望郷の最果
平蕾知初雪
(一)
図書館を出て最初の信号で自転車をとめたとき、鼻の頭にぽつりと冷たい雫が当たった。
まずいな、と
秋時雨と呼ぶには情緒のない土砂降りだ。鈍色の車道は徐々に見えなくなり、河川へと変貌しつつある。バス待合所のトタン屋根は簡素な長椅子を覆う程度の大きさで、自転車はほとんど雨ざらしになった。
「こんな激しい雨も、いつか人にとって脅威ではなくなるのかな」
先に長椅子に座っていた男が独り言のように呟いた。随分くたびれた相貌で、若いのだか年寄りなのだかよくわからない。聞けば、彼も雨を凌ぎにここへ辿り着いたらしい。
やることもないのでそのまま自然と会話が続いた。あまり用心する気になれなかったのは、彼が異国の旅行者に見えたからだ。
「私が生まれたのは平和で美しいところだったけれど、酷い嵐に苛まれ続けてすっかり変わってしまった。だから私はこんな酷い雨は少し怖いけれど、やはり多少は慣れたよ」
アルカは幼い頃に公民館で観た映画のことを思い出した。温暖化による海面上昇で国土を失いつつある島国の話だ。彼の母国にも似たような危機が迫っているのだろうか。
「いや。実は気候の問題はほとんど解決したんだ。でもまだもう少し、最も肝心な後始末だけが終わらない」
言いながら、男は首にかけていた銀の鎖をそっと指で摘んだ。鎖は彼の白いシャツの胸ポケットの中へ流れ込んでいる。鎖に繋がれていたのは小さな星型の多面体だ。星がかちりと半分に割れたのを見て、アルカはそれが薬入れかアンティークロケットの類なのだと理解した。
銀星の中から男が手のひらに出して見せたのは、真珠のような一粒の宝石だった。雨で暗いせいか色はよくわからない。オパールのように、様々な色の光が揺らぎ移ろっている気もする。ただその華奢な宝石は不思議と軽やかに見えず、アルカは最初、釣りで使う雫型のオモリを連想した。次いで、吸血鬼を斃すと曰う銀の弾丸を思い浮かべる。
彼があまりにも恭しく扱うせいかもしれないが、それはアルカの知り得るどの鉱石とも似つかぬように見えた。大層珍しく貴重な品なのかもしれない。
「今はこれが私の故郷のすべて。例えではなくね」
アルカは呼吸を止めた。彼の許可を得て、まじまじと顔を近づけて観察する。それでも色は曖昧なままでわからない。
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