第31話 終幕(1/1)

「次は明光台坂上みょうこうだいさかうえ、明光台坂上。榎田総合病院ご利用の方は…。」


きゅっと強めのブレーキに体を揺さぶられ、僕は目を覚ます。

窓の外にはちらほらと淡紅色の花が見えている。

今年は例年よりも冬が長かったため、ほんの少し開花が遅れたそうだ。

個人的には七分咲き程の華やかさでこの日を迎えたかったが、慎ましいスタートというのも悪くない。

目線をやや下に向けると、淡い緑色をしたサツキの植え込みが見える。

相変わらず蔓草が景気よく絡まっていて、サツキと上手く共存していることが見て取れた。


バスは下車を知らせるチャイムが鳴ることもなく、再び動き出す。

乗客をぐっと背もたれに押し付けるような急発進。

押し付けられた衝撃で、僕は思わず声が漏れてしまう。


ゆるゆると動き出した車窓からは、やけに印象に残っている竹林が見えてきた。

相変わらず鬱蒼と茂っている。

どうも若干地下茎が広がったのだろうか。

天然の壁のようにも見える。

変化ってものは面白いものだ。


このまま坂の上に着けば、最後にあるのはあの桃の木。

だが、僕は瞼を閉じる。

ここ数日、睡眠時間が少々足りていないのだ。

そんな状態で景色を振り返ることもあるまい。

大人しくバスに揺られてもう一寝入りだ。



遠くから人影が二つ近づいてくる。

その一方は既に息も絶え絶えといった様子だ。


「先生!櫻子!」 


声の調子から判断するに、前方を走る影の主は後藤智代だった。

遠くからでも声がよく通るのは、流石である。

ということは、後ろは河津か?


「何で智代たちが?」


小日向は不思議で仕方ないといった様子だ。


「小日向、あの二人に何と言って二人と別れた?」


「学校に忘れ物したから先に行ってて、って二人には。」


「そんなベッタベタな…。」


この子のことだ、かなり下手糞な演技だったのだろう。

きっと後藤がすぐに気が付いたに違いない。

今にもやれやれと呆れている姿が目に浮かぶ。


(後藤はこうして小日向をフォローしてたんだろうな…。君の苦労が分かった気がするよ。)


「もしかして私、尾行けられていた?」


「だろうな。あの二人のことだ、出来ることを探しながら様子を見ていたんだろう。」


僕はふと気になって周囲を見渡す。


(このショッキングな状況は、あまり見せたくないな。)


