第2話『人魚が涙を流した後は』⑥
月と太陽が入れ替わり、明るさと共に人々が動き始めていた。あの部屋にいるのも申し訳なかったので、私たちは繁華街である歌舞伎町で彼女が来るのを待っていた。寝る必要もなくなったこの体で彼女を待つのは心が疲弊した。
寝ると時間は過ぎてくれるが、起きている分時間経過が長く感じる。昨日のことも謝りたい。
早く、来ないだろうか。
「そんなにソワソワしてても何も変わらないわよ」
「そう、ですけど。彼女とは仲直り、したいです」
「健気ねぇ。赤の他人なのに、何を気にするのよ。……あ、噂をすれば」
五階建ての建物から足をブラブラとさせているケイ。彼の言葉がグサグサと刺さっていたのだが、それと同時に彼女を見つけたらしい。うずくまっていた体を勢いよく起こし、柵の建物の端っこギリギリまで体を出した。いた。
あの独特な服装は目立つ。似たような服を着ている人はいるが、彼女は何となく目立つ。じっと見つめていると、ピタッと止まった。
「あら、どうしたのかしら」
「電話、しているみたいですね。何かあったのでしょうか」
「さぁ? って、ちょっとちょっと! あの子、いきなり走り始めたわよ?」
ひらひらした服だけが動いていたのだが、突如来た道を戻り始めた彼女。うじゃうじゃと人が溢れている中、動きにくそうな服装で走り始めたのだ。ケイもさすがに予想外だったようで立ち上がった。
あのまま出勤するとばかり考えていたからだろう。「困ったわねぇ」と時計頭に手を添えている。大して困っていないのが伝わってくるのだが、彼の仕事を忘れてしまったのだろうか。
「追いかけますよ。嫌な予感がします」
「そんなの気のせいよ。ここでのんびり待ちましょ」
「じゃあ、神様に仕事放棄していたとお伝えするので私だけ向かいますね」
「仕方ないわねぇ! 私に任せなさい!」
身の代わりの速さを競ったら彼は確実に世界一になれるだろう。全く、私より年上なのだからしっかりしてほしい。コンッと大鎌を杖のようについた。二日前と変わらず風になびいているローブをキュッと握った。
「全くもう、世話が焼ける子ね!」
クルッと鎌を一回転させ、私たちは屋上から姿を消した。
目を瞑って開けた瞬間、大通りから一本か二本奥にある道へ出た。人通りは少ないのだが、疲れ切った顔をしているおじさんや、客引きをしているお姉さんが何人かいる。こんなところに和泉さんがいるのだろうか。
辺りを見渡していると、黒とピンクが混ざった服を着ている女性が一人。和泉さんだ。建物の前で立ち止まっているらしい。周りに人もいないし話しかけるのなら今だろう。「和泉さん」と声をかけようと近づいた時、「うん、大丈夫だよ」と声が聞こえた。
「うん、うん。でも、困っているんでしょ? お母さんは大切にしなよ。私なら大丈夫だから。それじゃ。またね」
電話をしていたらしい彼女はスマホをタップし、はぁとため息をついた。誰と話をしていたのだろうか。真っ暗になっている長方形の板を見続けている。一歩も動かない彼女に「和泉さん」と声をかけた。
「……あぁ、黎ちゃん。ごめん、今私急いでいるから」
「急いでいるって、仕事はどうしたのですか?」
「それどころじゃないの。あっくんが、お母さんが病気で倒れたって。お金が必要だからkしてほしいって言われたの」
「でも、給料日前だからお金ないって」
「うん。だからね、今から借りてくる」
和泉さんは、私を見ずに言った。いつも私に視線を合わせて話してくれる彼女が、一切目を合わせてくれなかった。『お金を借りてくる』と言われた私は一体何を意味しているのか、全く分からなかった。
お金は、湯水のように溢れてくるものではない。だからこそ大人は働いているのだと、お母さんが言っていた。
「あんた、ここでお金を借りたら文字通り破滅よ。死ぬより辛い未来が待っているわ」
