光の庭で手をつないで
折り鶴
光の庭
村を出てしばらく歩くと、あたりをつつむ霧の気配が濃くなった。振り返ることはゆるされない。後戻りなどなおさらだ。
もっとも、振り返ったところで意味はない。
ぼくの眼にはなにもうつらない。
つめたい霧にひたされて、からだ全体がさむかった。地面は湿っていて、一歩踏み出すごとに土が跳ねて足にかかる、その感触がずっとあった。
そっと空いた片手を伸ばし、周囲を把握する。ひやりとなめらかな、木の幹。それが、不均等に立ち並んでいる。進むにつれ、密集してゆく。
どんどん、森の、山の奥深くへと、向かっていることは間違いない。村のひとたちや、母様の望んだとおりに。
木に触れた手とは反対の手で抱えた籠を、おとさないように抱き直す。籠の中身は、たくさんの
──迷っても、こいつが光って、道を教えてくれるからね。
村を出る直前、母様はぼくにそう言った。
──光なら、光だけなら、おまえの眼にもうつるんだろう。
母様はぼくの顔を見ないでそう言った。母様の言うとおりで、ぼくの眼が捉えられるのは、ぼんやりとした光だけで、あとは、ぜんぜん、なにも見えない。六つのころに高熱を出して、起きたらそうなっていた。視力のほとんどを失った。
だけど、わかる。そのぶん、耳は研ぎ澄まされた。
うつむいて話しているのか、顔を背けられているのか。声の反響や息遣いで、それぐらいはたやすくわかった。
──『川』へはまっすぐ向かえばいいだけさ。それで、籠の中身をひとつずつ流す。お供えだよ。できるだろう?
もちろん、ぼくは頷いた。
あたりまえだった。母様たちの、村の意向に逆らうことが、子どもにゆるされるわけはなかった。
村では、ときどき、『お遣い』に向かう子どもが選ばれる。選ばれた子は、籠いっぱいの鬼灯を抱えて『川』へ向かう。
『川』へ向かう子どものなかでは、ぼくは特別におおきなほうで、もう、とっくに七つを過ぎていた。
立ち止まって、籠の中身に手を触れる。かさかさと鳴る、ふしぎなかたちをてのひらで包みこむ。ひとつ、そうっと持ちあげてみる。あかりが灯ることはない。
鬼灯が光って道標となるという、母様の話はとうぜん、嘘だった。最初から気づいていたことだ。
『川』へ向かった子は、帰れない。
この山奥深い霧の森で、子どもがひとり生き延びられるわけがない。
村は貧しかった。食べるものは足りなかった。しばしば病が流行った。父様も、病でいなくなった。働けるものは少なかった。ぼくより、ぼくの弟のほうが、他の家の子たちのほうが、立派な働き手となるのは明らかだった。だから、しかたがない。
とにかく『川』を目指した。それしかできない。かすかに、瀬音がきこえていた。音を辿って、ひたすら歩く。
村の周囲には、いくつか川が流れている。ぼくらがふだん、生活で使っているのは南を流れる川で、いま、ぼくが目指している山側、北の川はふだん、ほとんどだれも寄りつかない。
何度も転びながら、山の奥へ、奥へと進んだ。水流がじょじょにはっきりときこえてきていたから、目的地へと近づいているはずだ。霧ははれてきたようで、空気のにおいが変わっていた。
もうすっかり夜だろう。やけに静かな夜だった。風はなく、虫や、鳥の声もしない。眠りについたような木々を抜けたところでそこに着いた。水の音はすぐ間近にあり、地面は石が敷き詰められたような感覚に変わっていた。
籠を置いて、しゃがみこむ。そろそろと手を伸ばしてみる。夜の空気よりも、さらにつめたい川の水。
しばらくその感触で遊んだあと、ぼくはお役目を果たすことにした。
籠から鬼灯を取り出して、ひとつずつ、川へ向かって放っていく。
鬼灯って、どんなの? 出発するまえ、弟と交わした会話を思い出す。ほんとうの明かりみたいだよ。いまにもね、ぱって、燃えそうな色をしてるの。ぼくがたずねると、弟は、泣きそうな声で教えてくれた。
きっと、きれいなんだろうな。
想像してみる。
まっくらやみのなかを、たくさんの、ちいさな灯りが流れてゆくところ。
