(三)
「あなたが相応しいと思えて拠点にできるなら、あるかないかわからない場所でも構わないのだろうか」
男は目を細め、難しそうな顔をした。珠を両手でをそっと包み込むように緩く握り、何かを想像しているように見える。
「そうだな、そういったことは考えたことがなかった。それは何処?」
アルカは日本史の教科書をまた少しめくって地図のある頁を探し、丁度良い図があったので、それを彼に差し出して見せる。
「ほら、大体この辺りだよ。僕らがいるのはこの辺りだから少し遠いけど、電車が通っているから心配ない」
「なるほど」
「けれどそれは海の中なんだ」
「海中に?」
男は身体を大きく震わせて仰天した。
「うん。其処には都があると謂れているのだって。というよりも、素晴らしい都があったら良いのにと望まれているのだけど。だから思い浮かべたんだ。この海の中に、あなたの国があったらって」
彼は押し黙った。その一瞬で何を想ったのかアルカにはわかりかねるが、とにかく男はこくりと頷いてみせた。
雨はまだ止む気配もなく降り注ぎ続けている。トタン屋根を打つ雨粒は冷ややかな飛沫となって二人に降りかかり、靴底から染み入る水もじわじわと体温を奪うようだった。
なのに彼は、亡霊のように音もなく立ち上がると、そのまま何処かへ歩いて行く。降りしきる白い雨が帳となって、彼の姿はすぐに見えなくなってしまった。
アルカは咄嗟に「また話せる?」と彼に呼びかけたが、水がぶつかる激しい音にその声は掻き消され、彼にはきっと聞こえなかっただろうと思う。
けれどそれから二週間経ち、図書館で本を探していると妙なことがあった。
小説が並ぶ書架のあいだを目的もなく歩いていると、背表紙の美しい本が目についた。あまりに驚いたのでそれが何の本だったか忘れてしまったが、その本を引き抜いたとき、あの小さな珠がころりと出てきてアルカの足元に落ちたのだ。
拾い上げてよくよく眺めてみたが、やはり彼が大切そうに持っていたあの宝石に違いない。
――きっと彼は辿り着けなかったんだ。遠すぎたのか、あるいはもう動けなくなったのかもしれない。
妙なことだが、そう考えるとすべてが腑に落ちた。ならば、彼は自らの故郷であるこの珠をアルカに託したのだろうか。
きっと彼はあの西の端にある海が『拠点』に相応しいと感じたに違いない。そしてアルカは、おそらくこの珠をそこへ届ける役目を担った。
さほど重荷には感じられなかった。なにしろその場所へは来春、クラブ合宿を兼ねた旅行の行き先のひとつであったから。
旅行までの数ヵ月、宝石はアカシアでできた小皿に乗せ、机の上に置いておくことにした。最初の数日は硝子の小物入れに入れていたが、硝子の中はどうも寒々しいように感じ、すぐ木皿に替えた。
ときどき手に取って、彼の大事な宝物をじっと眺める。
これをひらくと何がどうなるのか。ひらくというのはどういうことなのか。
アルカには知る由もないが、それはきっと、別の誰かが役割を担って采配するに違いない。自分はただこれを、彼の故郷を内包するこの珠を、然るべき場所へ届ければ良いだけだ。
漠然と畏れる気持ちはないでもない。案外彼の説明がでたらめで、まったく別の国が天から降ってくる可能性もある。日本列島の一部か、もっと広い範囲かが、アルカもろとも潰れて無くなるかもしれないが、それでも早くあの海へ行きたい気持ちが勝った。
「ちゃんと僕が届けるからね」
何度も何度も、小さな宝石へそう囁いてみる。時が止まっているなら誰も聞いていないはずだけれど。
溢れ出す人々の笑い声、花の匂いとざわめく山の木々、波の下でひらかれた彼の故郷を想像する。自分がそれを見届けることは叶うだろうか。春が待ち遠しくて仕方なかった。
望郷の最果 平蕾知初雪 @tsulalakilikili
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