中身が散乱した僕の鞄、放り出された小日向の竹刀袋と竹刀、片端が血まみれの鉄パイプに、顔面血まみれで気絶した水内。

見事な事件現場だ。

河津はもちろん、後藤も荒事に慣れていそうという印象だけで見せるようなものではない。


「小日向、あの二人の対応をしてくれ。こっちは僕がやる。」


「いや、先生はボロボロでしょ。大丈夫、私がやるから。」



―水内の処置。

僕らの目の前にあった問題はこれだ。

目覚めて暴れ出す前に何とかしたいところだが、対処方法が分からない。

ひとまず警察が先か、いや拘束して警察か。

早く決めないと小日向が動き出してしまう上に、二人が来てしまう。

口だけが真面に動くぼろ雑巾と無傷の彼女では、比べるまでもなく配役が明白だったが、なんといっても地面に転がっているのは血まみれの水内だ。

学生時代の思い出のアルバムに残すようなものではない。

これは僕が何としてでもやらなければ。



言いくるめる方法を思いついた矢先、視界の暗闇がちらちらと赤く染まった。


「そこの二人、その場を動かないでください。」


スピーカーから発される曇った声に僕は安堵する。


「あっ、警察!」


小日向の声も安堵しているように聞こえた。

やはり水内の見張りは、相応の覚悟が必要だったらしい。


「でも、何で?」


頭からクエスチョンマークを浮かべて頭を捻る彼女を他所に、僕らの真横にパトカーが停車し、二人の警察官が出てきた。

彼らは最初気だるそうな態度だったが、傷だらけの僕と血まみれで倒れている水内を見て、態度を一変させた。



聞けば、巡回中に複数の通報があったらしい。

まず、『猿』のような動物の鳴き声が運動公園から聞こえたので、様子を見て欲しいというもの。

次に『野犬』の遠吠え、さらに『鹿』、『孔雀』。

あるいは『熊』や挙句『狼』という通報もあったらしい。

決め手となったのは、慌てた女性の声で『人が襲われている』とのことだ。


「『猿』のような鳴き声か。あれは凄かったからな。」

「『猿』とは失礼な!結果的にそう聞こえるだけで、気合にもちゃんと意味があるの!」

子どもらしく不満を口にする小日向に、僕はつい噴き出してしまった。

彼女があの咆哮の張本人と言われても、今の様子では信じてもらえないだろう。



「警察の人!間に合ってよかったー!」


僕と小日向が簡単な事情聴取を受けていると、後藤が肩で息をして追いついてきた。


「後藤、助かった。警察を呼んでくれてありがとう。」


「どういたしまして。すぐに来てくれて良かったわー。」


張り詰めていたものが緩んでしまったのか、彼女はその場にへたりとしゃがみ込む。

そして、大きく深呼吸して最後に勢いよく息を噴き出した。

どうやら気を揉んでいた分の感情を排出しているようだ。

それが済むと、彼女は肩に背負った鞄をガサゴソとやりだした。


「ところで櫻子、電話貸してあげるからお家に連絡しな。あんたのおじいちゃんも心配しているでしょ。」


「ありがと。ちょっと借りるね。」


そこまで気が回るとは、流石の腐れ縁である。



小日向が電話をかけていると、応援のパトカーが続々とやって来た。

パトランプの強烈な赤色で、暗闇が異様な雰囲気に包まれる。

近隣住民も騒動に気づいたのか、続々と野次馬として集まってきているようだ。

後続の警察官たちは手際よく周囲を規制すると、気絶した水内の対応も始めた。


「再度確認しますが、がやったんで?」


初めに到着した警察官が淡々とした態度で事情聴取を続ける。


「僕と教え子がやりました。詳細は警察署でお話します。」


「…もう一度お聞きします。あなたたちが被害者ってことでいいんですね?」


「はい、間違いないです。」


警察官は最後まで態度を崩さず、職務を全うした。

だが、内心は怪訝な顔の一つでもしたかっただろう。

大人の僕だけならまだしも、女子中学生まで関与していると言うのだ。

加えて、署に行きますという誠実で殊勝な対応。

僕だったら疑いの言葉の一つでも投げかけたくなる。


「…分かりました。あなたも連絡先があれば、今のうちになすってください。」


僕は応対している警察官に断りを入れ、自分の鞄を回収する。

そして、メモ帳に榎田先生と大隈先生の連絡先を書き、後藤に手渡した。


「僕からも二人にはメッセージを入れておく。だけど電話は時間がかかりそうなので、よろしく頼む。」


後藤は一回り周囲を見渡すと、得心いったようで小さくため息をついた。

如何にも世話が焼けると言った様子だ。


「任されました。他にあります?」


「それなら一つだけ。なぜ小日向が電話を持ってないことを知ってたんだ?」


「運動公園の角の植え込みに、櫻子の鞄が放り投げられていたからね。鞄は河津ちゃんが持って来ているよ、ほら。」


後方を見ると、荷物を抱えたせいで動きが大雑把になり、息も絶え絶えになってしまった河津がようやく到着するところだった。

その直後、背後から僕はパトカーに乗車するよう指示される。

申し訳ないが、彼女に声をかける暇はなさそうだ。


「河津にもよろしく言っておいてくれ。あと最後に、この現場は河津には刺激が強いから、上手く遠ざけておいてくれ。」


「了解です。ところで先生、私には何か一言無いんですか?」


彼女はニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべて、こちらの顔をじっと覗く。


どんなときでも機転を利かす後藤の力が無かったら、僕らはきっと道の半ばで詰んでいた。

僕に限れば、無謀にも死地に飛び込む寸前で、彼女は僕に声をかけむんずと掴んで引っ張り上げた。

あの時の彼女は、最後の最後まで後ろを振り向くことをしなかった。

信じてくれていたって、自惚れてもいいのかな。


「改めてありがとう。後藤智代さんがいたから今の僕がある、と言っても過言ではないよ。」


「そこまで言われると照れるなぁ。よしっ!あとは任せて!」


彼女は愛嬌のある笑顔を向けると、くるりと反転し河津のほうへ向かった。

髪の間からちらりと見えた彼女の耳は真っ赤だった。

周囲がパトカーだらけだったので、僕の見間違いかもしれないが。


こうして僕らは警察に保護され、事件現場は警察によって治められた。



「次は榎田総合病院前、榎田総合病院前。ご利用の方は…。」


ピンポーンというチャイムが鳴り、程なくしてバスが停車する。


(まさか知り合いの病院に一時期お世話になるとは思わなかった。)



警察に着くと、僕らは例の居心地の悪い待合室に通された。

小日向は興味津々といった様子で周囲を見渡しているが、僕は約二週間ぶりなのでひたすらに気分が悪い。


「準備が整うまでこちらでお待ちください。体が痛むところがありましたらいつでも仰ってください。」


応対してくれた若い警察官は、以前も同じセリフを言っていた気がする。

彼は足早に持ち場に戻っていったが、今回はなぜかお盆を携えて戻ってきた。


「ええと…、『お茶を出してあげなさい』とのことでしたので、こちらをどうぞ。」


困惑を隠せない彼の両手には、お盆にポット、湯呑が二つ、コンビニによくあるお茶請けの最中と煎餅が載っていた。

馴染みになると対応が変わるのだろうか。

隣では小日向が無邪気に目を輝かせている。

若い警察官はその様子を見て微笑むと、会釈をして行ってしまった。


(お茶を出す?あの刑事さんか?)