意味はないけど、眼を閉じた。そうするとなんとなく、落ち着いた。眼が見えていたころの光景を頼りに想像をすること。それは、ぼくにとっては、夢をみることとよく似ている。
眼を開ける。
村に、家に帰る、という考えが瞬間浮かんで、すぐにそれを打ち消した。来た道などとうにわからない。
川に沿って進む、という案がないわけではない。上流に進むと、より山奥へと踏みこむこととなる。下流に沿えば、うまくいけば、村の南を流れる川との合流地点に辿り着くはず。だけど、村の周囲を外れてぐるっと迂回することになる。体力が持つとは思えないし、川辺がずっと歩きやすいとは限らない。崖や岩場にあたればそこで終わりだ。
立ち上がってすこし移動して、おおきな木の根本に腰を下ろす。そのままうずくまるように横になる。
ちょっとだけかじって、ゆっくりゆっくりあじわった。残りはまた袂にしまい、ふと思い出して、反対の袂をさぐった。
短刀を取り出す。
これは、母様から、いただいた。
獣に遭遇したときのために、と渡されたものだが、それはただの建前で、ちゃんと、母様の意図はわかっていた。
飢えるのがくるしかったら、一突きで終わらせていいよ。
どうしよっかな。刃先を指でなぞってから、これもまた袂にもどした。眼を閉じる。月明かりはぼくには届かない。眼を開けようが閉じようが、まっくらやみに変わりはない。眠ろう、と思った。からだがさむくてつめたくて、それからひどくつかれていて、とにかく眠ってしまいたかった。
やけに、まぶしい光で眼を醒ました。
太陽とは違う。お日さまはまぶしいけれど、ずっと遠いところにあるから、こんなふうにつよい光には感じない。
光源、というのか、光のかたまりは、ふよふよとぼくのまわりを漂っているようだった。ひとつじゃない。ひとつ、ふたつ、数えてみるとみっつあった。
ひとつの光が、ぼくの頬あたりをかすめてくすぐった。あたたかい感触がじんわり残る。
みっつの光は、跳ねるようにして、ぼくのまわりをくるくるまわり、ときどき、じゃれつくように触れてきた。幼い子どもみたいだった。弟や、それよりも、もっと、ちいさな歳の子くらいの。
そのうちに、光はほんとうに子どものすがたである、ということに気がついた。甘えるようにぼくの着物の裾をひっぱったり、しきりに飛び跳ねたりしている。
そのうちのだれかが、ぼくの頭をそっとなでた。たどたどしい手つきで、頭を何往復かする。ほかの光たちも集まって、それぞれに、ぼくの手を握った。
瞬間、なにかがこみあげて、こらえきれずにぼくは泣いた。ぼくが泣いているあいだ、光たちは、ずっと、ぼくの頭をなでたり、手を握ったり、背中をさすったりしていてくれた。遠くで、鳥の鳴く声がきこえた。風が走り抜けて、あたりの木々を揺らし、葉が触れあう音がした。
いたくない、いたくないよ。
いつしか、そんな声がきこえていた。からだにそのまま響くような、ふしぎな心地の声だった。あまりにもあどけない声で、なぜだか、それがむしょうにかなしかった。
それから彼らの案内で、あたりを散策した。
名前は、ときいてみると、はな、りん、ぎん、とかえってきた。
おにいちゃんも、あとでお名前きめようね。
はなにそう言われて、ぼくは、うん、とうなずいた。りんがぼくの着物の裾をひっぱった。ぎんは、かろやかに、ぼくらのまえを飛び跳ねていた。ぼくの眼には光が弾むようにみえていて、その動きがかわいらしかった。
空気はからりと澄んでいた。はなが手を引いてくれたおかげで、転ばずに歩くことができた。立ち並ぶ木々のあいだを抜けると、ぽっかりとひらけた場所に出た。りんとぎんが、駆けまわる様子からそれがわかった。となりで、はなが座りこむ気配があったので、ぼくも腰を下ろした。
手をのばすと、やわらかな草がしげっているのがわかった。朝露でぬれた葉の、甘い匂いが立ちこめた。ゆびさきに、くすぐったい感覚があって、ふしぎに思っていると、虫さんだよ、はなが笑いながら教えてくれた。