「別にいいよ。私のことを気にしている人なんて、いないだろうし。てか、絶対いないし」
ギュッと拳を作っていた。細く白い指が手より大きいスマホを握りしめ、白さを増している。ケイの警告は意味がないのか、冷たい声のまま「そこで待ってて」と言い、一歩踏み出そうとした時。
「待ってください」
「何?」
「ダメです。そんなに自分を軽く扱っては、ダメです。和泉さんを大切に想ってくれる人が泣いてしまいます。やめましょう、こんなこと。これ以上苦しむ必要はないのです」
「別に、苦しんでなんか」
「じゃあ、なぜそんなにも震えているのですか」
掴んだ彼女の腕は、私と同じくらい細かった。生きているのがやっとなのかと思うほどに細く、力が弱かった。そんな彼女が震えていたのだ。一人でいることに慣れているように見えて、ものすごく寂しがりやな和泉さん。
どうしてこんなにも見栄を張って自分を犠牲にしてしまうのか。私の腕を話させようとしているようで、ぐいっと引っ張った。
「離してよ」
「絶対に離しません。和泉さんは、視野が狭いです。狭すぎます。どうして周りを見ないのですか。目の前にあるものしか、見えていないのですか」
「だって私には彼しかいないんだもん! 私をちゃんと見てくれて、愛してくれる人は、この世界に誰もいないんだもん!」
ぶんっと振り回された彼女の腕を私は離してしまった。一つ建物の前で叫んでいる一人の女性。私たちが見えない他の人たちからすれば、和泉さんは確実に不審者扱いされているだろう。
間延びした声は金切り声に変わり、合わせてくれていた目線は見下ろされている。彼女の変わりように逃げてしまいそうになるが、そんなことは絶対に許されない。彼女は、和泉さんは幸せになるべき人だ。
「みーちゃん?」
「……え、泉美、ちゃん。何で、ここに」
途切れる声。叫んでいたからなのか、掠れた声が響いた。みーちゃんと呼んだ主は、昨日の夜に会った泉美さん。昨夜と同じくスーツをビシッと着こなしており、仕事ができるのだと目で分かる。
なぜ彼女がここにいるのだろうか。私も同じように見つめていると、バチっと目が合った。気のせいだと思い視線を逸らそうとした時、ふっと微笑まれた。
「仕事、やっと一段落ついたの。みーちゃんは?」
「え。いや、その、あっくんが、お金で困っているって聞いたから」
「……お金を、借りようとしたの?」
「あ、うん。まぁ、そんなところ」
泉美さんと偶然鉢合わせてしまったのが気まずいのか、手を遊ばせながら歯切れ悪い返事をする。きっと、彼女には見られたくなかったのだろう。泉美さんの話をするときの彼女はとても目が輝いていた。まるで、本物の家族を紹介しているようだった。
しかし肝心のルームメイトが無関心だったら振り出しに戻ってしまう。どうしようかと悩みケイの方を振り返ると、時計頭の下らへんに人差し指を立てて「シー」と言っている。何もするなと言うことだろうか。それなら大人しく聞いたほうがいいだろう。スッと後ろへ下がろうとした時、パンっと乾いた音が路地に響いた。
「……え」
「何で、そんなことをするの。私、いつも言っているじゃん。無理しないでねって」
「いや、あれは言葉の文みたいなものかと、思って」
「そんなわけないでしょ! みーちゃんは、私にとって大切な人なの! なのに、何で、伝わらないの……?」
ポロッと溢れたのは泉美さんの本音だけではなかった。ポタポタと地面に斑点を作っている彼女は、涙声混じりだった。感情があまり表に出ない人だと思っていた私は面くらい、目を見開いていた。下がろうとしていた右足はそのままで、動きそうもない。すると、後ろから肩を掴まれた。
「ケイ」
「あとはあの子がどうにかしてくれるわよ。だから、私たちはお暇しましょう」
