燈火の器

帆尊歩

第1話 燈火の器


 

その灯りは、淡く揺らめいていた。

それ一つでは何一つ照らすことが出来ない、弱い、弱い灯りだった。

でも無数に集まると、それは一つの道を示し、存在を誇示する。

ここが公園であることすら忘れてしまうほどの漆黒の闇。

その中に淡い灯りだけが道を示し、私はその灯りを頼りに歩いてゆく。

すぐ横に由香が歩いているはずなのに、その顔はおろか、その存在すらわからない。

私は手を出して、由香の手を握りたい衝動に駆られる。

でもそれは由香の手を握りたいのではなく、この漆黒の闇の中にいるのが自分だけではない、という確たる証が欲しいからだった。

此処はどこなんだ。

私は自問する。

ここは。

確かに公園の中のはずだ。

「いるかい」と私はどうにも我慢が出来なくなって、由香に声をかけた。

「はい」と乾いた声で、由香は返事をしてきた。

その声を聞かなければ、私はその存在を聡子にダブらせていたかもしれない。

由香と聡子をダブらせなかったのは、私に残された最後のモラルだった。

「どうしました」と由香の声が聞こえた。

「いや」

「何か見えたのですか?」

「何かって?」私は、悪さを見透かされた子供のように聞き返した。

「毎年この闇にまぎれて、ここを訪れた人の、恋しい人がやって来ると言います。

この闇の中にその存在を少しでも感じたら、本当にその人の想いが、あなたに逢いに来ているのだと言い伝えられています」

「馬鹿な」

ここは。

ここはいったいどこなんだ。

私は自らに問いかけた。

此処はいったい。



奈良では、八月の初めに燈火会というイベントがある。

広大な公園とその周辺の街の照明を消して、無数のロウソクで全てを照らすイベントだ。

私が大阪に転勤になってまだ一年とちょっと、そんなイベントがあることも知らなかった。


夏の大阪は暑い。

大阪には環状線というのがあり、その駅の一つ、鶴橋から、近鉄に乗ると古の都に着く。

そこがイベント会場だ。

横にいるのは、由香だ。

そもそもこのイベントを知ったのは、由香に言われてだった。

短期のバイトで入った由香は初めから不思議な娘だった。

誰とも関わらない頑なさと、何か人に知られてはならない何かでもあるような、不思議な雰囲気を持っていた。


帰る方向が同じと言うことで、良く私達は、会社のある駅のプラットホームの天王寺へと向かう、上り電車のベンチに二人で座っていた。

十歳以上はなれた若い娘とベンチに座り、三駅という短い区間ではあるが、同じ電車で帰るというのは悪い気はしなかったが、由香には何処か近寄りがたい雰囲気があった。

大阪の夜のうだるような暑さの中、由香は、長袖のシャツを何枚か重ね着していた。

それは何かから隠れているような印象だった。

何か事情があるのは明らかで、そこには妻に逃げられた中年男の悲哀に何か通ずるものが遇ったのか、何処か心が通じ合っていたように思う。


私は一昨年妻と離婚していた。

妻が全国転勤の私に愛想を尽かしたからと思っていた。

だから離婚が成立した直後大阪に転勤が決まったのは、気分転換としては良かったのかもしれない。

帰りので電車の中で、自らそんな話をしてしまうほど由香は不思議な雰囲気をもっていた。

大阪の大和路線の深夜近く、天王寺へと向かう人はホームに私達しかいない。

汚いベンチに座り、暑い、暑いと言い合う私達、そんなとき由香が言う。

「奥さんの事はもう愛していないんですか」普通そんな事を言われれば大きなお世話と思うが、粘り着くような夜の暑さの中で、私は答えてしまう。

「出会った頃の聡子なら今も愛している。でもお互いに変わってしまったんだ。だから、今の聡子は愛していない」

「もうこの世にいない人を愛しているんですね」

「なんだよそれ」

「私も愛した人がいました。でも変わってしまったんです。喜一は、私をストーカー呼ばわりして、私に罵声を浴びせた。あんなに愛し合ったのに」

「ストーカーしちゃったの?」

「さあ、どうなんでしょう。でも警察には連れて行かれました。そこでもう近づかないという誓約書を書かされて、そんな喜一にはもう遭うことが出来ない。いえ会いたくもない、でも出会ったころの喜一なら、もう一度会いたいですね」