ゆびをのぼっていた感覚は、唐突にぱっと消えた。虫が飛びさったようだった。それとほとんど同時に、そばで地面を蹴る音がして、はなが、りんたちのほうへ走りだしたのがわかった。
おにいちゃんも遊ぼ。
三人に呼ばれて、立ちあがった。そしてそろそろと、走りだす。はじめは怖かったけど、そばで、ずっと、光が跳ねていたから、はなたちがいることがわかったから、しだいに不安はなくなった。
目的ももたずに、ひたすら駆けまわった。太陽が沈むころになると、みんなで、おおきな木の根本で、並んで横になった。
疲労も、空腹も、まるで感じなかった。
それで、そっか、もうぼくは、『川』を渡っているんだな、とそう悟った。
それからはただ、移ろう季節とともに、遊びつづける日々だった。
ぼくは、とき、と呼ばれるようになった。
陽射しを浴びながら、川で水をかけあったり、冬に向かい落ちてくる葉をあつめては、そのうえで寝転んで笑ったり。雪が降った朝には、あたりいっぺんを、さくさくと足あとをつけてまわった。春になれば、風をあびながら、花のにおいをたのしんだ。
山の獣のなかには、ぼくたちがみえているものもいた。山犬がその代表で、ぼくらはしばしば、彼らとも遊んだ。りんとぎんは、山犬の子と走りまわるのがすきで、よくそこいらを転げまわっていた。ぼくは、はなといっしょに、山犬の背中にからだをあずけて、うたた寝をした。ふわふわとした、毛の感触がすきだった。
それでもぼくらには、ときどき、ものすごく泣きたくなる瞬間があった。そういうとき、山犬たちは、あたたかくてざらざらした舌で、ぼくらの頬をなでてくれた。そうすると、ちょっとだけ、寂しくなくなる。
みんなで歌を歌ったり、演奏をする日もあった。
どこで憶えたのかもわからない旋律を、気の向くままに口ずさんだ。
落ちていた木の枝を、持っていた短刀で削り、笛をつくった。ぼくは、たぶん、昔から、こういうことが得意だった。みえなくても、ゆびさきとてのひらで、かたちをたしかめながらやれば、そうむずかしいことじゃない。
はなと、りんと、ぎんと、ぼくと、よにんで並んで吹き鳴らした。夕暮れの丘で思いきり吹くのが、ぼくらのお気にいりだった。
そのよく研がれた短刀を、いつから、なんのために持っていたのか。だれから手渡されたものなのか。
ぼくはもう、それを思い出せなくなっていた。
季節は巡り、いくどめかもわからない春の、晴れた日の午後のことだった。
ぼくらは、どこからか、泣き声がすることに気がついた。まだ、幼い子どもの声。
きこえる?
うん。
みんなで、泣き声のするほうへと向かった。そう遠いところではないようにきこえた。
ふだん、あまりちかづかないほう、ふもとへと向かって、こわごわ歩く。
そして、泣き声のもとで、よにんそろって立ち尽くした。
泣き声の持ち主は、ちいさな男の子だった。
男の子は、決定的にぼくらとは違った。
彼は、まだ『川』を渡ってはいなかった。
耳を澄ますと、もうひとつ、声がすることに気がついた。
それは、泣いている男の子を、必死でさがしているだれかの声だった。何度も、何度も、くりかえし名前を叫んでいる。
帰らせてあげたいねえ。
それが、ぼくらのうちの、だれのことばだったのかはわからない。
でもそれは、ぼくら全員の思いだった。
帰らせてあげよう。
ずっと、ずっと遠い昔、帰ることができなかったぼくたちはそう思った。
男の子には、ぼくらのすがたがみえていなかった。
ちかづいてみても、泣きじゃくるまま。
声をかけてみてもおなじだった。こちらに対する反応がない。
こまったね。うん。どうしよう。
はやくもぼくらは途方にくれた。
ぼくは、以前よりもずっと、耳がきこえるようになっていた。いまや、集中すれば、山の向こうの声までききとれる。だから、村の方角、ひとのいるほうはわかる。でも、案内できなければ意味はない。
この子はここにいるよって、あのさがしてるひとに、呼びかけてみるのは?
