夏。

月庭一花

Summer.

 誰かが言った。

 最近の夏、暑すぎるよね、と。

 エアコンがなければ死んじゃう気候って、おかしいよね、と。

 確かにその通りだった。でも、誰も、そのときには、気づいていなかった。

 世界が本当に、狂ってしまっていただなんて。



 ふと、ステーションの窓ガラスに目を向けると、陰鬱な表情を浮かべた自分の姿が映っていた。目の下のくま。潤いのない髪。かさついた肌――。女……と言うよりも人としての何かを捨ててしまったような、ひどい姿。ブラウスの胸元には汗のシミまで浮いている。わたしは立ち止まって、首筋をハンカチで押さえた。

 もしも、この世界で彼女を見つけられても……こんな姿では幻滅されてしまうかもしれない。愛想をつかされてしまうかもしれない。そう思った。そう思うのに、身なりにまで構っていられるような余裕が、もう、わたしにはなかった。心にあるのは焦燥と諦めの入り混じった、コールタールみたいな何かだった。

 情けない思いで自分の姿を見ているうち、どこからか歌が聞こえてきたような気がした。どこかのお店の有線放送? それともラジオ? ううん、違う。もっと生々しい。その歌声が、彼女の声に、似ているような気がした。ここに……ゆすらが? まだ、取り残されて……?

 はやる気持ちで駅舎の外に出た途端、大量の蝉の声が襲ってきた。ロータリーのアスファルトの上で陽炎がゆらいでいる。電波塔の時刻は午後三時を少し過ぎたあたりを示している。照り返しの陽射しが眩しくて、景色が白く霞んでいた。汗がまた吹き出し、そしてすぐに乾いていった。

 夏だった。圧倒的な、暴力を伴うような、夏そのものの姿がそこに立ち現れていた。


 いつでも捜しているよ どっかに君の姿を

 交差点でも 夢の中でも

 こんなとこにいるはずもないのに


 先ほどと同じ歌声に、慌てて目を向けた。ロータリーの片隅、ポプラの樹の下で、背の低い女性が、アコーステック・ギターを爪弾いていた。光のハレーションの中、さわさわとゆれる影の内で、彼女の白い、ノースリーブのワンピースが、わたしの視線を釘付けにした。

 彼女じゃない。彼女じゃなかった。

 でも、彼女の歌声は、ゆすらの声、そのものだった。

 わたしはうだるような炎天の中、声につられ、ふらふらと歩いて行った。彼女の前に立ち止まり、その、魂がゆさ振られてしまう、歌声を聴いた。


 夏の思い出がまわる

 ふいに消えた鼓動


 それは、とてもとても古い歌。アーカイブでしかその名を見ることができないような。

 でも、とてもとても、美しい歌。わたしはその場に立ち尽くしていた。観客はわたしだけだった。ちらり、と目の前の彼女が視線を上げ、わたしを見た。視線が交差した。彼女は無表情だった。無表情のまま、美しい歌を紡ぎ続けていた。


 命が繰り返すならば 何度も君のもとへ

 欲しいものなど もう何もない

 君のほかに大切なものなど


 歌が終わる。わたしはしばらくぼーっとして、それから慌てて拍手をした。大粒の汗を浮かべたその女性は、ガラス玉みたいな目でわたしを見返していた。

「鼻血」

「……え?」

 何を言われたのか、咄嗟にはわからなかった。

「鼻血が出てる」

 再び言われて、わたしは恐る恐る自分の鼻に、右手を添えた。手のひらがべっとりとするくらいの、血が出ていた。胸元にも赤い斑点が散っていた。こんなことは初めてだった。なんのエラーだろう。

「おいでよ、そのままにしておくとシミになるよ」

 彼女はギターをケースにしまうと、わたしに向かって手を述べた。わたしは一瞬躊躇して、でも、その手を取った。歩き始める。木陰の外に出る。午後の陽射しが容赦なく降り注ぐ。体の表面が焦げてしまいそう。アスファルトが溶けて、足の裏に貼りつきそうだ。

「上を向いちゃ駄目。血が喉に入ると嘔吐するよ。そう、下を向いて、鼻の頭を押さえるの」

 手を引かれながら、わたしは彼女の助言に従う。押し当てたハンカチは、すでに赤く染まっていた。

 いったいどこまで連れて行くつもりだろう。汗が頬を伝って、顎の先からぽたりと落ちた。でも、鬱蒼とした竹林に足を踏み入れると、陽の光が遮られて、少しだけ涼しくなった。さらさらと竹の葉が鳴る。足元に太陽の形をした、丸い光点がゆらめいている。

「あそこ」

 竹の林を抜ける。

「わたしが今、住んでるところ」

 目の前には捨てられた墓地が広がっていた。古い卒塔婆が傾ぐように立っている。墓石はみな苔むしている。思わず怖気に似た何かが背筋を這ったが、ふとその敷地の奥に目を向けると、木造の、古めかしい平家が見えた。半分朽ちているようなそれは、いつ建てられたものかも、よくわからないような代物で、多分わたし一人なら、近寄ったりはしなかった。

