第2話『人魚が涙を流した後は』④
目を閉じて開いた瞬間には、外に出ていた。裏路地に近い場所。観光客は通らないであろう細い道にたくさんの段ボールやゴミの袋が山積みになっている。宙に浮いている状態の私たち。彼女がどこにいるのか探すと、ガチャっと扉の開く音がした。
「はーー……マージで、面倒だわ」
「何が面倒なのですか?」
「うわっ びっくりしたー……いきなり驚かせないでよぉ」
「すみません。働いている姿を見ていたら気になってしまって」
「え、覗いてたの?」
「まぁ、少しだけ」
覗き見はさすがにいい気がしないかな、と心の中で身構えた。しかし彼女は「なーんだ」と笑いながら手をひらひらさせた。
「見たいなら言いなよぉ。休憩終わったら近くで見てればいいじゃん」
「でも、迷惑じゃ」
「ぜーんぜん。てか、私しか見えないんでしょ? それなら大丈夫じゃん。えーっと、何ちゃんだっけ?」
「黎です」
「じゃ、黎ちゃんの社会科見学ってことで! 時計のお兄さんもそれでいいでしょ?」
「ケイよ。まぁ、いいんじゃないかしら」
社会勉強ってことで、と付け足した。社会勉強。働いている人の姿をお客さんとして見ることはあるけれど、裏側に入るのは初めてかもしれない。思わぬ提案に心がそわそわした。さらっと私の名前をちゃん付けで読んだ彼女は、きっと悪い人でない。子供に慣れているというか、普通の大人と対応が違う気がした。
「あ、もう時間だ。じゃ、中で待ってるねぇー」
手を振ってくれたので、私も反射的に振り返した。ヒラヒラとしているのは手だけでなく、服も同じように華麗に動いていた。彼女が動くたびにスカートが揺れて、可愛さを引き立てている。あんな可愛い女性に着られて、服も幸せだろうな。
「じゃ、中に入りましょうか」
ケイの言葉に頷くと、もう一度パチンと指を鳴らした。
中に入ったとは言っても、端っこの方で二人座っているだけ。端っこと言っても、カウンター席の壁側に座っている。お客さんがここに座るのではないかと思っていたのだが、案内する時に座らないようにしていたようだ。何度か彼女と目が合ったのだが、その度にウインクされる。
「プロって、凄いです」
「プロ? 誰が?」
「和泉さんです。目が合った瞬間も気を抜かず、サービスをしているので」
「まぁ、それが彼女たちの仕事だもの。当たり前よ」
「そうですか。ところで、ランプさんからは何か連絡来ましたか?」
「……何であいつの名前が出てくるのよ」
「だって、毎回ランプさんが依頼を持ってきますよね? 今回のことで何か聞かされてないのかと思って」
ちらっと彼の顔を見ると、ほぼ同時に顔をそらされた。そんなにランプさんのことが嫌いなのかな。私としてはいつも優しくしてくれるから、優しいおじさんくらいに思っている。あ、おじさんって言ったらダメなんだった。『お兄さんがいい!』と駄々をこねられて以来、おじさんと呼ばないように意識している。たまに口が滑りそうになるけど。
「別に、何も来てないわよ。もちろん、あのクソ神からもね」
「神様のことをそんな言い方したらダメですよ」
「いいのよ。いっつも厄介な人間を押し付けられるのだから、これくらい言ってもバチは当たらないわよ」
「バチが当たるか当たらないかは、その神様が決めることでは?」
「うわ、そうじゃない。くっそ、本当に腹立つわね!」
余計なことを言わなければよかったかなと思ったけど、彼はすぐにサボろうとするのでチクチク刺すくらいが良いってランプさん言ってたような。私の言葉は人の心、主に大人の心に深く突き刺さるらしい。そのせいか、何人かを回復不可能にまでした。私としてはそこまで考えていないから、いつも首を傾げている。
神様への愚痴が止まらないケイの話を適当に頷きつつ、私はもう一度室内を見渡した。上からでは分からなかったのだが、隅から隅までファンシーだ。雲のようなふわふわなものもあれば、キラキラと輝くラメのようなものまである。夢の中で見るような世界。自分にはきっと縁のない世界なのだろうとぼんやり考えていた。
「みーちゃーん! こっちにも来てよ!」
「はぁーい! ごめんなさい、少し席外しますねぇ!」
遠くから叫ばれた名前は和泉さんだったようで、パタパタと忙しそうに走り回っている。クルクルと回っている姿はメリーゴーランドのよう。彼女はきっと、可愛らしいお馬さんに乗っているお姫様に違いない。かぼちゃの馬車に乗って、王子様と一緒に踊るの。苦しい時があってもいつも笑顔でなんてことないって顔をする。なのに、あの人は。
「み、みーちゃんさぁ、そうやって、誰にでもいい顔してるんでしょ?」
「えー? そんなことないよぉ。タカさんにしか見せてない顔も、あるんだよ?」
