第12話『あおいひかり』
上流に向かって歩いていた。
林にセミを取りに来たはずなのに、いつの間にか川の上流まで登ってみようと縹が言い出した。
だんだんと木が増え、林から森へといつの間にか足を踏み入れていた。
広かった川幅も、だんだんと狭くなり、岩もゴツゴツとした大きなものが多くなった。
岩を足場にして、どんどんと進んでいく縹の後を追う。
川の始まりはどうなっているんだろう。
最初は、めんどくさいと思っていたのに、だんだんとワクワクしてきた。
岩の合間に足を突っ込んだとき、片足の靴が脱げてしまった。
脱げた靴はゆっくりと水に流されていった。
「心露、どうした?」
縹が立ち止まって振り返る。
「靴」
「ん?」
「片方」
縹が私の足もとを見る。
「靴流されたのか?」
私はこくりと頷いた。
追いかける必要もない。もともとサイズの合っていない靴だった。もういらない。
「よし、ここに座って待ってろ」
「え?」
「兄ちゃんがとってきてやる」
「別にいい」
「よーし!」
私の言葉など聞きもせず、縹は川の流れに沿って靴の流された方へと走っていった。
別に靴なんてどうでもいいのに。
それにあの靴は、少し大きくてよく脱げてしまうから好きじゃなかった。
「いらないのに……」
縹はしばらく戻ってこなかった。
縹自身が流されてしまったんじゃないかと不安になっていた時、びしょ濡れになって、満面の笑みで帰ってきた。
「あったぞ!」
掲げるその手には私の靴があった。
「……なんでそんなに濡れてるの?」
「ああ、靴が岩に引っかかってるの見つけて取ろうと思ったら足滑らせたんだよ」
縹は大きな口を開けて笑う。
「……バカ」
「な、バカとはなんだ!バカとは!とってきてやったんだぞ?」
「別にもういらなかったのに」
「帰るときに困るだろ」
「……裸足で帰れるもん」
「裸足で歩いて怪我したらどうするんだよ。ほらっ」
「ちょっ」
縹が私の前に座り片足を持ち上げた。
「やめて、自分で履ける」
「いいからいいから。紐が緩いんじゃないか?」
縹は靴紐を調整し、そっと私の足に履かせてくれた。
不思議と靴はぴったりと私の足にあった。
「ほら、こっちのがいいだろ?もう片方も直してやるよ」
「……」
縹が私の靴紐を直す。
私の足に合わせて。
「これでよし」
ぴったりと私の両足にあった靴。
昔、読んだ絵本の中にこんな話あったような気がする。王子さまが靴を履かせてくれるお話。
縹は王子さまなんかじゃないけど。
「ほら、立てるか?」
縹が私に手を差し伸べる。
「……うん」
私は縹の手をとる。
ひんやりとして心地の良い手の感触。
「……ありがとう」
縹には聞こえないように、小さく、そう呟いた。
ゆっくりと目を開けると、真っ白な天井が見えた。
窓から射し込む光が眩しくて、手で覆い隠そうとすると、腕から伸びる管が目に入った。
「?」
管の先を目で追っていくと、ビニール袋に入った液体が見える。
点滴らしい。
どうして、点滴されているんだろう。
ここは病院?
なんで、俺病院にいるんだ?
思い出せる限りの記憶をたどっていく。
高校の風景。
夏休みが始まったが、友人からの誘いは全て断った。どうして断ったんだっけ?
そうだ。行くところがあったんだ。
行くところ?どこだ?
誰かに会いに行くんだった気がする。
誰に……?