「でも、彼女の感情を刈り取らないといけないって」
「その必要はないわ。あの子が代わりに浄化してくれたから」
彼が指差す先に、キラキラとしたものが真っ青な空に向かって伸びていた。煙のように上がっていく。いまいち分からない現状に頭を傾げていると、「私たちが刈り取ろうとしていたものよ」と教えてくれた。
浄化するなんて今まで見たことがなない。徐々に徐々に消えていくそれは姿を消し、何事もなく水色が広がっていた。
「今回は珍しいパターンね。今まで取り憑いていた感情が生きている人間によって浄化されるの。ま、解決したってことよ!」
はー疲れた疲れた、と他人事のように伸びをしているケイ。緊張感が漂っていると思ったのは、私だけだったのだろうか。彼女たちに背を向けて歩いて行く。ちらっと二人を見ると、「ごめん、ごめんねぇ」と泣いている和泉さんをスーツ姿のお姉さんが抱きしめていた。
見た目も中身も正反対な彼女たちが二人で泣いている姿はかなり目立つ。周りも奇異の目で見ている。でも、今の彼女たちにはどうでもよさそうだ。だって、唯一無二の存在に気づけたのだから。
ちょっとした騒動は大都会では目立つことなく、つつがなく時間は過ぎていく。
和泉さんは私たちの姿は見えなくなった。今回関与した記憶はあるけれど、他の人の手により浄化された場合も前回同様、私たちの姿は見えなくなるらしい。少し寂しい気がしたけれど、彼女がひとりじゃないならいっかと思った。
「本当、面倒な案件だったわぁ」
「何を言っているのですか。私が動かなかったら大変なことになっていたかもしれないのですよ。もっと責任を感じてください」
「うるさいわねぇ。本当、お姑さんみたい」
「今度同じことをした時、真っ先に神様に報告しますね」
「嘘よ、嘘! 冗談に決まっているじゃないの!」
必死に誤魔化そうとしているケイ。変わり身が早いのは同じらしい。額から汗を出していそうな彼は「さ、仕事仕事!」なんて言いつつ、先ほど渡された書類に目を通していた。
「そういえば、泉美さん、私たちのこと見えていましたね」
「え。それ、本当?」
「はい。何回か目が合いましたので。あの人も何かあるのでしょうか」
「んー……違うわね。おそらく、霊感が強い人かも。たまーにいるのよねぇ。見えているのに、見えないふりをする人。本当、恐ろしいわぁ」
首を横に振っている彼は「うげ、またぁ?」と書類に頭を突っ込みながら項垂れていた。世間一般で霊感があると言われると嘘くさいが、本当に見えるものなのか。自分が霊体になってから知ることは多い。
あの街にはなかったものがたくさんあり、私が知らなかったものがたくさん存在している。不思議な体験をしているのだろう。
「戻っても、覚えているのかな」
「んー? 何か言ったー?」
「ううん、何でもないですよ」
「そう? てか、黎、今私に触った?」
「いえ、何もしていませんけど」
「あら、そう? おかしいわねぇ。最近、誰かに触れられている感覚があるんだけど」
ブツブツ呟いている時計頭。何を言っているのか私にはよく分からないが、いつものことだ。きっと一人で解決してくるだろう。そよそよと、強くも弱くもない風が吹いている。蟻のように小さな人たちを見下ろした。
相変わらず人で溢れかえっているようだ。みんな忙しなく足を動かしている。そんなにも何を急いでいるのだろうか。じーっと観察していると、異色な組み合わせが目に入った。
黒髪ツインテールで黒とピンクのフリルがついた服と、しわ一つないだろうグレーのスーツ。
仲良く手を繋ぎながら人混みの中へと消えて行ったのを最後、彼女たちを見ることはなかった。
利他的シンデレラ 茉莉花 しろ @21650027
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