236兆5000億キロメートル旅行
はに丸
236兆5000億キロメートル旅行
なんてきれいなんだろう。夜の闇に広がる満点の星々に向かって、少年は嘆息した。
生まれた時から住んでいるのは都会のベッドタウンという場所で、住宅地と産業道路が入り乱れる町だった。スモッグと街灯を映す空は夜も灰色がかっており、冬の澄んだ空でようやく、オリオン座の三つ星が見える程度である。夏や秋になると、ぼんやりと何かがあるというのが分かる程度であった。誰もが夜空など見ない地域であった。
少年も、夜空など気にしたことがなかった。時折、流星群が、とか、スーパームーンが、などとニュースで特集されていても、心動かされない。マンションの並んだ町から空を見上げても、建物の影で月など見えず、地上の光を照らし返す空に流星群の尾さえわからないのを知っていたからだ。
だが、彼は満点の星を見てしまった。
忙しい親がベビーシッター代わりに放り込んだ、夏休み体験キャンプだった。吸いこまれるほどの広い空と無数の星々に少年は口を開けたまま茫然と見た。圧倒され、恐ろしくもなり、最後には美しさに魂が抜ける思いであった。
「星図の見方を覚えよう」
スタッフが子供達に星図を配った。少年もわからないながら星図を受け取った。授業で聞いたような気がするが、己に関係無いと思っていたものである。テストの点数のために覚えて、満点を取ったらそれで終わったものだった。
「南の空を見るから、星図の『南』を下にして、両手で持つんだ。腕を真っ直ぐ前に伸ばした後、こぶし一つ分だけ上に上げてみよう」
素直な子供達はスタッフの言うとおり、腕を上げた。数値で言えば、腕の角度は十度とし、空に向かって星図を掲げている。
「空と星図を見比べて見よう! 色んな星や星座が見つかるよ」
少年もスタッフの言葉通り、従順に星図と夜空を見比べた。そうなると、無数のランダムにしか思えなかった星々に名がついていく。こと座、わし座、はくちょう座で夏の大三角形。星図にはベガ、アルタイル、デネブという文字も書いてある。
「先生。これは何?」
少年はスタッフに聞いた。子供にとって引率する大人は全て『先生』である。スタッフは、腰を落として視線を合わせながら星図を指さす。
「星の名前だよ。三つともとても明るい星なんだ。とても明るい星を一等星と言うんだ。ベガが夏の星で一番明るいんだよ」
そうして、太陽と同じものが遠くにあって、ここまで光が届いていることまで、スタッフは丁寧に教えた。この少年が情報を飲み込むのが早い、と気づいたからである。実際、少年は大人から注ぎ込まれた新たな知識をすぐさま体の中に溶かし込んでいった。
「きれい、とてもきれい」
そう頷いたあと、彼は一人頷き、
「ベガ、きれいーーー!」
と、空に向かって叫んだ。スタッフが子供の奇行に驚いていると、他の子も真似を始める。
ヘラクレスおおきい!
へび、長い!
いるかに似てないぞ!!
「ベガー! ベガ―!」
「どうしたんだい、いきなり大声をあげて。みんなも! キャンプ地には他の人がいるから静かに!」
スタッフの言葉に、みな少しずつ静かになっていく。親から離れてやってきた未知の場所である。引率の大人がいないと何もできないことを、子供たちはなんとなくわかっていた。さて、少年である。
「ベガの光がきれいだって、お礼を言いたかった。初めて、こんなにきれいで強い星を見たから」
ほおを染めて力説する少年は、そのまま夜空と星図を見比べ、何度も興奮の息をもらした。スタッフはつられるように空を見上げたあと、優しい顔で少年を見下ろした。
「あの星はとても遠くにあって、君が見ているのは二十五年前のものなんだ。二十五年前の光がようやく、ここに届いているんだ」
「……じゃあ、僕の声は二十五年もあとに届くの? 僕、おじいちゃんになっちゃう」
いまだ小学生の彼が二十五年経っても三十路程度であるが、彼にとってそのくらい気が遠くなるくらい先の話なのだ。スタッフは首を振った。
「音は光より動きがとても遅いんだ。二千万年後かな」
うろ覚えの計算式で絶望的な数値を出す。このスタッフは少年のロマンよりも知育を選んだらしい。
「じゃあ、僕が一生懸命走って、近所にいったら、届く?」
少年の気負いに、スタッフは首を振った。
――600億年くらいかかるんだよ。
光の速さで二十五年、音の速さで二千万年、少年の歩みで600億年。
少年は、星図を持ったまま腕をおろし、茫然と空を見上げた。強い光がたくさん、身を刺すように降ってくる。そのひとつひとつに、きれいだ、かっこいいと声をかけることができるのに、星には届かない。
あの星たちに僕の声は届かない。
震える手でもう一度星図を掲げ、空と比べる。乙女座のスピカ、さそり座のアンタレス、長いへび座を持つへびつかい座。それらは、少年には見えるのに、なんて遠いのか。
このキャンプは子供達にとって忘れられないものになったらしい。川遊び、虫取り、原始的な火起こし、コテージでの雑魚寝。皆、都会ッ子であり、ほとんどが初体験であった。
少年は、星だけが胸に残った。あの星に近づきたいと思った。
なんというか。
星に魅せられた少年は、プラネタリウムに通い出す。地方都市ながら文化に力をいれていたその都市は、図書館に小さなプラネタリウムがあった。ちっぽけなプラネタリウムと図書館に入り浸った彼は、星に最も近い職業を見つけてしまった。
