第11話『ガラス』

私たちが再婚してから数ヶ月が経った。

せっかくだし、地元の河原でバーベキューでもしようか、と航青が言い出したので、私たちは川に来ていた。


「お肉、少し買いすぎたんじゃない?」


「そうか?まあ、食べられるだろ。あいつらも食い盛りだからな」


そう言って航青は大きな口を開けて笑った。

久しぶりのオフでご機嫌みたいだ。

私たちが肉や野菜を焼いてる間、縹と心露は川で水遊びをしていた。

水を掛け合って遊んでいる姿は、仲睦ましい兄妹そのものだ。

はじめは、心露が馴染めるか不安だったが、縹の多少強引に人を引っ張っていく性格が、心露には合っていたのかもしれない。

無表情で、感情が表に出にくい子だけど、縹に対して変な壁を作っているようには見えなかった。


「川なんて久しぶりだわ」


「そうなのか?」


「ええ、大学以来かしら」


「そっか、大人になったら、なかなかこうして遊ぶ時間も取れないもんな」


そう。

私たちは、もう大人で、親なんだ。


「そういえば。沓九先生、身体の方は大丈夫なのかしら?」


「ああ、今のところは。詳しいことは教えてくれないけどな。心配かけさせたくないんだろう」


「そう……」


ふと、誰かの視線を感じた。

見られている。私の背中を。

ハッとして振り返る。土手の上に人影が見えたような気がしたが、瞬きをするうちにその影は消えていた。


「美代、どうした?」


「いえ……なんでもないの」


「そうか」


気のせいだろう。

最近、誰かの強い視線を感じることがある。

だけど、周りを見回しても誰もいないことがほとんど。

少しだけ、疲れているのかもしれない。


「わっ!」


縹の小さな悲鳴が響いて振り返ると、川の中に尻餅をついていた。


「縹、大丈夫!」


「大丈夫、大丈夫!ちょっと足が滑っただけー!」


「まったく、気をつけろよー!」


「わかってるってばー!」


縹は体を起こすと、また無邪気に川の水を足で弾きはじめた。


「ほら、肉焼けたぞー!上がってこーい」


航青が川で遊ぶ子どもたちに声をかけると、2人は一直線に向かってきた。


「おいしい!」


「おにく」


2人は、肉を頬張り幸せそうな顔をした。

みるみるうちに肉は小さな2人のお腹におさまっていく。


「な?あまらなかっただろ?」


航青が得意げに胸を張る。


「ふふ。そうね」





なぜか、夜中に目が覚めた。

また眠ろうと目を閉じたが、はっきりと頭が冴えてしまって眠れそうになかったので、温かいミルクでも飲もうと、リビングに降りてきた。

電子レンジで温めたミルクをすすりながら、ホッとため息をつく。

なんだか最近妙なことが多い。

人の視線を感じたり、急に身体が重くなったり……。

身体だけじゃない。

朝、新聞を取りに行ったら郵便受けは空で、休刊日かと思っていたら昼ごろにはいっていたことが何度かあった。

新聞屋さんに問い合わせてみても、早朝にしか配達していないという。

それに、庭の花が荒らされていることもあった。

野良猫の仕業かと思ったが、よく見るとそうではない。

人間の手によって、故意に引き抜かれているような形で荒らされている。


「……」


嫌がらせだろうか。なんにせよ気味が悪い。

航青に相談しようかとも思ったが、今は直にある24時間放送の準備で忙しそうなので、あまり迷惑はかけたくない。


「はあ……」


ため息をつく。


「母さん?」


ハッとして顔をあげると、扉のそばに縹が立っていた。眠そうに目をこすっている。


「縹……どうしたの?目が覚めちゃった?」