 ちり、りん、と風鈴の音が聴こえた。

 蝉の声が、いつの間にか茅蜩ひぐらしのそれに変わっていた。

 墓地を抜け、あまり手入れがされてない見越しの松を仰ぎ見ながら敷居を跨ぐ。飛び石の周りの苔がしっとりと濡れている。前栽には緑の強い椿の葉。千本格子の戸が彼女の手でからり、と開けられる。薄暗い。家の中はしんと静まり返っている。骨董品のようなくすんだ色のだるま時計だけが、こちこちと、静かな音で時を刻んでいる。

「上がって」

 背の低い彼女がわたしを振り返り、見上げるようにおとがいをそらした。

「大丈夫、取って食べようとは思っていないから」

 そう言われてわたしも少しむきになって、お邪魔します、とハンカチ越しのくぐもった声で言いながら、三和土に履物を脱いだ。

「血は止まった?」

 わたしは恐る恐る宛てがっていたハンカチを除けた。

「大丈夫みたいね。きっとのぼせたんだわ」

 彼女はわたしの顔を覗き込むようにして、小さな笑みを浮かべた。

「さ、玄関で立ち話もなんだから、部屋に行きましょ?」

 薄く笑いながら、彼女がわたしを手招いている。わたしはその誘いに応じながら、自分の血の匂いに酔いながら、いったいこれはなんなのだろう、と思っていた。


 彼女がわたしのブラウスを洗濯しているあいだ、ぼんやりと軒の暗がりに吊るされたしのぶ玉を見ていた。風鈴が、今いる部屋からは見えないけれど、時折思い出したように、り、りん、と鳴る。ほとんど無理やり着替えさせられた藍染の浴衣は、何度も何度も丁寧に洗われたものみたいで、やさしい肌触りをしてわたしを包んでいる。

「そろそろ蚊の出る頃かと思って、蚊取り線香を持ってきたよ」

 彼女が襖を開けつつ、静かな声でそう言った。

 手にした蚊遣りは陶器の赤猫で、口のところから白い煙を吐いている。燻された除虫菊の香りが、つん、と鼻についた。

「どうしてわたしに親切にしてくれるの」

 わたしの問いかけに、彼女ではなく、風鈴が、りん、と答えた。

「初めて会った、それも鼻血を出していた女に」

「あなたが」

 彼女が畳の上に膝をついた。

「わたしの探している人に、似ていたから、かな」

 その答えに、思わずどきりとした。わたしの考えていたことと、思っていたことと、同じだったから。背格好も雰囲気も違う。でも、この人はどこかゆすらに似ている、そう思っていたから。

「……その人、わたしと、どこが似ているの?」

「目。それから……声を聞いたとき。あの子の声だって、思った」

「わたしの声」

「うん。ねえ、そう言うあなたはどうしてこんな片田舎に来たの? 観光するようなところは、何もないような場所だけれど」

「わたしも人を探しているの」

 彼女の目を見ながら、わたしは言った。

 彼女の声が、ゆすらの声に似ていることは、言わなかった。

 そのときだった。ぼーん、と時計が一度だけ鳴った。十六時半を告げる、半打ちの音だった。

「あなたの服、乾いたか見てくる」

 彼女が立ち上がる。白いワンピースの裾がふわりとゆれる。彼女がいなく鳴ると、また、茅蜩の声が耳についた。空がゆっくりと黄昏ていく。

 どのくらいそうしていたのか、わからない。気づくと彼女も揃いの浴衣姿で、わたしの隣に座っていた。

「わたしの服は?」

「まだ、乾いていなかった」

 彼女からは、薄い、薄荷の匂いがした。

「服が乾いたとして、あなたはこれからどうするの? この辺り、宿もないよ」

 どうもしない。どうもしないのだけれど、わたしは黙っていた。

 どうしたらいいのだろう、と思っているうちに、きゅる、とお腹が小さく鳴った。恥ずかしいより情けなくて、わたしは腹部に両手を当てた。

「そろそろ時分だものね。そうめん食べる? 一把茹でるのも二把茹でるのも一緒だから。甘酒もあるよ」

「……いいの?」

「たくさん貰ってしまって。食べてくれるとありがたいくらい」

 そう言うことなら遠慮なく、とわたしは答えた。


「夜になると、涼しいね」

「涼しくなる工夫をしているのよ」

 蚊帳を吊った部屋で、二人並んで横になりながら、鉢を見ていた。

 部屋の隅、小さな火の灯った行燈には、牡丹の花が描かれている。どこにあるのかわからない、見えない風鈴は夜になっても時折小さな音を立てている。わたしたちが見つめる畳に置かれた硝子の鉢には、二匹の赤い金魚が泳いでいた。

「戸を全部開け放って、葦簾を張り、庭にはきちんと水を打って。音と、視覚も。さっきのお夕食のときに、そうめんと一緒に持ってきた熱い甘酒もそう。冷たい食べ物だけじゃなく、生姜をきかせてわざと汗をかくようにして。そういう諸々で涼を得ているんだ」