ご厚意に甘えて、一服の準備だ。

ポットの上部を押すと、ほんのりと優しい湯気が現れた。

まず、僕は早々にお菓子を頬張り始めた小日向にお茶を渡す。

次いで自分の分を注ぎ、慎重に口に含んだ。

すると、口内に良い塩梅の温かさと日本茶の香りが広がり、嚥下するとじんわりと内臓から温められる。

緊張続きだった一日のご褒美と思ってしまう自分がなぜか悔しかった。


「どうもどうも、ご無沙汰しています。」


刑事さんが相変わらずの風体でやって来た。

僕は一瞬だけ言葉の裏を読むが、こちらが疲れる展開になりそうなので、素直に受け応える。

簡単な状況説明を終えると、刑事さんは「若いねえ。」と呆れたように呟いた。


「その子の親御さんが来たら教えてください。その子も親御さんも、こんなところで待たされるのは不安でしょうから。」


刑事さんの心遣いに感心していると、「あなた、こっち!」と女性の声が聞こえてきた。


「おっ、タイミング良いねえ。では、もうちょっとしたら先生のほうから始めるんで、準備しておいてください。」


「はーい。」


「大物だねえ、この子は。」


茶菓子に上機嫌になった小日向の返事に、刑事さんは調子が狂ったようだ。

一本取られたという苦笑いを浮かべ、鼻歌を歌いつつ、彼は取調室のほうに行ってしまった。


入れ替わりにこちらへ来たのは、四十歳前後の美男美女。

余りにも字面通りなので、僕は感嘆の声を漏らしてしまう。


「お父さん、お母さん!」


お茶請けを完食して、すっかりいつもの調子を取り戻した小日向は両親と思しき美男美女に駆け寄る。

その直後に繰り広げられたのは、ちょっとしたホームコメディだった。

親御さんからの平謝りを皮切りに、ああ言えばこう言うを繰り返す母と娘。

父親は二人がヒートアップし過ぎると適度に落ち着かせるだけで、終始ニコニコとしていた。

壮絶と言えば壮絶なのだが、初めから終わりまで愛情に満ち溢れた光景だった。



一通りの演目が終わると、小日向一家は別室に案内され、僕も刑事さんに呼ばれた。

部屋に入るや否や、刑事さんは開口一番、


「あれだけ脅かしたのにねぇ。」


と言って大きく溜め息をついた。

どうやら僕が首を突っ込むことを予想していたらしい。

『若い先生だから、自分のところの生徒に何かあれば、きっと頭に血が上る。武道経験者だから半端な恐怖で立ち止まることもないだろう。』と。

見事な予想で、見事に使われた訳だ。

想定された僕の仕事は、丙紗耶香の口を少しだけ軽くすること。

一度誰かに話せば抵抗感も薄れるから、その役割だけを演じて欲しかったらしい。

だが、事に突っ込み過ぎて、ここまでの大事にするとは思わなかったそうだ。

この一点に関しては僕も反省するところがある。

しかし、刑事さんに一本取った気がして、少し誇らしかった。


「はい、結構です。色々とご苦労様でした。」


刑事さんは僕を取調室の入り口まで見送ると、ドアノブに手をかける僕に向かって、


「三度目は無しにしてくださいね。」


真っ黒い瞳をしつつ、ニヒルな笑みを浮かべた。


「三度目があると四度目が続きそうな名前なので、重々気をつけます。」


「おや、確かに。すると、ご縁は六度ですか?」


「勘弁してください。」


名前に関する言霊は、現在進行形で身に染みているところなのだから。

僕は何も返事できず苦笑いのまま部屋を出た。



例の待合部屋には老人が一人、ぽつねんと座っていた。

白髪頭に白いワイシャツ、黒のニットタイ、こげ茶色のジャケットとスラックス、手には上着と同色の中折れ帽、足元は黒のプレーントゥという如何にもな雰囲気。

街中で出会うならば、僕はあまり声を掛けたくないタイプだ。

彼はこちらをちらりと見て、やや首をひねると、音も無くすっと立ち上がった。


「あなたが鷹村先生ですか?孫娘が大変お世話になりました。」


(孫娘?孫…小日向のおじいさんか!小日向が宇宙一好きだと言っていたおじいさん!)


「いえ、こちらこそお孫さんには命を救って頂きました。あの子がいなかったら、僕は今頃道端で冷たくなっていて、翌日の地方紙に載っていたかもしれません。」


驚きと緊張で、思った以上に余計な一言が出てしまった。

彼は僕の一言に虚をつかれたようで、返事を考えるためか再び首をひねっている。


「あなたは大変ユニークな事を言いますね。孫が毎日楽しそうに話していた理由が分かりました。」


『ユニーク』と気を使わせてしまって申し訳ない。


「櫻子さんには剣道部で迷惑をかけっぱなしです。僕が剣道未経験なものですから。」


「とんでもない。寧ろ私は孫がご迷惑をかけていると思っていますよ。あの子には私が教え過ぎて、心の成長以上に腕が立つようになってしまった。初孫だったのもので、つい楽しくなってしまいまして。」


彼は照れ臭そうに頬をぽりぽりとかいて笑う。


(この辺りの仕草が小日向そっくりだな…。)


「いえ、その腕のおかげで僕はこうして生きているんです。感謝しかありませんよ。」


「それは良かった。もし孫の指導で不明瞭なところがあればご連絡下さい。あの子は私の物まねですから、言語化が出来ていないこともあるでしょう。」


「それは…はい。彼女は感覚派で困惑することがありますね…。」


「可愛い孫ですが、同じ道にいる者としてまだまだ甘いのです。笹野さんからの報告も受けているんですが、私の構えにそっくりだなんだと彼も評価が甘くて困る。」


(ん?笹野さんと繋がってるの?)


