かなしみが消えることがないとしても

 男の子の父親は、まだ若い青年です。

 青年は、山のふもとの村でうまれました。

 そこは昔は、水と緑にめぐまれた、とてもうつくしい村でした。村びとたちは、春の芽吹きをよろこんで、夏の陽射しのもとで踊り、秋の色合いを慈しみ、冬の白さのなかでは寄り添って、そうやって、つつましい暮らしをしていました。

 しかし、あるとき、村に変化が訪れます。

 外から大勢のひとがやって来て、きびしい取り立てをしました。戦のためにと、たくさんのひとが、遠くへ連れて行かれました。病が流行り、畑が荒れ、村はひどく昏いところとなりました。

 青年は、村がいちばん苦しいときに、うまれた子どものうちのひとりでした。

 そのころ、子どもたちの多くが身売りへと出されました。また、山へと向かったきり、二度と帰らない子がいました。

 青年には、兄がいました。

 彼の兄も、帰ってこなかった子どもでした。

 幼い彼は気がついていました。

 母親から、兄へ渡すよう頼まれた果実に、毒が仕込まれていたことを。

 だから、彼は、ずっと泣けませんでした。

 だいすきな兄を殺したのは、自分だと考えていたからです。

 

 朝が夜に、夜が朝になるように、やがて、村にもひとすじの光がさしこみます。

 流行り病の治療薬を、村びとのひとりが見つけたのです。山の草花を調合してできた薬です。

 見つけたのは、たくさんのひとが病に倒れたのを、歯を食いしばりながら看取った医者の娘でした。

 薬を利用し、不要なほどの富を得ようとするものが、とうぜんあらわれました。

 村びとたちは屈しませんでした。ときに争いながらも、薬が、必要なひとたちのもとに、必要なぶんだけ届くように奔走しました。

 すこしずつですが、村は、明るさを取り戻しはじめました。


 青年は村の娘と結婚し、子どもをひとり授かります。

 彼は、幼いころに帰らぬひととなった、兄のことを忘れませんでした。

 起きて、働いて、夕暮れどきがちかづくと、山へと向かい手をあわせる。家へ帰り、子どもと妻のとなりで眠る。それが青年の日常です。

 

 ある春の晴れた日のことです。

 いつものように青年は、山へ手をあわせに向かいました。

 いつもとひとつ違ったのは、青年の──父親のうしろを、こっそりと、子どもがついてきていたことです。

 子どもは、仕事終わりの父親が向かう場所が、ずっと気になっていました。

 草のしげる山道を歩くうち、子どもは、父親の背中を見失ってしまいます。

 青年が、家に子どもがいないことに気づいたのは、陽がすっかり傾きかけたころです。

 彼は、妻と手分けして、必死で子どもをさがしました。子どもの名前を呼びました。

 陽はどんどん沈んでゆきます。暗がりが、あちらこちらへ顔を出します。

 そのときでした。

 高い、澄んだ笛の音が、青年の耳に届きました。

 彼は、音のしたほうへ走り出しました。

 いつか、ずっと昔にきいた、なつかしい音でした。

 草木をかきわけ、木々のあいだを抜けたさきで、彼は、彼の子どもを見つけました。

「おとうさ、」

 泣きじゃくる子どもを抱き寄せて、青年はふと、顔を上げます。

 やさしくまぶしい橙の空へ、光のたまが、のぼってゆくのがみえました。

 踊るように、手をつないでまわるように、光はかろやかに浮かびます。

 やがていつしかその光は、黄昏のなかへ包まれて、そしてみえなくなりました。

 腕のなかの子どもを抱きしめながら、ようやく青年は泣きました。

 




 名残惜しそうにそろそろと陽が沈んだそのあとには、月の光が降りそそぎます。

 お日さまほどのつよい光ではありませんが、白く、やさしい光です。

 父子の去った場所には、ちいさな笛が落ちています。

 残されたその笛を、月の光はてらします。

 遠くで山犬が吠えました。山に、その声がこだまします。

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光の庭で手をつないで 折り鶴 @mizuuminoue

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