これは、りんの提案だった。
あのひとには、ぼくらの声、きこえるかな?
どうだろう。
とにかくためしてみよう、ということで、みんなで叫んでみた。だけどぼくらは、ちいさな声しか出せないのだ。
そうだ、笛は?
はなが、ささやくようにそう言った。
ときの笛だったら、きこえるかもしれないよ。
そう、かな。……ちゃんと、きこえるかな。
なぜだかぼくは不安だった。なんだか、かなしいようなきもちですらあった。だれにもきこえないし、届かない。まえに、そんなことが、あったような気がしたのだ。
きこえるよ。
やけにきっぱりと、そう言い切ったのはぎんだった。
ときの笛の音なら、きっと、ちゃんと届く。
そのことばが、ぼくの、ぼくたちのお守りになった。
いつもそうしているみたいに、よにんでとなりあって並ぶ。
いくよ。
うん。
せーの、で、息をあわせて、
そして、
笛を吹き鳴らす。
澄んだ高い音が空気を裂いて、響いて、駆け抜ける。
ざっと、風が吹きつけた。
なにかが、動く気配。
予感のような。
はっと顔を上げて、それから、こちらへ駆けてくる、だれかの様子が浮かんできた。
はなも、りんも、ぎんも、おなじように感じているみたいだった。
ぼくらは、手をつないで待った。
泣きじゃくる男の子を、迎えにきてくれるだれかを。
あっというまのことだった。
木々が揺れ、葉を踏みしめる音がして、足音はちかづいてきた。
男の子が泣き止んだ。あたりをうかがっているのだろう。
「おとうさ、」
そして、その子がそれを言い終えるよりもはやく、駆け寄ってきただれかが、男の子をぎゅっと抱きしめたのが、みえなくても、ぼくにも、はっきりとわかった。
よかったねえ。
ぼくらのうちの、だれかがそう言った。
また会えて、よかったね。
ちゃんと、きこえたね。届いたよね。
……これで、帰れるねえ。
そのことばのもつ響きが、波紋のようにあたりにひろがって、それから、ふしぎな感覚が、ぼくらを包んだ。
ふわり、と、浮かびあがる。
手をつないだままで。
つよい光が、とびこんでくる。
そこで気がつく。
いつのまにか、ぼくは、すべての光を取り戻していた。
みんなの顔が。
はなの、りんの、ぎんの顔がみえる。
あっけにとられたような顔。
ぼくたちは、浮かびあがる。
手をつないだまま、どこまでも、高く、高く空をのぼってゆく。
ぼくらはだれからともなく笑いだした。あたたかいような、くすぐったいような心地だった。
ひさしぶりにみた空は、もう暮れかけていて、まばゆい橙の光が、すべてを染めあげ、照らしていた。
ただ、どこまでも、光の帯に満たされる。
たくさん遊びまわった山、そこからずっと流れてゆく川。流れのさきを追えば、いちめん、きらきらと輝いて、遥かにひろがる──ああ、そっか、あれが海か。
ねえ、もしも、もしもだよ。
はなが、泣きそうな顔で、ぼくらに笑いかける。
もしも、こっちに帰ってくることがあったら──そしたら、そしたらね、そのときはまた会おうね。
うん、とみんなでおおきくうなずいた。
ぎゅっとかたく握りあっていた手の感覚が、じょじょに、溶けてゆく。
耳を澄ませる。
ごうごうと、風の音、唸る音。ざざざと、遠くで、海の鳴る音。もっと、遠くまで、意識を向けてみれば、鳥の囀り、獣の咆哮、虫の歌。そして、ひとの声もきこえる。笑う声も、争う声も、かぼそい泣き声もある。
ぼくらのいた場所は、とても、とてもかなしいことや、やるせないこと、残酷なことがたくさんあって、それでも、ときどき、はっとするほどうつくしいものがあって、泣きたくなるくらいやさしいものもある。
やがて、光に包まれる。
いまは、いまだけはもう、さむくもなければ、つめたくもない。
手をつないで、光のもとへかえる。
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