こんなお互いの深い思いを語り合うなど、普通では考えられない。

きっと由香の不思議な雰囲気と、大阪の茹だるような暑さの中、深夜のベンチに座っているという特殊な環境が、言わせたのかもしれない。

そんな中、由香の誘いで、この燈花会に来たのだ。


日が暮れかかり、空が水色からブルーに変わり、段々そのブルーは濃くなっていく。既に設置された燈火の器に係員が配置される。

器の中のロウソクに火がともされ始めると、空は濃いブルーから、闇へと変わっていく。

建物の光が消され、看板が消され、街灯まで消される。

街は漆黒の闇へと変わっていく。

すると配置された器が道を形作り、街は全く別の世界に変貌する。

「この暗闇に紛れて、恋しい人が会いに来てくれると言います。誰に会いたいですか」

「出会ったことろの聡子に会いたい」

「私も、変わる前の彼。もう何処にも存在しない、あの優しかった喜一に会いたい」

「じゃあ変わる前の聡子は、もう何処にも存在しないと言うことか」

「そうですね。だからこそ暗闇に紛れて会いに来てくれるかもしれない」

「そうなのかな」

「きっとい会いに来る」それは由香の感想というより、願いのように聞こえた。

辺りは漆黒の闇に包まれ、横にいる人の顔も分からない。

「さあ、愛しい人を探しに行きましょう」


歩き出すと由香は喜一の事を語りだした。

「喜一は私のお菓子の師匠でした。私はパティシエになりたくて大分から出てきて、喜一の店に就職しました。

喜一は今をときめくカリスマパティシエで、田舎から出てきた小娘が恋に落ちるなんて簡単なこと。あまりに多くの私の知らない事を教えてもらい、様々な所に連れて行ってもらいました。

でも喜一は変わってしまった。

私をストーカー呼ばわりして、警察に突き出したんです」

「じゃあもう愛していないでしょう」

「でも優しかった喜一の事は、今でも愛しています。だから私は、もうこの世に存在しない喜一をずっと愛し続けている」

「そうなんだ」

「聡子さんの事は愛していないんですか」

「今の聡子は愛していない。聡子は変わってしまった。あの優しかった聡子はもう何処にもいない。離婚の時、お互いに罵声を浴びせ合った。この世の物とは思えないくらいの泥沼離婚だ。でも僕は聡子の事を本当に愛していた。聡子があんなになるはずはない。聡子を変えてしまったのは僕なんだ。僕が聡子の事を何も考えずに・・。だから今なら思う、聡子に謝りたい」