「……心露」
口に出して、ハッとした。
急いで、身体を起こす。
腕に刺さった点滴を抜き、ベッドから飛び降りて、病室の扉を開けようとした瞬間。
ガラッと先にドアが開いた。
ドアの先に立っていた人物は俺を見て、驚いたように目を丸くした。
「縹くん!目が覚めたんだね」
ビニール袋を携えた浅葱は、あわあわとしている。
「浅葱!心露は?心露は無事なのか?」
浅葱の肩を掴み、そう問いかける。
「落ち着いて、今から話すから。……点滴抜いちゃったの?ダメじゃないか」
浅葱に肩を叩かれ、病室の中に引き戻された。
俺はベッドに腰掛け、浅葱は脇にある丸椅子に座った。
「とりあえず点滴、直してもらおうね」
浅葱がナースコールを押すと、すぐに看護師さんがやってきた。
俺が起きてることに驚いた様子だったが、すぐに点滴を再び刺し直してくれた。
程なくして白衣を着た、お医者さんが現れた。
俺の担当医なのだろう。
聞く話によると、俺は一週間ほど目覚めることなく、生死を彷徨っていたらしい。
「航青おじさんにも連絡しておいたから。すぐには来れないかもしれないけど……」
担当医から簡単な質問をいくつかされた。
体調や、覚えていること、身体の痛みなどだ。
浅葱はその間、ずっとそばにいてくれた。
担当医が去ったあと、浅葱は再び俺に向き直った。
「最初に言っておくね。心露は無事だよ」
浅葱のその言葉に俺は心底、安心した。
「……よかった」
「君が守ってくれたんだ。傷もそんなに多くなかった」
「そうか……」
守った。その表現は正しくない気がした。
そもそも、原因は俺なのだから。
「……」
「後悔してる?」
俺が黙っていると、浅葱が俺の顔を覗き込んだ。
「え?」
「真実を知ったこと」
後悔。
知らなければよかったのかもしれない。
そうすれば、こんなことにはならなかった。
でも、知らずに生きていくこともできない。
「私には、心露を救うことはできなかった。心露が記憶を失った時……このままでいいって思う自分と、このままではいけないとわかっている自分がいた」
浅葱は俯いたまま話を続ける。
「私は心露のことを人形のように思ってたのかもしれない。感情の乏しい人形のような心露に触れるたび、色んなことがどうでもよくなって……心地よかった。感情的な人は苦手だから」
浅葱の母親の顔が浮かぶ。
もしかしたら、浅葱は母親からの逃げ場所を心露に求めていたのかもしれない。
それは、かつての俺と一緒だった。
「そういえばお前、嘘ついただろ」
「ああ、あのこと?」
浅葱は佐渡玲子が沓九美代を殺したのだと俺が言った時、「そうだ」と言った。
「君がその立場だったら、どうするのか……聞きたかったんだよ」
「……心露の立ち場に立たせるために、か?」
「そう。心露と同じ立場になって考えて欲しかったんだ。そうして、君が心露から離れる選択をするならそれでいいと思ったし、違った選択をしたとしても……」
「ありがとな」
「え?」
「俺たちのこと、考えてくれて」
「……」
浅葱は俯いたまま黙っていた。
「言ったじゃないか。『私のためでもあるかもしれない』って」
「え?」
「縹くんはどうして、心露に会いに来たの?」
「前にも同じ質問されたような気がするな」
「あの時はうまくはぐらかされたからね。今なら、言えるでしょ」
俺が心露に会いに来た理由。
家族として、また一緒に暮らしたい。
それは嘘じゃなかった。
「君は本当に『お兄ちゃん』として心露に会いに来たの?」
……やっぱり、鋭いな浅葱は。
ずっと胸の奥底に隠して、自分さえも気づかないように凍らせていたこの気持ちを、いとも簡単に見抜かれていた。
「その質問には答えないでおくよ。俺はあいつの『お兄ちゃん』だから」
本当の心なんて言えるわけがない。
浅葱は俺の答えを聞くと、寂しげに笑った。
「私がもし男だったら、奪ってたのにな」
「は!?」
聞き捨てならない言葉だ。
「冗談だよ。半分ね」
「半分は本気ってことか?」
「さあね」