「僕は、てんもんがくしゃになる!」
小学校を卒業して中学生になっても、彼の目指す職業は天文学者であった。地域最難関の高校に合格した彼は、ご褒美がほしいと天体望遠鏡をねだった。彼が示したものは、高校の授業料をはるかに超えるものであったため、両親は懐に優しい、初心者向けのものを買い与えてやった。
「これじゃあ、遠いなあ」
肉眼よりはよほど星雲も彗星も見えるものであったし、星の光も大きく見えたが、より近くなるわけではない。彼の初恋ともいえるベガの光も、二十五年前の光のままだった。
「新星をまた見つけた。この年でも嬉しいものだね」
老人が画像を確かめながら言った。新星とは、極めて雑に説明すれば、恒星の表面で起きる爆発である。星の人生の中で幾度も起こるものだが、人類からすれば一度発見できれば良いほうである。お気に入りの天体望遠鏡にカメラを設置し、処理端末で撮影する。その画像を己が所属する天文台で照会する。見事、新たな新星爆発であった。
老人がここ、と画像を指さす。部屋に入ってきた老人の助手が、苦笑した。
「教授は新星どころか、新しい法則も発見なされているじゃないですか」
アマチュア天文ファンのように天体発見にいそしむ変わり者の天文学者。宇宙の真理を追究しながら、星の光を追いかけている、というのが、昔から今に到るまで彼の評判であった。
「天文学者というものは、星を見るのだと子供のころは思っていたものだ。今も、それがある。私の初恋はこと座α星だった。――ベガの明るさを知らなければ、ダークマターの重さも知らなかったろう」
仮説でしかなかったダークマターを解明し、理論から実践にまで昇華させた。老人はその功績でノーベル賞候補にまであがった。まあ、候補で終わったのだが、彼にとってどうでもよいことだった。
「……お時間です。本当によろしいのですか、教授」
「決めたことだ。私がダークマターの運用を証明するのが一番だろう。一万二千年後にベガが北極星になる。真北に輝くベガがどうせ見られないのだ。同じことなんだよ」
少し暗い顔をする助手に老人は笑いかけ、部屋を出た。長い間使っていた研究室はそのままである。みなにそっくり渡すためでもあるが、老人が『死ぬ』まではそのままにしておこう、という話であった。
かくて、銀河系の中心に向かって一つの無人探査機が発射された。それは、疑似人格AIを載せたもので、AIの可能性も含めたおおいなる偉業と全世界に発表された。
実は、AIではなく、本人であった。医学の粋をこらして、人の脳や神経細胞と探査機を繋いだ、非人道的な実験であった。提唱者が実験体になるというもので、幾度のシミュレーションの末、99.989999%の成功見込みという数値の元に実行された。
この有人探査機にはなかなかロマンチックな名を冠されていたが、まあそこは本題ではない、割愛する。
提唱者、まあ、お察し老人であるが、彼の理論であるダークマターを宇宙で取込ながら加速し、今までより早く太陽系を脱出して銀河系の中心へと向かっていく。
「すごい、予想の十年も早く冥王星を離れた!」
送られてきたデータに、みな驚きと歓喜の声をあげた。ほとんどがAI探査機だと思い込んでいるスタッフばかりである。老人の意地か、と思った元助手は哀しさと後ろめたさを振り払った。すでに人の意識を保っているかもわからない、探査機である。彼は口を開いた。
「銀河系の中心、星々が生まれいずるところに行く、最初の探査機だ。くれぐれも、軌道がずれないよう注意してくれ」
人の思考と機器がたえず修正しているとはいえ、正しい軌道を示すのはバックアップの役目である。必ず成功させなければならない。自らを犠牲にした老人のためにも。
探査機は、優秀だった。――優秀すぎた。
ダークマターを取り込み、処理し、機体が軋むほどの速さを見せていく。当初、思った以上に早く結果が出る、次世代が見るはずのものを、自分たちが見届けることができると胸弾ませていたスタッフたちも、顔を引きつらせた。
探査機が老人の棺であることを知っていた、最後の人――元助手が天寿をまっとうしたころ、観測チームは阿鼻叫喚であった。
「計測データが出ました、バカな、こんなことが、光速、光速より、
最もエネルギーと質量のある物質として発見され、探査機が使うことによって有用性が証明される。銀河系の中心へ行くよりもっと重要なことであった。が、証明されすぎであった。いったい、『AI』がどのようにダークマターを運用しているのか、機体はもつのか。
「AIの暴走なのか」
「そうかもしれません……。軌道が少し外れています。修正を受け付けないんです」
スタッフたちは、人類の誇りある偉業が失敗に終わるのだと、悟った。
少年は、老人は、探査機は、手を伸ばす。手などもはや無いのだが、伸ばし、眼前で燃えさかり爆発をくり返す巨大な光を見る。水素核融合によるエネルギーは球体の表面を9500度の炎で覆い尽くしている。
「ベガ、きれいだ。ようやく直接言えた。初恋の君よ!」
探査機より発信されたその言葉を最後に、宇宙は静かになった。いや、こと座α星は少し頬を染め、大きなフレア爆発をしたので、そのくらいは少年の心に届いたのかもしれない。
236兆5000億キロメートル旅行 はに丸 @obanaga
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