「今の聡子さんにですか?」

「いや出会った頃の聡子に」

「今日、会えると良いですね」

「君も喜一に会えるといいね」


私達はもう存在しないお互いの本当に愛した人に出会うため、暗闇の燈火の器だけが行く道を示す、広大な公園をさまよった。

すれ違う人達、でも暗闇で顔も確認できない。

私は変な不安感に苛まれる。

そしてふと触れた手を握る。

それが由香の手だと、頭では理解出来る、でもその不安感は払拭されない。

手は強く握り返される。

不安感は私にその手に、さらに力を込めさせる。

どこからか笛の音が聞こえる。その音色は、優しく、そして酷く切なげだった。

記憶の底の全てをさらけ出されるような、そんな音色だった。

そしてそのとき私は思った。

なんだ、聡子はここにいるじゃないか。

この手をつないだ女が聡子なんだ。

「逢いに来て。私に逢いに来て」その言葉は既に由香ではなく、聡子だった。

ああ聡子も私に逢いたくて、ここに来てくれたんだと思った。

「聡子」

それは言葉に出して、呼びかけていたのか、自らの心の内だけで叫んでいたのか、分からなかった。

ただ私は、横にいる聡子を抱き寄せた。

この華奢な体は、強く抱きしめると壊れそうだった。

でも私は強く、強くその体を抱きしめた。

聡子はここにいるじゃないか。

はじめからここにいたじゃないか。



私たちは、来るときに買ったペットボトルのお茶を飲みきってしまっていたので、カキ氷を買うと、ベンチに座って光の川と化した燈火の器を眺めていた。

カキ氷のせいか、とめどもなく流れていた汗も、やっと引いていた。

すでに隣にいる女は由香ではなく、聡子になっていたし、私は隣の女にとっては、私ではない誰かになっているはずだった。

私は聡子を感じようと、全神経を尖らせた。

「出会った頃のこと、覚えている?」と女が言った。

「ああ、覚えているよ」と私が言った。

「あの頃が、一番良かったのかもしれないね」

「ああ、あの頃が良かった」

「ねえ、あの頃に戻ったら私たち、こんな風にはならなかったかしら。もっと仲良く、幸せだったかしら」私は言葉に詰まった。所詮私は私だ。たとえあの頃に戻ったとしても、同じことを繰り返していそうな気がする。