浅葱がケラケラと笑う。無邪気に笑う浅葱の姿は初めて見た。俺もつられて笑った。
なんだか幼い頃に戻ったようだ。
「そういえば」
疑問に思っていたことを尋ねる。
「俺たち、どうして助かったんだ?」
「ああ、それはね。航青おじさんだよ」
「え?」
「あの夜、私は航青おじさんに電話したんだ。実はその時にはもう、おじさんはこっちに向かって来てたらしい。そして邸についた時には、玄関が開いていたから……」
浅葱は言葉をつまらせた。
「……反省なのか、予感なのか。とにかくおじさんも川に向かったんだよ。そうしたら、ちょうど川に飛び込む心露と、それを追う縹くんが見えたんだって」
「じゃあ、親父が?俺たち2人を抱えて?」
「そうだよ。2人を抱えて岸に上がって、さらにそこから2人を背負って家まで辿りついたんだから、火事場の馬鹿力ってやつなのかな?すごいお父さんだよ」
高校生の子どもを抱えてあの濁流から岸へ上がれたというのか?あの親父が?だって親父は…
「泳げないはずじゃ……」
「密かにスイミングスクール通ってたらしいよ」
「は?なんのために?」
「さぁ?」
浅葱は肩をすくめた。
本当なんだろう。本当に親父が俺たちを救ってくれたんだ。
「噂をすれば、来たみたい」
浅葱が携帯を見て言った。
「じゃあ、私は行くね。お父さんと2人で話すこともあるだろうし」
「……ああ。ありがとな、浅葱。何から何まで」
「いいんだよ。いつでも頼ってくれれば」
「あ、浅葱」
部屋を出ていこうとする浅葱を呼び止める。
「なに?」
「その……謝っとけよ。淡子さんに」
浅葱は目を丸くしていた。
「一応……たった1人の母親なんだからさ」
「ははは」
浅葱は困ったように笑った。
「そうだね……私も、決着つけないと」
そう言う浅葱の顔は、淀んではいなかった。
どこか清々しい顔をしていた。
「ありがとう。また、お見舞いに来るね」
「ああ。次は駄菓子の差し入れ頼む」
「贅沢言うな」
浅葱は呆れたように笑うと、軽く手を振って病室を出て行った。
しばらくして、ノックの音がした。
背筋に一気に緊張が走った。
病室の扉が開く。
仕事時のスーツ姿のまま、親父がそこに立っていた。テレビ以外でこの姿を見るのは初めてかもしれない。
親父はベッドの上の俺を見ると、何も言わずに近寄って来た。
殴られる……?
そう思って、ぎゅっと目を瞑った。
だが、予想外にも、俺の身体は親父の両腕にすっぽりと包み込まれて抱きしめられた。
「……親父」
親父に抱きしめられるなんて何年ぶりだろう。
「よかった。縹、よかった……」
親父の肩が小さく震えていた。
泣いている?
親父が泣いているところなんて初めて見た。
「俺が……悪いんだ、全部」
「……」
俺は親父の背中を何度か殴る。
「そうだよ!親父のせいだよ!」
完全に憎めたら楽だったのに。
ずるい。
俺は親父の腕を無理矢理引き剥がした。
「どうして、どうして!」
どうして?何を責めたらいい?
浮気をしたこと?でも、それを責めてしまえば、心露の存在自体を責めているようで嫌だ。
俺に、全部黙っていたこと?
きっと親父も、俺のためを思って黙っていたんだ。
「父親失格なことはわかってる」
親父の声は今までに聞いたことがないほど弱々しい。
「当たり前だ!」
「お前たちを守るため、なんて言って全部隠してた。そんなのなんの解決にもならないのに」
「……」
「全て俺が撒いた種で。お前らを振りまわした」
「振りまわした……?」
「……」
親父は黙って俯いたままだ。
「俺は振りまわされてなんかない。何も知らされずに、知りもせずに。のうのうと生きていただけ」
親父は何にも俺に話してくれなかったんだから。
「わからなかったんだ。お前らをどうするべきなのか。心露は、縹と一緒にいることで、ずっと罪を突きつけられるような苦しみを味わっていた。だから、お前たちを離した…」
「それが正しかったと?」
「……いや、正しくなんてなかった」
「……」
親父ってこんなに弱々しい人だったか?