「お義父さん。櫻子が戻ってきました。」


僕が言葉を続けようとしたところで、小日向のお父さんが彼を呼びに来た。

これから家族団らんが始まるのだ。

これ以上の会話は無粋だろう。

僕は喉まで出かかった質問を飲み込んだ。


「では、失礼します。」


彼は会釈をすると、音も無く行ってしまった。

その後ろ姿は、どこか肝をぞくりと震わせるような畏怖を感じさせた。

脳裏に未だ焼き付いている、先刻の小日向の像と重なるのだ。

おじいさんのいる空間だけ解像度が違う。

物静かで朗らかな空気を醸し出しているが、手を出そうものならこちらが即座に撃退される予感がある。

これが達人と呼ばれる域、いずれ小日向が辿り着くかもしれない領域。

『恐ろしい』、素直にそう思った。


おじいさんが曲がり角に消えてしまうと、僕は気を取り直すように大きく頭を振る。ある種の美しさを感じるものに魅入られていた。

だが、気を確かに持たねばならない。

もう後にも先にも、あんな体験は懲り懲りなのだから。



僕が待合室の椅子に腰かけて呆けていると、榎田先生と大隈先生が息を切らせてやって来た。


「鷹村君いた!大隈さん、早く!確保!」


「え?」


声をかける間もなく、僕は大隈先生に取り押さえられた。


「鷹村先生、すみません!」


僕は三度大隈先生の小脇に抱えられる。


「いででっ、一体どうしたって言うんです!?」


「詳しい話は後にしましょう。まずは榎田さんの病院です。」


僕は小脇に抱えられた振動で、節々の痛みを思い出す。


「署の入り口で櫻子ちゃん一家に会えたから、彼女たちには先に向かってもらってる。うちの家族には連絡済みだから、まずは全身検査よ。はい、乗って!」


「鷹村先生、良かったですね。これはレアですよ!レア!良いなぁ、格好良いなあ!」


僕の目の前にあるのは、赤いポルシェ912。

大隈先生は子どものように目を輝かせている。

確かに余裕があるなら穴が空くほど見ていたいほど格好良い車なのだが、僕の体が痛みを思い出してしまったので、正直それどころではなかった。



旧車によるちょっとしたドライブの後は、検査とその結果の発表だ。

僕は右肩、右腕、右足の打撲と左拳の骨折が判明した。

一方、小日向は右足の甲にひびが入っていたらしい。

現場に居合わせた僕だから理解できる、あの踏み込みの苛烈さに対する代償。

銃声のような音を響かせた踏み込みの張本人は、あっけらかんと笑い飛ばしていたが、傍らでご両親が呆れ果てていた。

助けられた身としては申し訳なさで一杯である。



さて、今回で僕は人生二度目の骨折と相成ったわけだが、さすがに昔を思い出さずにはいられなかった。

小学校一年生の春、近所の空手道場で左手首の骨折。

入会初日、レクリエーションとして師範が構えたミットに渾身の一撃を加えたところ、僕の左手首はピキリと音を立てた。

ご近所付き合いのあった師範はずっと平謝り。

両親は気にしていないとは言っていたものの、師範の心労は想像を絶する。

子どもながらに僕は師範をかばったが、今思えば焼け石に水だったのかもしれない。

そんなトラブルがあったものの、師範と道場の雰囲気が好きだった僕は道場通いを続けた。

骨折中、自分に出来ることを探して通い続けた。

結果、行きついた先はミット係。

ひたすら師範の助手としてミットを持ち続け、道場の門下生たちの一撃を受け続けた。

ミットも人も殴らず、高校卒業まで十年以上。

周囲から馬鹿にされることは何度もあった。

しかし、そのおかげでこうして生き延びることが出来たわけだから、本当に人生何がどうつながるか分からない。

とは言うものの、僕が今思うことはただ一つだ。

僕の前途に幸多からんことを。

骨折り損のなんとやらとなりませんように。



ゴトン、ゴトンとバスが踏切を通過した振動で、僕は目を開ける。

車窓から見える商店街はこれから今日を迎えようとしていた。

新しい一日が始まるのだ。

アーケードの下を自転車に乗った学生がのんびりと進んでいる。

また、大あくびをしている学生二人組もいる。

始業時間には大分早いので、何か役員をやっている学生だろうか。


「次は赤池商店街、赤池商店街。」


強めのブレーキでバス停に停車すると、若々しい声が車内に響くようになった。


(もう少しか。)