「どうだろう。ただ戻っただけじゃだめだ。今のこの状態をわかっていたなら、今よりはましだったかもしれないけれど」

「今の私を、愛している」と女は恐る恐る尋ねた。

「愛していない」と私は言い切った。

暗くて顔も確認できない女から、明らかに落胆のため息が聞こえた。

今は決してお互いのことを慰め合うときではない。

だから私は続ける。

「愛していないと思う。愛していたのはあの頃のお前だ。お前だってそうだろう。決して今の僕なんか愛していない。やはり愛していたのはあの頃の僕なんだ」

「そうかもしれないね」

「どっちが変わってしまったんだろうか。僕が変わってしまったのか、お前が変わってしまったのか」と私が言う。

「私が変わってしまったから、あなたが変わってしまったのかしら」

「きっとどちらが先かなんて関係ないんだ。どちらが先だろうと、僕らは変わっていったんだ」

「それじゃ、私たちはいずれこうなることが初めから決まっていたの?」

「多分そうなんだろう」

笛の音はいまだに流れている。

淡い灯火の光によって、人々はぼんやりとしたシルエットになって、あちらこちらをさまよっている。

そしてベンチに座っている私たちも、お互いの顔はわからない。

隣にいる女は完全に私の中では聡子になっていた。

そして女の中で私は、私以外の誰かになっていることだろう。

私たちは、出会ったころのお互いになるために、その暗闇の中で心を開いていった。

私は私なりに、過去に戻り自分を見直す。

そして、女も自らの過去に戻るべく、もう一度私の腕にしがみついた。

いったいどれほどの時間が経っただろう。

膨大な光の川と化していた燈火の器が、一つまた一つ、その灯りを消してゆく、それは、この幻想世界の終わりを告げるものだった。

私たちは、どちらともなく立ち上がると、その場を後にした。



そこは、完全な暗闇であったはずなのに、目が慣れるに従い、窓の外の濃い青が、その窓の形を示していた。

何も見えない。

ただ部屋の中の漆黒の闇と濃い青の色の違いが感じられるだけの空間。

それ以外は、何一つ見ることは出来ない。

かすかに、女の息遣いだけが感じられる。

唯一、そこにいるという、息遣いだ。

わずかな空気のゆらぎまで感じられる。

私は、女の隣に横になると、ゆっくり腕を女の首筋に差し込む。

すると女は私の胸の中に入ってきた。

息遣いがさらに大きくなると、私の浴衣のはだけた胸に、かすかで暖かな息づかいが触れる。さらに、私は、反対の腕も女の背中に回し、強く抱きしめた。

すると、女の頬が私の胸に当たり、少しだけその暖かさが増した。

何も見えない漆黒の闇の中だからこそ、そんなささやかな女の息づかいまで感じることが出来る。

あたかも、壊れやすいガラス細工を恐る恐る扱うように、それがまた暗闇だからこそ、さらに弱々しく女の体に触れる。

女も同じように思っている。

女にとって私は、私ではない誰かだ。

そして私も、女が由香なのか聡子なのか、分からなくなっていた。

いや、今となってはどちらでもいい。

触れ合うことは、なぜこんなにも心地がいいのだろう。

かつて、聡子に出会って間もないとき、仲間同士でカラオケに行った。

私の隣に座った聡子は、次から次へと歌を歌い、それにつられて下手くそなはずの私も少しだけ歌った。

おどおどと声を出す私に、聡子は手拍子をして応援してくれた。

そのうちに、聡子が私のひざこぞうを触っていることに気付いた。

それは、聡子の無意識のスキンシップだった。

でも私には、明らかな性的な興奮があった。

なぜその手の印象は、こんなにも暖かいのだろう。

まるで中学生のように胸が高鳴りながら、なぜこんなも暖かいのだろうと私は思っていた。

布団の上で触れ合ったときの心地よさに、そんなことを思いだした。


聡子と初めて体が触れあった時。

あの頃の私は、むさぼるように、そのぬくもりを、体全体で感じようとしていた。

時にそれは、聡子にとって苦痛だっただろう。

でもその頃の私には、そんなことを思いやる余裕はなかった。

ただ私は、自らの渇望を満たすだけのために聡子を抱いた。

何故、あの時もっと優しく出来なかったのだろう。

そこにあったのは、後悔なんてものではなく、まさに罪悪感だった。

まるで、その時の聡子に罪の許しを請うがごとく、私は弱々しく震える手で女を抱いた。

抱きしめた女は、すでに私にとって聡子だった。

すでに冷めてしまった関係の聡子と肌をあわせても、それは義務的なマスターべーションのようだった。

では、この感覚はなんだ。

まだ出逢って間もない頃の聡子だ。

今、私の腕に中に弱々しくうずくまる女は、あの頃の聡子だ。

さらに目が慣れてきた。

でもそこにあるのは、女であるという輪郭が分かるだけで、その肌の質感すら分からない。

それを確かめたい欲求を満たすには、触れ合うしかない。

私は、ゆっくり女を抱き起こすと、浴衣を脱がした。

すると、女も同じように私の浴衣を脱がす。

私は、質感を確かめるように、女の背中や腹に手の平を這わす。

汗ばんだ女の体はリアルな性を感じた。

複雑な起伏を持つ女の体を確かめながら、その手の平から伝わる暖かさを、もっと感じたいと思った。

しだいにそれは、渇望へと変わってゆく。しかしそれは、あの聡子を暴力的に抱いたときの枯渇とは、全く違うものだった。

私は我慢が出来なくなり、女の体を抱きしめる。