目の前にいる親父はいつもより、小さく見えた。
「母さんは、どうなったの?」
俺が尋ねると、親父はそっと首を横に振った。
「助けられなかったんだ」
「どういうこと……?」
親父は眉間に皺を寄せ、話すのを躊躇っている様子だったが、そっと口を開いた。
「俺の目の前で、川に身を投げた」
「……」
「死体は見つからなかった」
母さんはきっと、期待を少しも残さないようにしたんだ。
泳げない親父の前で、川に身を投げれば絶対に助けることはできないだろう。
「親父としても、男としても最低だよ」
俺がそう言い放つと、父さんは項垂れたまま頷いた。
「……そうだな」
沈黙が流れた。
言ってやりたいことはまだまだ山ほどあった。
だけど、いざ目の前の親父を見ると、言葉がなかなか出てこない。
「なぁ、俺の本当の母親って、どんな人だった?」
「え?」
「あんまり覚えてないんだ」
親父は戸惑ったように目を泳がせたが、ゆっくりと話しはじめた。
「明るくて、正義感に溢れていて、強い女性だったよ」
意外だった。俺の記憶の中の母親は、真っ黒で怖いものだった。
顔もよく覚えていないし、声も思い出せない。
親父にどんな人だったか、なんて聞いたこともない。俺にとっては、母さんだけか母親だったから。
俺を産んだ人のことを知るのが怖かった。
「俺って、その人に似てるところある?」
俺の問いかけに、親父はポカンとした。
そして、顎に手をあてうーんと考えはじめた。
「縹の顔は俺似だからなぁ。でも、そうだな。頑固なところとかは玲子に似たんじゃないか?」
嫌な特徴だ。
「そう考えると、性格は玲子にそっくりかもしれないな」
俺みたいな性格の女がいたらちょっと嫌かもしれない。
「他にも教えて」
「そうだな……最後のランウェイは本当に綺麗だったよ」
ランウェイ?
「なにそれ」
俺が首を傾げていると、親父は小さくため息をついた。
「ショーでモデルさんが歩く道のことだよ」
ああ、あれか。なんたらコレクションみたいなやつで見たことがある。
「なんで、そんなところ歩くわけ?モデルなの?」
俺がそう問うと、また親父はポカンと口を開けた。
「そうか、本当に俺は何も教えてやらなかったんだな」
そうして、親父は語ってくれた。
俺の本当の母親の話を。
「じゃあ、俺ってモデルの子だったってこと!?」
「そうだよ」
人生17年目にして、初めて知る事実だ。
「女優もやってたし、バラエティにも出てた」
「し、知らなかった」
今時、ネットで名前を調べればなんでもわかるだろう。だけど、俺は調べることもしなかった。
完全に記憶を消そうとしていた。
俺は母親にとって、ただ1人の肉親だった。
そのただ1人からも忘れ去られたままなんて、酷い話だ。
「もっとこれからも教えて」
俺がそういうと、父さんは小さく微笑んだ。
「もちろんだ」
もっと知ろう。俺の記憶の中だけの母親を、塗り替えるんだ。
「母さんたちは知り合いだったの?」
「美代と玲子か?そうだな。仲がよかったよ。初めて会ったのはテレビ局のエレベーターだったかな。…2人ともお互いにお互の持つ魅力に憧れていたんだと思う」
仲が良かった。それなのに、ひとつ歯車が狂っただけで取り返しがつかないことになってしまった。
「親父」
「なんだ?」
「母さんと最期に何か話した?」
親父はふっと目を伏せた。
「……ああ」
「母さんはなんて言ったの?」
「『愛してる』って、心露と縹のことを」
母さんらしい。シンプルな言葉だ。
「玲子を1人にはできないってさ」
母さんはずっと悔やんでいたんだ。友人を裏切ったことを。
「……親父。母さんは本当に俺の本当の母親を殺したの?」
