけないところであり、信頼のおけるところでもある、とカインは考えていた。
「メディアに顔出さないだけで、普通に生活はしてるからね。『母上の大ファンが百人一首やるってよ。思い出の一ページのために詠んであげたら?』って口説いた♪」
「それで口説かれちゃうんだ……」
アレンが苦笑いする横で、ポケットから棒つきキャンディを取り出したカインがキャンディを口に含みながら頷く。
「東雲さんは情に厚いし、年下の女の子には弱いんだよ」
「ロリコンみたいな言い方はよせやい」
「誰もロリコンなんて言ってないでしょ」
「言った!! 今言った!!」
「餓鬼かあんたは」
茜がこんななので、母親の春子はどんな感じなのか、と一抹の不安を覚える樒だったが。
「お邪魔します。うちの茜がお世話になっております。少しばかりですが、お礼に」
丁寧に菓子折りを携えてやってきた短髪の麗人こそ、東雲春子だった。
百七十センチは悠に超えるであろう高身長、長い手足が綺麗に見える服のコーディネート、さっぱりとしたボブカットの黒髪は艶やかで、桜色の色素の薄い瞳が目を惹く。
「母上の東雲春子です!」
「母上呼びやめい」
茜に軽くでこぴんする春子。とてもアラフォーには見えない。
何より声優の生命線である声。澄んでいて、どこにでもいそうな雰囲気を持ちながら、心地よさを耳朶に残す。樒ははわわ、と生声にうっとりしていた。
「ほ、本物……」
「あたしに偽物なんていないと思うがね。声からして、きみがあたしのファンって子かい?」
そこ声で聞き分けるんだ! と一同は感嘆した。
樒は緊張しつつ、がばっと頭を下げる。
「お、多樒と言います! はじめまして!!」
「ふふ、こんな若い子に好かれるなんて悪くない気分だ」
「! それ、映画の『紅茶クッキーとジンジャーエール』のクラリスさんの台詞ですよね!?」
「お、よく知ってるねえ」
どうやらマイナー映画の吹き替えまで把握しているらしい。一発で当てた樒も樒だが、それを演技っぽくなく自然に言えてしまう春子もさすがだ。
「やー、いきなり来て悪いね。ちょうど競技かるたを題材にしたアニメのアフレコが近くにあるんだ。勉強させてってくれ」
それから、春子は茜の頭をばしばしと叩きながら尋ねる。
「うちの馬鹿
「えっ」
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