それがひどく落ち着くのは、この女がすでに聡子だからか。

初めて聡子と肌を合わせたとき、聡子はかすかに震えていた。

それは、私という人間に、これからの人生を託すことへの覚悟と、最後の不安だったのだろう。それなのに、私はその不安を現実の物としてしまった。

あの時、かすかに震える聡子にぶつけたのは、そのときの欲望だけだった。

何故、今になってあの時のことがわかる。

なぜこんなにも、あの時の聡子が大事に思える。

もう全てが遅いのに。

何もかもが終わってしまった後だというのに。

それでも私は、聡子に償うかのように優しく、優しく、その女の体を抱いた。

それは、この世でもっとも大切なものを愛でるように、慈しむように、そしてその所有を喜び、神がその存在を作ったことに感謝するかのように。

聡子と化した女の体からは、そのささやかな暖かさから、熱い物へと変わり、私の中に流れ込む。

それは、私の錯覚だったのかもしれない。

でも何も見えない漆黒の闇の中では、それは女を感じる確かな想いとなって私に流れこんだ。

それが女の、私でない誰かに対する想いであるのは痛いほどわかる。

それでもいい。

私はその深さや、熱さを、全身で受け止めた。

それはあまりに重く、それが私に支えられるのか不安になる。

でも支えなければならない。

それがこの女に対する、感謝の気持ちでもある。


私たちは他人のまま、全ての想いを交換した。

それは他人である事が、お互いに分かっていたのに、あたかも、お互いの求める者であるかのように感じられた。

それはこの暗闇のせいか、それも燈火の器を見続けていたせいか。

いずれにしろ、私たちはその暖かさにおぼれながら、その暗闇が、唯一お互いの世界であるかのごとく、いつまでも、いつまでも抱き合っていた。



朝の光は、世界をいっぺんさせていた。

そこは旅館の一室であり、かすかに木の香りと畳の井草の匂いがする。

開け放たれた窓は、網戸になっていて、窓からはまだ朝だというのに夏の熱気と蝉の声が入ってくる。

じっとりと寝汗をかいた私の横で、由香が汗をかきながら眠っている。

額には髪の毛が張り付き、少し開けた胸のふくらみには、玉の汗がにじんでいた。

私はゆっくり起きだすと、少しだけ開いた由香の浴衣の胸をあわせてやると、窓のところまで行き外を眺めた。

昨日のことが夢のように、私の中に広がる。

私は他人のままで、由香を抱いた。

いや由香ではない。

私が抱いたのは私の中に今だ住んでいる、聡子を抱いたんだ。

いつしか一緒に歩いていたのは由香ではなく、聡子になっていた。

「おはようございます」と声をかけられ、私は驚いて窓から振り返った。

由香がいつの間にか布団の上に座っていた。

「ああ、おはよう」

由香は汗を拭きながら髪をかきあげると、けだるそうに私を見つめた。

でも、その目は私を通り越して、もっと遠くを見つめているかのようだった。

やはり私では、喜一にはなれなかったのだろうか。

「聡子さんには逢えました?」

「ああ、逢えたよ。出会って間もない頃の、この世の中にはもう存在しない聡子に。色々なことを思い出した。君は喜一に逢えたの?」

「ええ、逢えましたよ。出会って間もない頃の、もう絶対にこの世の中には存在しない喜一に」そう言って由香は寂しげに微笑んだ。


私たちは、朝食をとって駅へと歩いた。

まだ朝だというのに、すでに日の光は街を照らし、そこは夏の明るい光に満ちた場所へと変貌していた。

闇の影もない明るい世界、そこは昨日とはまったく違う世界だった。

私たちは、手を繋ぐことはしなかった。

日の光の中では、私は喜一ではなく、由香も聡子ではないのだ。

この光の中では、私と由香は、他人に他ならない。


駅まで行く間に、私たちは汗をかき、途中立ち止まって汗をぬぐった。

駅まで一緒に行き、そのまま電車に乗った。

私は昼から仕事に出なければならないし、由香も、うちとは違う仕事がある。

電車の中では、私たちはほとんどしゃべらなかった。

私は、この由香を聡子の代わりに、他人のまま抱いたことが頭で分かっているのに、どうしても実感できなかった。

明らかに、出会った頃の聡子を、昨晩は抱いていた。

そしてそれは、きっと由香も同じだったはずだ。

それこそが、燈火の器の魔力だということなのだろうか。




私は、一人で終電間近の天王寺行き上りホームのベンチに座った。

もう横に由香はいない。

それが異質なことのように感じたが、別に由香が来る前に戻っただけだ。

由香がいた一ヶ月半の前は、一年以上私は一人でこのベンチで電車を待っていたのだ。

その頃に戻っただけだ。 



電車が入ってきた。

私は、乗車位置に向かって立ち上がった。

私の前を電車が入ってきて、私の頬に風がかすった。

それは、もう冷たい風になっていた。

私は電車に乗って、今座っていたベンチを振り返った。

なんて汚いベンチなんだろう。

でも私たちは、いつもここに座っていた。

あんなところで私達は語り合っていたのだ。

電車が走り出した。

私は風が当たって、今冷たく感じた頬をなでた。


夏は終わりを告げようとしていた。

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燈火の器 帆尊歩 @hosonayumu

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