俺の問いかけに親父は黙った。
「……真実はわからない」
そうだ。真実はわからない。
あの日、何が起こったかなんて本人たちにしかわからないんだ。そして、その本人たちはもういない。
どれだけ考えたって、わからないのなら捕われてはいけない。前に進むしかないんだ。
「心露はどこにいる?」
「隣の病棟だ」
「平気なの?」
「ああ、お前のおかげでな。大量に水を飲み込んでしまった以外は、ほとんど傷もない」
よかった。
ホッと胸を撫で下ろす。
「連れて来ようか?」
親父がそう言ったので、俺は首を横に振った。
「いや、いい」
俺は点滴の棒を支えにベッドから立ち上がった。
「俺が行く」
「おい。まだ安静にしてないと」
「うるせー」
軽く親父の脛を蹴る。
「……俺も行く」
「嫌だ。1人で行く」
「でもな……」
「ダメ親父は、頼りにできない」
俺がそう言うと、親父は黙って俯いてしまった。
「親父」
「?」
「色々、酷いこと言ったけど、俺は親父に感謝してるよ。俺に妹をくれたこと……俺たちを助けてくれたこと」
「……縹」
「ありがとな」
そう言って、俺は親父をおいて病室を後にした。
病院の屋上庭園にあがる。
昼間はこの場所でひなたぼっこをしていると、心露の担当の看護師に聞いた。
まだ夏の陽射しは強く、芝生をジリジリと照りつけている。
周りに人はいなかった。
たった1人で、金網の外の空を眺めている白いパジャマの小さな背中がそこにあった。
「……」
なんと声をかけようか。
なんだろう、この感覚。まるで、3年ぶりに邸の扉を開けた時と同じような感覚だ。
熱気を攫うように、ふっと涼しい風が吹き、心露のパジャマの裾を揺らす。
雲ひとつない空に、映える白。
綺麗だなぁ。
「楽しかった?」
涼しげな風のような声が小さく響いた。
それが、背をこちらに向けたままの心露から発せられたものだと、一瞬わからなかった。
「記憶のない私に『兄さん』なんて呼ばせて」
一瞬、唖然としたが少し笑ってしまった。
どうやら、ご立腹らしい。
「ああ、正直すごくよかったよ」
煽るようにそう言ってみる。
「悪趣味」
「そんなことないだろ」
「変態」
「そこまで言うか?普通、妹は兄のことを呼び捨てにしたりなんかしないんだぞ」
「妹じゃない」
「……」
心露の放った言葉で、俺は黙ってしまった。
そうか。その道を心露は選ぶんだな。
「俺は、2人とも母さんだと思ってる」
「……」
俺の本当の母親が事故死だったのか、殺されたのか、それは問題じゃなかったんだろう。
自分の存在自体を否定し続けてきた心露にとっては。
「お前が決めていい」
「決める?」
「ああ、俺はいつもお前を無理矢理引っ張ってばっかだった。だから、お前に委ねるよ」
「……」
「俺と離れるか、俺の妹として生きていくか。決めてくれ」
長い沈黙だった。
心露はまだ一度も振り返ってはくれない。
「私は……縹とは一緒にいられない」
涼しい声から発せられたその言葉が、俺の心の中にストンと落ちた。
「そうか」
氷は温もりで溶かすことができても、硝子はそうはいかない。
俺たちの間には硝子がある。
割ってはいけない硝子が。
割ったらお互いが傷つくだけだ。
「手紙、書いてもいいか?」
小学生かよ。自分で言った言葉にツッコミを入れてしまう。
「うん」
意外な返答だ。
「見たくなければ捨てたらいい」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「私も書く」
「え?」
「読みたくなければ捨てていい」
お返しみたいな言い方だ。
素直じゃない。
「……はは」
「何?」
「なんでもない」