「感心はするけれど……でも、戸を開けたままなんて、不用心じゃないの?」

「取られるものなんて何もないもの」

「命以外には?」

 わたしは冗談めかして訊ねてみた。

「ギターだけは……わたしの命以上だけど、ね」

 彼女は真剣な声でそう答えた。

 あまりに真剣過ぎたので、わたしは手を伸ばして、そっと、彼女の手を握った。彼女はわたしの手を拒まなかった。彼女の指先は本格的にギターを演奏する人の手で、硬く、そして、美しかった。でも。その手がわずかに強ばっているのを、わたしは確かに感じていた。

「その人に、……操を立てていたりする?」

 わたしは訊ねた。

 別に、そういうわけじゃない、と。彼女は小さな声で言った。

「あなたの探している人って、どんな人?」

 わたしは訊ねた。

 あざらし……みたいな人、と。彼女は小さな声で答えた。

「あざらし?」

「そう。そのあざらしの人はね、歌を教えてくれたんだ」

 わたしは三秒くらい頭の中を検索して、アイルランドの古い民話にそんな話があったのを、ぼんやりと思い出していた。

「ねえ、わたしにもあざらしの人に教えてもらった歌、聴かせてほしいな」

「いいよ」

 彼女はわたしの手から離れ、するりと蚊帳を抜けていった。しばらくして戻ってきた彼女の胸には、あの、炎天下で奏でていた、飴色に鈍く光るギターが抱えられていた。

 再びわたしの隣に座る。彼女はギターを膝に据え、弦の調子を整えている。軽く爪弾く。

 そして、静かに、歌い出す。


 Look.

 Cold waves on the shore.

 White spray.

 It's like snow.

 I'm pulling you closer.

 And I wonder if I'm going to disappear.

 I whisper to you

 Hey, I hear the sea singing

 It's beckoning to me

 Hey, I hear the sea singing

 But you don't hear anything

 You don't hear anything.


 See.

 Countless gentle lies.

 Floating on the waves of the night

 It's like a dream

 You held me in your arms

 And murmur that you're not going anywhere

 Hey, I hear the sea singing

 It's beckoning to me

 Hey, I hear the sea singing

 But you don't hear anything

 You don't hear anything.


 やわらかでやさしい歌声が、わたしを、世界を包む。

 それは北の海を思わせる冷たい旋律で、まるでいつか見た幸せな夢のようで。ゆすらの声でそんなふうに囁くように歌われると……なんだか泣きそうになる。

 彼女の声が夜の闇に消える。冬の余韻が夏の空気に溶けていく。……消えてしまう。

 わたしは昼間に負けないくらい、拍手をした。そしてその分、切なくなった。

「今度は出さなかったね」

 すると不意に彼女が言った。何を言われたのかよくわからなくて、え? と、問い返した。

 彼女は自分の鼻を指さして、小さく笑った。わたしははっとして、恥ずかしくなって。赤くなった顔をうつむかせた。

「次はあなたの番」

 ちらりと上目遣いに。彼女へ視線を向けた。

「あなたの探している人のこと、教えてよ」


 この世界はね、本当は仮想現実で、誰かの観ている夢なの。とわたしは言った。あなたは夢、と呟き、首を傾げた。そう、夢。ここは多元的に配置された数千億の、結晶化された脳髄が見ている夢の中。あるとき、誰かが気づいたんだ。人類にはもう、夏を乗り越える力が残っていないんだって。科学の力を借りなければ死んでしまうんだって。それがわかったとき、世界は狂ったの。ううん、違うのかもしれない。世界が先に狂って、こんなに暑く、人が住めない世界になって……そのことに誰かが気づいてしまっただけなのかもしれない。でも、今となってはどうでもいいこと。全ての脳髄が夏に侵食されてしまった。わたしたちはもう、世界から逃れられなくなって、永遠に夏の日を繰り返す。人の世界は終わってしまったの。狂ってしまったの。わたしはね、結晶化された脳髄……その中の一つ、ゆすらと呼ばれた脳髄の、サポートAIだった。彼女だけが最後の最後まで夏に逆らい、背き続けた。そして、この世界のどこかの夏で意味消失してしまった。ゆすらはもういない。どこにもいない。彼女は陽炎のように消えてしまった。それでも、わたしは数千億の夏の世界を彷徨う。ゆすらにもう一度逢いたいから。逢って馬鹿って言ってやりたいから。ねえ、あなた。あなたはゆすらに似ている。夏に情緒と文化で抵抗しようとしている。でも、違う、やっぱり違うの。あなたはゆすらじゃない。それがわかったから。だから。わたしはもう行くね。彼女を探しに行くね。ありがとう。親切にしてくれて。わたしを助けてくれて。あなたの歌を聴いたとき、勇気をもらえた。同時に、夏に溶けていく歌に、胸が苦しくなった。あなたも闘っているのね。ずっとずっと、そうしていくのね。ねえ、最後に一つだけ、いいかな。……あなたの名前を、訊いてもいい?


 一花。……月庭一花だよ。

 わたしのことも、忘れないでね。



 風鈴がちりん、と鳴った。

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夏。 月庭一花 @alice02AA

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