(二)
「私がかつて住んでいたところは、すっかり包み込まれてこの中で眠っている。時は動かないようだから、寝息を立てているわけではないけれど。確か、暖かな春の昼下がりだ。私の家族、人々も馬も羊も山羊も鹿たち、山も花も、私以外は皆この中に」
「どうしてあなただけ此処にいるの」
「それはもちろん、この珠を受け取る者が一人は必要だったから。もしも何かの弾みで海や空の彼方にこの珠が失われてしまったら、もう元に戻すことができない。この珠が失われても、厳密には誰の命も失われないけれど、私には時が止まったまま永遠に在ることと死とが似ているように感じられて。だから外側で受け取ることにした」
彼の吐息が混じった声は柔らかかったが、徐々に掠れていった。時折苦しそうに肩で息をするので、肺の病を患っているのかもしれない。酷く血色の悪い顔で、けれど愛おしそうな眼差しを小さな宝石へ注ぎ、離さない。
「問題はその先で、この珠をひらく場所を私はずっと探していたんだが、思うようにいかないんだ。何か禁域のようなものに阻まれるような感覚があって。旅を続けているうちに、どうやら同じところをぐるぐる巡り続けているようだと気づいた。とはいえ諦めるわけにもいかない。これをひらくために、ずっとずっと彷徨っている」
「何年も?」
「見知らぬ場所に独りでいると、長くも短くも感じる」
男の返答は要領を得ないようでありながら、はっきりと肯定しているように感じられた。少なくとも彼の身体はとっくに疲弊し、満足に動かなくなっているに違いない。
「きみならどこが相応しいと思う? 私には見当もつかないことで……」
微睡むように目を伏しながらそう問われ、アルカは試しに鞄の中身を取り出した。推理小説や料理本は役立ちそうにないが、日本史の教材には何かヒントがあるかもしれない。
「その国は広いの? どれくらい大きい?」
「さあ……わからない。知っていても説明できるかどうか。私はごく狭いところばかりを行ったり来たりしているから、此処と比べることもできない」
アルカは怪訝な顔で思案した。
「もしあなたの国が僕の考える以上に大きかったら、どうなってしまうだろう」
「実は、大きさはあまり関係ないんだ」
ただ居場所が、と男は続ける。
「私が相応しいと思えばその場所で良いと。けれど山でも町でも川を辿っても相応しい場所はなかった。本当に私がそんなところを見つけられるのか、今は不安で仕方ないんだ」
「あなたが相応しいと思えば、とても小さな場所でも構わないということ? 例えば学校の教室でその珠をひらいたら、学校もその近くの家や公園も、町ごとすべて圧し潰されて無くなってしまわない?」
アルカは教科書をめくりながら質問する。世界史の教科書もあれば良かっただろうか。とはいえ、あまり遠くに行くことは二人にとって現実的ではない。
「学校。あまり想像はできないが、きっとそれほどの大きさでも構わないだろう。これをひらいても此の国のどこかが潰れて無くなることはないはずだ。もしそうなら私も一緒に潰れてしまうが、そうはならない気がする。私が探しているのは『空間』ではなく、きっかけとなる『拠点』なのではないかな。包まれたものたちを再び開放するたった一つの条件が、正しい拠点へ珠を届けることなのだと思う」
話を聞きながら、ふと目についた項目があった。行ったことのない場所だが、すぐに多様なイメージが浮かんできた。
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