「で、でも、この前男の人と歩いているの見たんだっ あ、あれは、誰なんだよっ」
ダンっと机に拳を叩きつける音が店の中に響いた。談笑していた他のお客さんや和泉さんと同じ服を着ていた女性たちの声がピタッと止まる。静まり返った中で全員の視線が二人に向けられていた。
「だ、大丈夫でしょうか」
「さぁ? よくあるガチ恋勢ってやつでしょ」
「ガチ恋?」
「そ。お客さんとして接しているのに、相手が本気で好きになっちゃうってことよ。クソランプが言ってたわ」
ガチ恋勢。そんな言葉、初めて聞いた。慣れない言葉を口の中で噛み砕き、理解する。お客さんとして仲良くしているのに、好きになることがあるんだ。ケイの話す内容が正しければ、あの『タカさん』と呼ばれた男の人も和泉さんに恋をしているのだろう。
フーッフーッと息を切らせている彼。どうするのだろう、と見つめていると彼女はスッと手を添えた。
「タカさん、心配かけてごめんね。あの人は、私の親友のお兄ちゃんなの。親友のプレゼントを買いたくて、一緒にいたんだ。嫌な思いさせてごめんね?」
彼女の一回りも大きい手を彼女の真っ白は細い手で包み込み、下から覗き込んでいた。数秒の沈黙があった後、「し、仕方ないなぁ。心配かけさせないでよっ」と言い彼女の頭を撫でていた。二人のやりとりを見た周りは「そうだぞー!」とか「俺らのみーちゃんだからな!」などとヤジを飛ばしており、また和やかな空気が流れ始めた。
「さすが、人気ナンバーワンねぇ」
「え? 和泉さんがですか?」
「そうよ。ほら、そこに貼ってあるじゃない」
彼の指の先を辿ると、そこには壁一面に貼られた写真の数々。店員さんとお客さんが一緒に写っている写真もあるのだが、ど真ん中にこの店で働いている女性たちの写真があった。名前と軽い自己紹介が書かれており、笑顔で写っている側には『当店ナンバーワン!』と書かれたポップが飾られている。
なるほど。通りであちこちから彼女の名前が聞こえてきたわけだ。もう一度彼女の方を見ると、叫んでいた男の人と楽しくお話をしている。ここの店員として、彼女なりに頑張っている証拠だろう。
「さーて、もうそろそろお暇しましょうかね」
「何か予定ありましたか?」
「何言っているのよ。あの子、もうそろそろ帰るわよ? さっきの出入り口で待っていましょ」
捕まりなさい、と言われた私は真っ黒なローブをキュッと掴み、パチンと音と共に消えた。
外の出入り口で待っていると、数人の女性が入れ替わりで入っていった。何人かは帰ったようだが、もちろん私たちは見えないのでスルーしていく。
仕事が終わった彼女たちの姿は様々で、お店の服と同じようなフリルのついた服を着ていたり、反対にジャージを着ている人もいたり。みんなそれぞれ個性があるようで、暇そうにしているケイの隣で私は彼女たちをじーっと見ていた。
「あれ、待っていてくれたのー?」
「和泉さん。お仕事、お疲れ様でした」
「わ、ありがとぉー 黎ちゃんまだ小さいのに偉いねぇ」
「いえ、お母さんに昔から仕事をしている人を労りなさいと言われていたので」
「え、ガチ? 私、そんなこと言われたことないわぁー」
ケラケラと笑っている彼女は手に持っていたスマホを小さなハンドバックの中に入れた。
「で、今日も行くのかしら?」
「あ、ホスト? いや、今日は行かないかなぁ。給料日前だし。適当にお弁当買って帰るよ」
「あら、そうなの。じゃあ、私たちもお邪魔しようかしらね」
「いいよー! ルームメイトも今日はいないだろうし」
「ルームメイト、ですか?」
初めて聞くその言葉に思わず食いついてしまった。聞き慣れない言葉は心の中でモヤモヤするのだが、同時にワクワクも顔を覗かせてくるので好きだ。私の反応に気を良くしたのか「そうだよぉ」と言いながら入れたばかりのスマホを再度取り出した。
「えっとねぇ、あ、この子! こっちに来た時にルームシェアする人を探していたみたいで。それで知り合ったんだぁ」
スマホの中に映し出されたのは一人の女性。大人っぽい雰囲気を身にまとった人で、和泉さんとは正反対。どこかの有名な会社でバリバリに働いているような服装だ。私が「素敵ですね」と言うと彼女は「へへっ」と笑って「自慢のルームメイトなんだぁ」と笑っていた。
「ほらほら、ここで話していると変な人って思われるわよ。動くならさっさと動きましょ」
「あ、それなら昨日みたいに部屋に転送っぽいのしてみてよ! あれ、めっちゃ便利じゃん!」
「あんたねぇ。私を便利屋扱いするんじゃないわよ! 今日は大人しく歩いて帰りなさい。私たちも一緒に帰るから」
「えー? 仕方ないなぁ」
ケイのお説教を聞き入れたのか、渋々ながらも歩き始めた。ここの出入り口はいわゆる裏路地と呼ばれるところで、人通りも少なく私たちと話していても問題はない。しかし、表に出ると人の波に攫われそうになる程溢れかえっているのでイヤホンで話をしている風を装うことに。
「で、給料日になったらまたホストに行くのかしら?」
「当たり前じゃーん! 仕事のストレスえぐすぎるし!」
「ストレスねぇ。そんなこと言うなら、辞めればいいじゃない」
「ちょ、何でそんなこと言うの! そりゃあ嫌なこともあるけどさ、一応、好きでやってるし」
大きな声を出すたびに何人かが振り返る中、数人は『あぁ、電話しているのか』と思ってくれるようだ。今ではこうしてイヤホンして会話できるようになったけど、昔はそんなの映画の中だけだと思っていたとお父さんが言っていたような。生まれた時からスマホが普及している私にとってはそちらの方が信じられない。
二人の話は盛り上がっているようで、私はひたすら聞き役に回る。チクチクとお説教をしているケイは「あんたって子は!」と叱っているようだ。しかし、そんな話を聞いているのか聞いていないのか、「あーはいはい」と適当に受け流しているらしい。地下鉄に乗ってからも話をしているようだが、路上にいる時よりも変な目で見られている。
「あの、まだ降りませんか?」
「んー、次の駅かな」
「そうですか。早く、降りましょう。視線が痛いです」
え、と言った彼女は辺りを見渡す。おしゃべりに夢中になっていたようで、周りからは『電車内で電話する非常識な人』という視線を向けられていた。私と時計頭の彼が見えない人にとっては、彼女はかなりの変人に映るだろう。
見えない私でもそこそこ気まずいのに、和泉さんなら尚更だろう。派手な見た目をしている彼女はタイミングよく開いたドアからそそくさと降りた。
「もー、あんなに見られるなんて思わなかった! マジ恥ずかしい!」
「今もまだ見られていますけどね」
「いいのいいの! どうせ、みんな明日には私のことなんて忘れちゃうんだもん。気にしたって、無駄だよ」
最後の一言にほんの少しだけ、寂しさを含んでいるような気がした。暗に『誰も私なんて見ていないよ』と言っているよう。ピピッと軽快な音が鳴り、騒がしい駅の中で彼女のヒール音が響いているように聞こえた。
「で、ここからどうするのよ。歩いて帰るのでしょう? どれくらいかかるの」
「んー、大体十五分くらい? ま、歩いていたらそのうち着くよ」
鼻歌を歌い始めた彼女は迷わず地上の出口に向かった。私もケイも同じように歩いているのだが、死んだも同然の私たちが疲れを感じることはない。ただひたすらについて行くのだが、長時間働いて疲れている彼女の足取りはゆっくり。
楽しそうに私たちと話しているとは言え、心労は絶えないはずだ。明るい話題を振ろうと必死に考えるが、何も思いつかない。
「ルームメイト、今日はいるの?」
「どうだろ。平日のこの時間帯だし、まだいないんじゃない? 最近仕事忙しくて帰ってくる時の方が少ないし」
「あら、多忙なのね。じゃあ、今日は私が何か作ってあげようかしら」
「え! ケイってご飯作れるの?」
「失礼ね。生きている間は一人で作っていたらしいからちゃんと作れるわよ!」
「何それ。ちょーウケる!」
ウケないわよ、と冷静につっこむケイ。表情はわからないけど、半分ほど呆れているだろう。声色だけでなんとなく分かるようになってきた。私が悩んでいる間に二人のキャッチボールは続いていく。もともと受け身の私からしたら羨ましい限りだ。
流れる景色が少しずつ住宅街へと変わっていく。明るかった建物が徐々に光を失い、それと同時にあちこちから夕飯の匂いが漂ってくる。人が少なくなっているはずなのに、人が生きていることを実感させられる場所だ。食べ物を食べなくても平気な体なのに匂いにつられてしまいそうだ。
「あ、ここの家はカレーだ! 絶対そうだよ!」
「ちょっと、恥ずかしいからやめなさいよ! 私が作ってあげるから大人しくしなさい!」
和泉さんが指差している先には数センチだけ開いた窓。きっとそこから漂ってきているのだろう。万人受けするカレーライスは大人でも引きつけるらしい。歳を重ねても変わらないことはきっとあるのだろう。そう思うとクスッと笑ってしまた。
二人の話を聞いているうちに昨日見た彼女のアパートに到着した。昨夜はいきなり部屋に入ってので外見を見るのは初めて。こぢんまりとしたお部屋のようで可愛らしさがある。変わらず二人は言い合いをしているのだが、和泉さんはなれた手つきで鍵を開けた。
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