縹はこくりとうなづいた。


「ホットミルクでも飲む?眠れそう?」


「ううん。……怖い夢を見たんだ」


縹がうつむきながらつぶやいた。


「怖い夢?どんな」


私がそう尋ねると、縹は泣きそうな顔をした。

そして、私のそばへ来てぎゅっと私の寝間着の裾を握った。


「母さんに捨てられる夢」


私の裾を握る小さな手は震えていた。

その腕には、まだ癒えていない切り傷の跡が残っている。

私はぎゅっと縹を抱きしめた。


「怖かったのね」


「うん」


「大丈夫よ」


優しく、強く抱きしめる。


「母さんは、俺を捨てない?」


「当たり前じゃない。縹は私の大切な子よ」


私の言葉に縹は弱々しく首を振った。


「でも、俺は母さんと血繋がってない」


「そんなの関係ないわ」


縹も不安だったんだ。

再婚で親子関係を築くのは、難しいことだと思ってはいた。

子どもも、新しい母親をなかなか受け入れられない場合が多いんだろう。

でも、縹は初めから私を本当の母親のように慕ってくれていた。

それは、玲子から受けた傷を無理やり癒そうとするためだったのかもしれない。

私も、それに応えようと、精一杯母親らしく振る舞った。

でも、お互いどこかにあったんだ。

私たちの関係は、とても脆いんだという自覚が。

血の絆がないという事実が。

だから、その脆い糸が切れることのないように。お互いが一生懸命になりすぎていた。


「大丈夫」


縹に、そして自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

私の腕の中で、縹は静かに泣いていた。

今まで誰にも言えなかった不安があふれ出したように。縹の涙を袖で優しく拭う。


「大丈夫よ。私は縹のお母さんだから」


縹の泣き顔は、航青にそっくりで少し笑ってしまった。


「そうだ。明日は縹が好きなもの作ってあげる」


「……ほんと?」


「ええ。何が食べたい?」


縹は少し考えた後、ボソリとつぶやいた。


「カレー」


「わかったわ。とびきりおいしいカレーを作ってあげるからね」


縹の頭を撫でる。

まだ赤い目で、縹は嬉しそうに笑顔を浮かべた。




縹と心露を送り出し、カレーの下ごしらえを進める。

まさか、肝心のカレールーを切らしていたなんて不覚だったわ。

ついでに、と色々頼んでしまったけれど大丈夫かしら?

一緒に行こうとも思ったけれど、縹と心露の2人で行かせることにした。

兄妹になって、だいぶ経つが心露は未だに縹のことを「お兄ちゃん」と呼ぼうとしない。

私はそれが少し気がかりだった。

ピンポーン。

具材に火が通りはじめた頃、インターホンが鳴った。


「はーい!今行きます」





玄関に向かい、ドアを開けるとそこには彼女が立っていた。


「久しぶり。みっちゃん」


手入れの行き届いた綺麗な長い髪。透き通るような白い肌。縹色のヒール。


「……玲子」


最後に会った時から全く変わらない、美しいままの姿で玲子は私に微笑みかけた。


「すっかり主婦さんね、みっちゃん」


「……」


「そんなに身構えないで」


「あの、私……」


言葉が思いつかない。あの時から、一言でもいいから謝りたいと思っていた。

だけど、いざ本人を目の前にするとなかなか言葉が出てこない。


「……とりあえず、中に入れてもらえる?少し話があるの」


「え、ええ」


急いで客用のスリッパを用意して、玲子の前に差し出す。


「ありがとう」


「……」


縹色のハイヒールを脱ぎ、スリッパに足を通す、その一連の姿さえオーラがあった。

 