もしも、ロマンチックな戯曲なら、ヒーローとヒロインは硝子を割ってでもお互いを求め合い、1つになるだろう。
どれだけ傷ついたとしても。
それは物語がそこで終わるからだ。
俺たちは生きていく。
ハッピーエンドの先を生きていかなければならない。
だから俺たちは、ハッピーエンドを選ばない。
これから先の人生をお互いが傷つかないように生きていく。
「さようなら、縹」
別れの言葉は心露からだった。
俺は受け入れよう。心露の選んだ道を。
「さようなら……心露」
俺は心露に背を向けた。
もう振り返らない。
心露の選択を、受け入れる。
「心露」
「なに?」
「好きだったよ」
心露からの返事はなかった。俺も背を向けているから、心露の様子を見ることはできない。
「二度と会うことはなくても、心露はたった1人の俺の大切な、大好きな妹だ。ずっと」
カシャっと金網の音がした。
こちらに駆けてくる足音。
とっさに振り返ると、もう目の前に…心露はこちらへ向かって飛び込んできていた。
「おわっ」
一週間寝たきりだった、身体で受け止めきれるはずもなく、心露もろとも点滴と一緒に芝生の上に転倒する。
「いってぇ……いきなり危ないだろ」
頭をさすりながら文句を吐く。
俺の上に跨っている心露の顔を見て、驚いた。
「こ、ころ?」
心露は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
人形のように端正だった顔立ちが崩れ、人間のように泣いている。
こんな感情的な顔を見るのは初めてだ。
「お、おい、どうした?どっか痛いのか?」
「違う!」
心露が乱暴に病院の寝間着の裾で目を擦る。
「どうしたんだよ……」
「……ないで」
「え?」
「行かないでよ!」
今まで聞いたことのない、大きな声だった。
「私をおいていかないで。妹だって言うなら、私を二度と離さないで」
心露は俺の胸元あたりをぎゅっと掴み顔を埋めた。
「縹は私のお兄ちゃんなんだから……」
「……!」
心の中がぐっと熱くなる。
ゆっくりと心露の頭を撫でる。柔らかな髪が指に絡まる。
「素直じゃないな」
俺が笑うと、心露は怒ったように俺の胸をドンドンと叩いた。
「いてて、病み上がりなんだから手加減してくれよ」
「……」
手が触れた。冷たくて気持ちがいい心露の手。
心露はゆっくりと俺の手を握った。
そのまま、俺の上に倒れ込むように身体を預ける。
心露の小さな身体が胸の中に収まる。
暖かい身体。トクトクと心露の心臓の音が伝わる。
人形なんかじゃない。生身の人間の生きる音。
ずっとこうしていたい。
心露を抱きしめていたい。
一緒に毎朝ご飯を食べて、学校に行って、テレビのチャンネルを取り合って。
休みの日には水族館に行って、飽きるほどクラゲを見て。
夏が終わって。
秋になったら、公園で焼き芋をして。
冬には コタツで一緒にみかんを食べて。
春には、お花見をして。
そして、また、夏を迎える。
一緒にそんな当たり前の毎日を過ごしたい。
家族として。
「一緒にいたい」
心露が呟いた。
「俺もだよ」
もう離さない。
ここから先、きっと苦しいこともあるだろう。
昔を思い出して、消えたくなることもあるだろう。
どれだけ傷ついたとしても俺は心露を離さない。
心露が不幸になるなら、俺も一緒に不幸になる。
「また、水族館に連れて行って」
心露は俺の目を見つめ、そう言って笑った。潤んだ瞳は太陽の陽射しを反射して、海のようにキラキラと青く光っていた。
氷中硝子 おねずみ ちゅう @chu-onezumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます