憂鬱な未来
高黄森哉
人面蛾
ある時から、町に人面蛾があふれ出した。それは、遠い未来の話である。それは、遠い過去から始まっていたことだ。
「こいつは、どうやらメンガタスズメのようですぞ」
白髪の老人は街路樹に止まる一匹の蛾をつまみ上げた。
「こう見えて雀なんですか」
と市役所から派遣された男は驚いた。
「いえいえ。スズメガです。だから蛾ですな」
明るい陽射しが街路樹の並ぶ通りを支配していた。しかし、街路樹のもとには、影が落ちていた。二人の男は影の中にいた。
「では、既知の生き物でしたか」
「いいえ。私の知っているメンガタスズメはこんな顔をしていない」
博士の人差し指と親指の間にいる蛾は、不満げな醜男をその胸部に宿らせていた。鼻のつぶれた、目が能面のように細い、そしておでこが妙に張った、知能の低そうな、人間の顔だった。
「では博士、これはメンガタスズメではない」
「いえ。この胸部の模様を除けば、形態はメンガタスズメです。この模様を除けば」
その蛾はこの町で沢山発生していた。それで、町の街路樹は異様な光景だった。怨念のこもった顔が幹に沢山浮かんでいるような有様であった。
「なぜこんな模様になったのですか」
「ある仮説があります。メンガタスズメは骸骨の模様で有名だった。だから、人間に乱獲された過去があるのです。ときに、ダーウィンの進化論をしっていますか」
「淘汰。適者生存による進化」
彼は答えた。淘汰というのは、環境に適応できなかったものが脱落することを示す。適者生存とは、脱落しなかった者がその生き物を成すということだ。進化とは、その二つの繰り返しで、生き物が姿形を変えていく、という意味である。
「こういった模様の蛾は、気味が悪いから、コレクターに採集されなかった。だから、生き残った。それ以外の蛾は殺されていった。殺虫管、いや蛾だから冷蔵庫の中で。人間もある種の淘汰圧なのだよ」
「そうですか」
「ええ。それに、人間は頂点捕食者でもあるのでね。だから、この先の未来、動物はみんな人の模様を持つか、顔を持つかするでしょう。それどころじゃない。人間から逃れるために銃声を真似する鳥や、掴むと赤子の金切り声を上げる芋虫なども現れるに違いない」
「まさか」
と、男は口を動かしたが、しかし、その言葉には意外性が含有していなかった。博士の理論は飛躍があったが、ないとは言い切れない真実味が含まれている。
「そうならないために、もっと隣人を愛し、動物を殺さず、静かに生きることですな。では、私は帰ります。サンプルが取れたのでね」
博士と別れたあと男は考えた。我々の祖先が生きる未来はどんなに憂鬱だろう。人間があふれる世界。
そこまで考えて、我々が心底他者、あるいは自分、つまり人類が嫌いなのかに思い至った。憂鬱の本質は、まさにそこにあった。もし、人が人を愛せるならば。
街路樹の目線は、その希望にかぶりをふった。不気味でしかたなく本当の人間を見て安心しようとするが、往来の人々はすでに、心通じ合わない動物と化していた。彼らはお互いに挨拶も交わさない、つまり心の殺虫管にしまい込みたくない、あの蛾と同じ扱いの他者。
男は博士が云った未来が来ることを想像もしたくなかった。だから、この現象を自然の気まぐれと解釈して心落ち着かせて見せた。しかし、彼の目と鼻の先を大きな真っ黒いジャコウアゲハがかすめ、つられて空を仰ぐと、真っ暗な人間の顔が、ひらひらと蝶の形をして舞っていた。男はその顔を知っていた。仕事で一人暮らしを始めてから、もう一言もしゃべらなくなった、彼の妹である。
憂鬱な未来 高黄森哉 @kamikawa2001
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