「丙さん元気そう?」


師走の昼休み、僕はチャイを頂いている。

現れてはゆっくりと霧散していく湯気と共に、豊かなスパイスの香りが保健室に広がる。

何とも贅沢な時間だった。


「この間の手紙の様子じゃ、あっちの学校に馴染めているそうですよ。ちょうど合唱コンクールの時期で、そこから友達が出来たって書いてありました。」


「良かった、夏休みが終わってすぐの転校だったからね。心配だったのよ。」



「先生、本当にお世話になりました。」


「胸を張ってどういたしましてとは言えないのが、歯がゆいね。」


八月の上旬のことである。

丙紗耶香の父親から引っ越す旨の一報があった。

こちらに一人、母親を残して。


「そんなことないです。父が先生のお友達に相談できて、沢山の問題を解決出来たのも、先生に会えたからですよ。」


「あいつはサービスだって笑ってたよ。でも、本当にで良かったのか?」


「はい。私が嘘をついていないと証明されただけで十分です。何よりあの人は、もう学校にいませんから。」


水内の路上襲撃事件により、学校には有無を言わさず調査のメスが入り、報告書の準備が進められた。

公的通報の必要がないほどに。

その過程で、丙は自分が行っていたことを全て告白した。



「引っ越し先での新しい生活は大丈夫そうか?時期が時期だし、副担任として心配だよ。」


「父も祖父母も優しいのできっと大丈夫です。何より…一度は一人で暮らそうって決めていたので、生活も人間関係も一から作り直す覚悟は出来てましたから。」


「そうか、丙は強いな。」


地元と離れるだけでも身が切られたような心地をする僕だ。

彼女が少し羨ましい。


「強くなんかありません。中学一年のくせに人間関係に絶望して、人とつながることを諦めて、傷つかないように線を引いて、三年近く色々と拗らせて生きてきた私ですよ?」


彼女は一つ一つ過去を振り返るように言葉を紡いでいった。


「小学校を卒業して、初めて環境が変わった子どもとしては普通の反応だと思うけどな。」


「もう先生の口車には乗せられませんよ。乗ったらここまで大事になったんですから。榎田先生から説明を受けた時、唖然としたんですよ。」


その点については、僕も色んな人からお叱りを受けて反省の真っ最中だ。


「まぁ、私の八つ当たりを受け止めてくれたことには感謝しますけどね。」


「それなら受けた甲斐があった。」


丙は呆れた様子で一つため息をつくと、眼鏡の位置を直した。


「あのな、丙。南沢猛のことなんだが。」


レンズ越しの彼女の瞳が不安そうに揺れる。


「児玉先生という既に定年退職された方が、彼の面倒を見ようと動いてる。君にその意思があるなら、児玉先生に一度話を聞いてみないか?」


彼女の目尻から涙が一筋、また一筋と頬を伝い始めた。


「良かった。ずっと心配だったんです。先生、お願いします。猛と…もう一度話す機会を下さい。」



「榎田先生も毎日お疲れ様です。三年生はトータルで九人でしたっけ?」


「いいえ、この間追加で三人相談に来たから二桁超えちゃったわ。結局、密告係はクラス平均三人。根が深い問題ね、本当に。」


「金井あすかやゲンペイ、いや、源和平は相談に来ましたか?」


「来たわ。金井さんは保健室の一件のあとからずっと。源君はついこの間かな。」


「聞いてもいいですか?」


「もちろん、話せる範囲は。」


金井あすかはあの一件以来、榎田先生に勉強の相談に来ているそうだ。

このまま勉強続ければ、相応の志望校に合格出来るレベルに到達するらしい。


「三姉妹の次女。上が四歳、下が二歳差っていうんだから辛いものよね。」


「受験結果が上と下で比較されますからね。」


「それがもっと混み入っていたの。まず小学生だった金井さんは、長女がこの地域で偏差値最上位の高校に合格したことを気にしていた。」


彼女は秘蔵の葉巻型クッキーを二本取り出す。


「そして長女の高校合格と同時期にね、三女が中学受験したいって、突然言いだしたらしいの。」


「随分と急な話ですね。末の妹さんはどうなったんです?」


「良い結果を出したらしいわ。偏差値を見たら、目ん玉が飛び出るくらいのところよ。」


三年生に上がる直前の金井が、妹の合格を見てしまったのか。

保健室で悲鳴を上げた彼女が脳裏に浮かんだ。


「…金井が追い詰められる気持ちが分かりますね。」


「まだ話には続きがあるの。長女が良いレベルの国公立大学に合格しちゃった。」


悲鳴にも似た叫びの理由。

どんなに自分がもがいても、姉妹が自分以上の結果を出してしまう地獄かんきょうか。


「…えげつない状況ですね。」


「そう、えげつない。彼女から勉強の相談を受けたけど、はっきり言って彼女は要領が良くなかった。成績が伸び悩むのも納得だったんだけど、本人の能力以前にこの状況は針の筵なんてものじゃないわ。」


「親御さんのフォローはなかったんですか?」


先生は顎に手を当て、窓の外に目を向ける。


「あると思う?次女が伸び悩んでいたら、上下合わせて華々しい結果を出しちゃったのよ。」


「金井の様子からは、………なかったんですね。」


結果を出すまでひたすらに、クラスの中でも家の中でも孤立無援でただ一人居た訳か。

先日、大半を処分した自室の問題集とノートの山が視界の端に見えた気がした。


「何が何でもってハングリーな気持ちになるのは当然かな。」


先生はお茶菓子の一本を僕に手渡し、残りに手を付ける。


「フォローは出来る限りしているけど、後は金井さん次第。」


「ですね。」


報われて欲しい。

その想いと努力が、心から。


「次、源君の話に移ってもいい?」


いつの間にか榎田先生が僕の顔を見つめていた。

どうやら手に持った秘蔵のお菓子の一本を、浮かない表情で見つめていたらしい。

気遣いに本当に感謝しなければ。


「お願いします。先生の話も聞きたかったんです。」


「彼はね、ずっと内申書が心配だったみたい。」


「水内に声をかけられたのが、二年生の春でしたか。」


僕が話を聞いたのは、調査が始まって幾らも経たない頃だ。

五年以上この学校に勤めていて、客観性が確保できる級外、さらにどんな急場にも対応できるということで、大隈先生が聞き取りを行い、結果を僕に教えてくれた。


「『このままだと高校から進学を拒否される』って、かなり無茶苦茶な話だけどね。彼も負い目があったみたい。誰にも相談できず、言われるがまま役割をこなしてたって。」


「…なんというか安心しました。やっぱり氏子先生への敵意だけじゃなかったんですね。」


「敵意?どういうこと?」


僕は武道場の裏で後藤から聞いた話を伝える。

すると先生は足を組み、大袈裟に肩をすくめた。


「どうやら智代ちゃんが正解みたいね。彼、いじめのことも初めて聞いたって顔してたから。」


「でも、そうなると河津の見たものは、何だったんでしょうね。」


結局のところ残る問題はこれだ。

不本意にも氏子先生を追いやるきっかけになった案件。


「これは私の推測だけど、動画サイトにあった昔の番組の罰ゲームをやっていたんだと思う。」


「コンプライアンスで問題になった類の物ですか?」


「そう、それ。私たちが学生の頃に放送されていたやつ。」


「僕はあの手の物を今でも笑えますけど、過激といえば過激ですよね。」


「だから郁久乃ちゃんには、いじめに映ったんだと思う。あの子、ホラーでも暴力描写が駄目なタイプらしいから。」


確かに河津はそんなことを言っていた。

彼女はホラーが好きだが、僕は好きではない。

『自分は面白いと思った。きっと誰もが面白いはずだ』と思うのは無理のある話だ。

個人によって価値判断は違うのだから。


「見る人がどう捉えるかってことですかね?」


「あくまで推測だけどね。だからいじめの現場って、今は結論付けていいんじゃないかな?」


「そうですね。ゲンペイは他に何か言ってましたか?」


「高校は絶対に卒業したいって。本人に意志があるなら、進学は大丈夫じゃないかな。」


一通り話し終えると、彼女はカップに口をつけた。

一つ吐き出された吐息には、仄かに絶妙な調合がされたスパイスの香りがした。



「ところで話は変わるけど、鷹村君のお友達が学校に来ていたって本当?」


「ええ。ついこの間、仕事半分、興味半分で校長に会いに来たんです。ですが、校長から保身について相談されたので、あいつは思い切り説教をしたらしいですよ。」


『プロフェッショナルが現場に赴けば、無駄なく解決出来るだろう?』

ふっくらとした赤いウールネクタイ、薄いグレーフランネルのストライプスーツに身を包んだ、撫でつけ頭の細長い男は高らかに謳ったが、顏にはそう書いていなかった。

『楽しみ』と『興味』しか書いてなかったが、今はあいつの名誉のためにここは伏せておく。


「校長も情けないわねえ。」


「余りにも清々しいと友達は感心していましたよ。も小細工はしてなかったそうです。」


理詰めで一から十どころか、百や千まで校長を追い詰めたそうだが、結果は変わらなかったようだ。

この辺りは校長の良心というか、保身のための損得勘定を信じよう。


僕は少しだけ飲み物を口に含む。

程よい甘さと豊かなスパイスの香りが身に沁みた。



「ここも広くなった気がしますね。」


今は生徒が誰もいない保健室を見回す。

かれこれ七か月近くお世話になっている僕のホームだ。


「寒くなってきたから、寂しさが身に沁みちゃうわ。郁久乃ちゃんは遊びに来てくれるけど、最近ちょっとだけ頻度が減っている気がするのよね。」


河津郁久乃は校長室の一件の後、通常の登校に切り替えた。

水内がいなくなったこともあるが、本人曰く『ご心配をおかけました。もう大丈夫です。』だそうだ。

体育実技が極端に苦手なことを除けば、定期テストの成績も良いので、問題なく進学できるそうだ。


「クラスに馴染めたせいですかね。後藤が何かと気を利かせてくれたみたいです。」


「智代ちゃんは流石ね。本当に気遣いが上手な子だわ。」


「小日向が毎回休み時間になると遠くから見守っていたんですが、その様子がなんとも絶妙でしたよ。」


通常登校に切り替えた当初、毎日彼女は入り口に隠れて河津を見ていた。

心配というより寧ろ狂気さえ感じる様子で、学年でも一時期話題になったほどだ。

だが、今では週に二度程度昼休みに声をかけに来る。

声をかけるようになったのは、河津から窘められたそうだ。

部活中に小日向から相談された時、まさに『しょんぼり』といった耳を垂らして俯き、尻尾がヘたったように見えたのは、本当に絶妙な面白さだった。


「櫻子ちゃんも思うところがあるんでしょう。あの子も成長してるのね。」


お茶菓子をつまみながら、榎田先生はからからと笑う。

ここでちらりと入り口の方に、先生の目線が動いた。

どうやら入り口に人の気配があったようだ。



保健室のドアが、静かにそして丁寧にレールの上を走っていく。


「鷹村先生、探しましたよ。」


「河津、ちょうどいい所に。」


ネクタイを締め、ボタンも全て閉じ、校則以上にきっちりと制服を着込んだ彼女は、右手にいつもよりふっくらと厚みがある白封筒を持っていた。


「先生、早速で申し訳ないのですが、お手紙をお願いします。これで最後です。」


「最後?」


「はい、最後です。これでお終いです。」


彼女は、寂しさがほんの少し混ざったような優しい笑顔でそう言った。


事件のあと、僕は河津と氏子先生の手紙のやり取りを仲介している。

月に数回、しっかりと厚みのある封筒を仲介する郵便配達役は、思った以上にプレッシャーだった。

初めてのやり取りで氏子先生に直接手渡したのは、調査の打ち合わせの席のことだ。

封筒の字を見た彼が目の前で感極まってしまい、その日は打ち合わせどころではなかったことを今でも鮮明に覚えている。

それだけ重い手紙のやり取りだった。


「鷹村先生、氏子先生が復職に向けて頑張っていること、知ってますか?」


「本人から聞いた。まさに決意したって感じの精悍な顔立ちだったよ。」


「お手紙の中でもそんな感じでした。先生ったら、そこだけ書き直しの跡がなくって。」


彼女はころころと笑う。


「でも、本当に良いのか?まだ三月まで時間があるぞ。」


「はい。年も改まることですし、お互い頑張りましょうってことに決めたんです。いつまでも甘えていちゃいけないんです。」


彼女は僕の様子を察したのか、先程よりも明るく晴れやかな笑顔になるように口角を上げている。

彼女は一歩ずつ着実に大人になっていた。


「郁久乃ちゃん、強くなったね。」


その声色は慈愛に満ちていた。

榎田先生が静かに河津にハグをする。

小さな少女はすっぽりと白衣の内に隠されてしまった。


「だから、お願いします。」


「確かに承ったよ。」


ここまで出来れば、もう立派な大人の女性だ。



休日の正午、外は雲一つない晴天。

喫茶店の外は、青空の下を楽しそうに行き交う人で溢れている。

僕の目の前には氏子貴文先生。

初対面の頃より、今は精悍な顔立ちになったように見える。


「今日お呼び出ししたのは、これをお渡しするためです。」


氏子先生は受け取った封筒をしみじみと見つめている。

だが、肩が少しだけ震えると、封筒からぽたりぽたりと音が鳴り始めた。

数秒のうちに彼の顔がぐしゃぐしゃになる。


「最後なんですね…これが。ありがとう…ありがとうございます…。」


その彼の手には確かに力が入っていた。

感極まって加減どころではないはずだ。

だが、握られている厚みのある封筒は皺一つ無く形を保っていた。



バスはゆっくりと昔ながらの商店街を進んでいく。

商店街の終わりまで来ると、十字路を曲がってまた道なりにいくらか進む。

程なくして、僕がこちらに来て一番好きな景色が広がった。

朝日に照らされる一面の海。

光が乱反射する水面を右手に眺めつつ、バスは海岸沿いに進んでいく。

「次は馬耳ノ塞うまみみのふさぎ、馬耳ノ塞。」


ピンポーン。



さて、肝心の僕の試験結果だが。


『不合格』


試験当日の光景を今でも忘れることが出来ない。

面接室に満たされていたのは、腫れ物に触らなければならないという嫌悪感と倦怠感。

進行役の人の良さそうな面接官ですら、言葉の端々を濁していた。

直接の苦言やお叱りの言葉が飛んでこなかったことが意外なくらいだった。

常識的な質問をする面接官も、逐一書面を確認しながらため息をついていたので、僕は相当な難物だったのだろう。

例外は込み入った質問をする係の面接官で、彼は水を得た魚のようだった。

だが、こちらは鍋島直伝の『不快な質問は出てきた先から完膚なきまでに潰す』で対処させて頂いた。

きっと少し前の僕なら途中で爆発し、『ほれ、見たことか』と相手の思い通りになっていたに違いない。



しかし、不合格は不合格に違いがないのだが、この結果を僕らは予想していた。

水内が逮捕されてから一週間後、関係者揃っての祝勝会が例の中華料理屋で開かれた。

その場で開かれたのが、僕の進路相談会だ。

中道先生、榎田先生が主だった質問、児玉先生、大隈先生が備考について話を詰めていく形に自ずとなっていったのだが、まさか三十路も近くなって大人たちから叱られ、呆れられるとは思わなかった。

試験日程の計画どころか、人生計画のダメ出しをされるとは微塵も思わなかった。

僕の目の前にいる人たちは、割と人生が破天荒な人もいると思うのだが。


この会でのハイライトは大隈先生から『残念ながらフォローできません』とコメントをもらった時だ。

僕の人生において、最も応えた瞬間の三指に入ると言っても過言ではない。

部屋に戻って少し泣いたくらいだ。

だが、そのおかげで僕はここに立っている。



私立〇〇大学付属磯良高校。

十年ほど前、大規模な土地の整備が行われた際に、運動施設用の土地を確保した大学が、ついでに作ったという新設校。

学区内での評判は、最新の運動施設と運動理論を学びたければおススメとされるが、それなりの偏差値を要求される文武両道の私立高校。

大学がミッション系で国際交流にも明るいため、留学も盛んに行われているという盛りだくさんな学校だ。


入学式と始業式を兼ねた場で、僕は挨拶を終えた。

五百人を超える生徒の前での挨拶。

以前、氏子先生が人気バンドのボーカルにでもなったようだと言っていたが、確かに晴れやかな気分で迎える挨拶は特別な高揚感があった。


「疲れたでしょう?少し時間があるから、一人になって落ち着いてきなさいな。」


当面のサポート役となったベテランの先生から促される。

また顔色が悪かったのだろうか。


「ありがとうございます。では、時間までちょっと失礼させてもらいます。」



僕は職員室を出て、体育館からの帰り道に気になった場所へ向かう。

体育館と校舎の間にある一本の桜の樹。

ここだけが満開だった。

全方位から日光を浴び、健やかに育ったおかげだろうか、桃色の花を一杯に咲かせたそれは、如何にも天真爛漫で健康的な印象を与えていた。


「余りに見事で恨み節すら湧いてこないよ。」


自然と口をついて出た言葉。

余裕が生まれると、こうも違うものらしい。


緋毛氈ひもうせんに重箱、酒のつまみに一升瓶、地元のおいちゃん達におばちゃん達、実家の家族も揃っていれば、これだけ立派な桜の下だ。夜までかけての大宴会ってところだろう。)


去来する懐かしい景色。

だが、目の前にあるのは、今が盛りの桜のみ。


(せめて緋毛氈の切れ端を敷いて、お銚子半分くらいやりたいね。)


ざりり、ざり


背後で砂が転がり、地面が擦れる音がした。


(誰か見に来たのか。それならそろそろ行くかね。)


先生せーんせっ!」


聞き覚えのある声が一つ。

僕が右足を軸にゆっくりと振り返ると、僕の鼻先には華奢な左拳があった。


「ぼけっとしちゃ駄目でしょーが。」


「もう櫻子ちゃん!玻璃はり高の後藤さんと木塚さんに送る写真を撮るだけって言ったのに!」


僕は気が抜けてしまったのか、膝の力が抜け、ぺたりと尻もちをついてしまった。


「奇襲成功。」


ピースサインと共にいたずらっぽく笑う小日向と、その隣でお目付け役のように咎める河津。

二人は真新しいブレザーに身を包み、新入生用の花飾りを胸につけている。


(河津は言うようになったな。もう少しで小日向が反省するぞ、そらいけ。)


ふと気づくと、全身に芯が通ったような、現実に戻ってきたような感覚があった。

両足には確かに小石を踏んでいる感触を、両手には地面のほのかな温もりを感じる。


「ありがとう。浮ついていた気分が一ぺんに冷めたよ。」


僕にはそんなもの似合わないということだろう。

それでは僕じゃない。


「ほら、先生立って。」


晴天のようにからっとした調子の小日向から、右手がすっと差し出される。


(まったく…。)


僕は彼女の手をグッと強く握った。

右手に力がかかったことを合図に、彼女は得意顔で一気に引き上げる。

僕は予想以上の力に戸惑ったが、しっかりと地面に足をつけ、反発を利用し、すとんと着地した。

隣にいる河津が小さく感嘆の声をあげ、小さく拍手をしている。


一陣の風。

ひらりひらりと幾ばくか、桜の花片が宙を舞う。


「よくできました、小日向櫻子さん。」


「なにそれ。」


彼女は朗らかに笑う。


「どういたしまして、担任の鷹村三四朗先生。」




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臨採教師 鷹村三四朗 ―迷える羊― 飼田羊介 @kaidayosuke0805

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