第2話『人魚が涙を流した後は』⑤

「あれ、今日は早いんだね」


「え、泉美いずみちゃん。今日の仕事はもう終わったの?」


「ううん。今日も泊まりになりそうだから着替えを取りに来たの。すぐに出るよ」


泉美と呼ばれた彼女は紺色のスーツをビシッと着こなしており、いかにも仕事ができそうだ。なんだか、私のお母さんを思い出させるような服装。ズキッと後頭部に痛みが走った。反射的に押さえると少しだけ和らぐ。


大丈夫、大丈夫。今はここにはいない。焦らなくても、大丈夫。心の中で呪文を繰り返し唱えると痛みがどこか遠くへ行く感覚がして、ほっとした。


「……みーちゃん。あの、さ」


「んー? あ、今日は私がカレー作るよ! 帰ってきてお腹空いていたら食べて!」


「こら、私が作るんだけど?」


いいじゃん、とヒソヒソと話している時計頭と派手髪の彼女。どこからどう見ても違和感しかない組み合わせなのだが、泉美さんから見たら一人の女性しか目に映ってないのだろう。


明るく振る舞う和泉さんに対してもう一度口を開こうとしたみたいだが、きゅっと一文字に締めてしまった。あれ、何かおかしいような。今、口を閉じた時に目が合ったような。気のせいかな。


「あ、もう行かなきゃ。みーちゃんも、無理しないでね」


「もー、分かっているよ! 気をつけてね!」


着替えの服が詰め込まれているであろう鞄を抱え、バタバタと出て行った。確かに和泉さんとは正反対な人だ。見た目もだけど、なんて言うか、雰囲気も違うような。でも、我慢しようとする姿は似ている気がする。お母さんも、同じことしていたな。ゆっくりと閉まった開くはずのない扉を見つめた。


「ほら、台所に案内しなさいよ。さっさと作るわ」


「やったぁ! こっちこっち!」


何度目かの親子のようなやり取りにこちらも慣れてきた。はじめはケイもぶつぶつ言っていたのだが、諦めたのか受け入れている。案外、彼の方が世話焼きだったり。ぼーっとしていると二人が入っていったリビングから名前を呼ばれたので、「はい」と返事をして中へと入って行った。


案内されたリビングというのは二人にしては少し狭い場所。飾られているものや置かれている可愛らしい置物をじっと見つめる。彼女の部屋とはまた違った雰囲気があるこの部屋は興味深い。


他人と一緒に生活するとなると、二人で考えながら家具を置いたりするのだろうか。あの二人の会話は正直想像できない。しかし違和感もない。自然と二人が一緒に生活しているのが頭の中に浮かぶのだ。不思議だな。


「彼女、あなたと同じ名前なのね」


「あ、気づいた? 私も初めて会った時は本当にびっくりしたもん。名字と名前の違いはあるけれどね。同じ名前なのにこんなにも違うなんて、笑っちゃうでしょ」


ヘラヘラと笑いながら大きめの鍋を流し台の下から取り出していた。二人分作るからなのか、若干大きい。ところどこと錆びているところが見られるが、まだまだ使えるだろう。「あ、黎ちゃんは座ってて!」と声をかけられたので私はソファーの前に座った。


「あんた、自分のことを卑下するのやめなさいよ。聞いていていい気がしないわ」


「えー? 無理無理、ずっと否定されて生きてきたんだからさぁ。そんな簡単に自分を肯定できるわけないじゃん」


カチッと音がした。火がぼっと音を立てて点き、隣にいるケイは「そう」と呟いた。まな板の上に転がっていた野菜の皮を剥き始める。彼女の発言は、明るくもほのかに暗さがある。無意識なのかどうか分からなかったのだが、きっと彼女の幼少期に関係があるのだろう。


トントンとリズミカルな音が聞こえ始め、すぐにジューっと野菜たちが焼かれている音がした。


料理を作る音は続き、二人は何も話すことなく黙々と作っていた。私は彼らの沈黙に耐えきれず、居間にあるテーブルよりも一回り小さいテレビの電源を点けた。流れてくるのはニュース番組ばかり。


何が起きたとか、誰が離婚したとか、優先順位が低なものも片っ端から報道している。途中で流行りのものを紹介せれていたのだが、何が何だか分からない私には別世界だった。


「さーて、やっとできたわ! ほら、冷めないうちに食べなさい」


「やった! あれ、二人は食べないの?」


「他の人に見えていない私たちがどうやって食べるのよ」


「あ、それもそうか! じゃ、いただきまーす!」


簡単な説明ですぐに理解したらしい和泉さん。あの気まずい空気はどこへ消えたのか、綿飴よりも軽い声で返事をしてテーブルにカレーを置いた。お腹は空かないし食べないのだが、いい匂いがするとどうしても気になってしまう。じっと見つめていると、「あれ、食べる?」とスプーンを差し出してくれた。


「あ、えっと、その、私も食べられないので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


「えぇ、食べるの私だけぇ? ちょっと気まずいけど……まぁ、いっか! いただきます!」


二度目のいただきますをした和泉さん。私に差し出していたスプーンを持ち直し、山盛りにすくって口の中に入れた。もぐもぐと口を動かしている姿は小動物をイメージさせる。見た目は派手だけど、行動の一つ一つが愛くるしい。彼女の食べる姿からテレビへと視線を移動させた。


「そういえば、給料日っていつなのよ」


「えー? 確か、明後日だったような。何で?」


「その前にあんたの感情を切り取るのよ。そうしないと、取り返しのつかないことになるわ」


「そんなの別にいいって! 私なんかを気にしてくれる人なんていないだろうし。ていうか、絶対いないし? 他の人を助けてあげてよ。私より不幸な人って、たくさんいるでしょ?」


ぷらぷらと銀色のスプーンを動かす。その度に部屋の光が反射して少しだけ眩しい。ケイの言葉に耳を傾けようとしない彼女は、一生懸命画面越して話している漫才師に夢中だ。ケラケラと笑っている姿からは考えられない言葉。どうしてこんなにも、自分を軽く扱ってしまうのだろうか。


「何言ってんのよ。あんたがそう思っているだけで、意外と身近にいたりするのよ」


「そうかなぁ。あ、あっくんとか?」


「誰よ、あっくんって」


「私の推し! イケメンホストなの! 次こそナンバーワンにしてあげるんだぁ」


ぐいっと時計頭に向けてスマホを見せた。私からは見えないのだが、きっとそこには『あっくん』が写っているのだろう。テレビよりも、気になる。一人でソワソワしていると、「ほら、見て見て」と私にも見えやすいように渡してくれた。これが、あっくん。初めて和泉さんと会った日にいたような。気のせいだろうか。


「そんなわけないでしょ。完全にあなたの片想いじゃない」


「違うよ! あっくんが困っていたら私、何でもしちゃう!」


「誰かのことを愛して一途に思うのは素晴らしいことよ。でも、一方通行なのはいかがかしら」


ケイの言葉がグサッと刺さってのか、「でも……」と言い淀む彼女。キュッと握っているスプーンは温かくなっているようで、うっすらと白いモヤが見えた。彼女の言いたいことは分かる。自分が頑張れば相手も答えてくれるだろうと、考えるのだ。周りから見たらバカなことをしていると思われるだろう。


でも、本人はいたって真剣だ。自分が愛されるだけの価値があると、思いたい。だからこそ、自分を蔑ろにしながら相手に求めるのだろう。


「でも、一方通行の愛ほど虚しいものはないですよ」


ぽろっと、出てしまった言葉だった。彼女を見て言ったわけではなく、ただ自分の中で振り返った時に思ったのだ。頑張れば頑張るほど、心が疲弊していく感覚。心の端から順番に削られていく。じっと耐えているだけではどうしようもできないことに、私は何をしていたんだっけ。


一人、自分の思考の海に飛び込んでいるとガタッと机が揺れた。何もこぼれることはなかったのだが、一人だけ立ち上がった和泉さん。私の視線には足しかなかったので見上げると、そこには目に涙をいっぱい溜めている彼女が。


「……そんなの、分かってるよ。それでもいいから、想っているんじゃん」


寝るね、と一言残して部屋から出て行ってしまった。しまった、言いすぎた。自分の中では『そんなつもりは』と言い訳したいが、今回は私が悪い。ギュッと拳を握って「あの」とケイに声をかけた。


「喧嘩両成敗。今回は、どっちもどっちよ。ほら、私たちも去りましょ。また明日、彼女に謝ればいいわ」


「……うん。分かった」


いい子ね、と優しく大きな手のひらは私を撫でた。私の頭の上を行ったり来たりしている感覚に安心する。口が悪く、すぐに感情的になるけど、こんな時は頼れる。私を小さい子扱いしている証拠だろうか。私だってもう九歳だ。来年には十歳になる。お姉さんだ。でも、今は不器用な優しさを見せてくれる彼に甘えよう。


きっと、また明日、彼女に会えるはずだから。

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