リビングに足を踏み入れ、周りを見回す玲子。


「懐かしいわ。この家」


「飲み物は紅茶で……?」


「うん。ありがとう」


自分を落ち着かせようと、ゆっくりとやかんに水道の水を注ぐ。

玲子は食卓に座り、まだ部屋を見回していた。

お湯が沸くまでの時間が限りなく長く感じた。


「いきなり押しかけてごめんなさい。本当は事前に伝えたかったんだけど、連絡する手段がなかったの。みっちゃん携帯は持たない主義だったものね」


「……まぁ」


「あの人は仕事?」


「……えぇ」


ポットに茶葉を入れ、やっと沸いた湯を注ぐ。


「そうよね」


ポットを揺らし、茶葉を泳がせる。

紅茶をティーカップに注ぎ、机に運ぶ。

手が震えているのか、カタカタとカップが揺れた。

玲子は微笑みを崩さず、紅茶をすする。


「……話って」


「最初に言いたいの」


私は息を飲んだ。

どんなことを言われるのかわからないけれど、どんな言葉も受け入れる覚悟をした。


「私はみっちゃんを恨んではいないって」


「……」


拍子抜けした玲子の言葉。

だけど、わからない。それが本心なのか、嘘なのか。


「私が悪かったの」


玲子は真っ直ぐに私の目を見て言った。


「ひどいことを言った。あの子に」


「縹に?」


玲子は少し驚いた目をした。


「縹って呼んでるの?」


私はその言葉に少し怖気づいた。

自分の産んだ子を他人に勝手に呼び捨てにされるのは、気持ちがいいものではないだろう。

だけど、私は他人じゃない。そこは譲れない。


「え、えぇ。今は母親だから」


「……そうね」


長い沈黙。

玲子は、また紅茶をすすった。


「気づいてたわ。心露ちゃんを見た瞬間に、あなたとあの人の子なんだって」


「……」


やっぱり、そうだった。

玲子は察しがいいから。


「だけど、私、誰にもなにも言えなかった。もっと責めたらよかった。あなたたちを。だけど、私はバカだから、あの子に、縹にあたってしまった。今でも後悔してるわ」


「……縹に何を?」


「『産まなきゃよかった』って」


「……」


縹はその言葉にどれだけ傷ついたことだろう。

だけど、玲子を責める資格は私にはない。

そもそもの元凶は私であることに、代わりはないのだから。


「あの頃の私はどうかしていたわ。……混乱してて。でも、反省したの。仕事も家族も全て失って……気づいたの。縹にはとても大きな傷を与えてしまった。だから、罪を償いたい。あの子に謝りたい」


「……え?」


それが、玲子の本心だろうか?

縹に謝りたい。ただそれだけ?

だとしたら、本当は縹を引き取りたいんじゃないだろうか?

色々な考えが頭を巡った。

玲子は、縹を取り戻しに来たんだとしたら……私は……。縹は……?

長い沈黙が流れていたその時、ガチャと玄関のドアが開く音がした。


「ただいま」


心露の声だ。縹はいない。いつも最初に『ただいま』というのは縹だから。

きっと、買い物をサボって先に帰ってきてしまったんだろう。


「おかえりなさい。今、お客さん来てるから、2階に上がってて」


「……心露ちゃん?」


いつもは、そのまま2階に上がっていくはずの心露が、なぜかその日はリビングに顔を覗かせた。


「心露!2階に上がってなさい」


「……?」


「久しぶりね。心露ちゃん。おばさんのこと覚えてる?」


玲子はサッと立ち上がると、心露の前まで颯爽と歩いていく。


「……覚えてる」


「こうして君の顔を見ると、やっぱりわかるわ。……あの人にそっくり。どことなく縹にも似ているわ鼻筋や口の形が。あ、でも目元はみっちゃんの特徴を受け継いでるわね。可愛い」


「……」


心露はただそこに立って玲子を見上げていた。

玲子の表情は見えない。心露の表情からも、玲子の様子は伺えない。


「玲子、やめて。心露は何も悪くないの。悪いのは私だから……」


「どうしてそんなこと言うのよ。怒ってないって言ってるじゃない。恨んでもいない」


「縹のお母さん」


「……どうしたの?」


「縹を連れ戻しに来たの?」


心露は毅然としていた。子どもとは思えないほど。


「心露!2階に行ってなさい」


「返さないよ」


「え?」


心露の言葉に、玲子は聞き返す。


「もう、私のお兄ちゃんだから。返してあげないよ」


「……」


玲子の表情は見えない。

じっと心露を見下ろす後ろ姿。

心露は物怖じすることなく、玲子を見上げている。


「きゃっ!」


「!」


気づいたら、ポットの紅茶を玲子にかけていた。

玲子は驚いたように私を見る。


「ご、ごめんなさい」


「……いいの。ちょっとどうかしてたわ」


玲子はパンパンと自分の頬を両手で軽く叩いた。

先ほどまでの異様な威圧感が少し薄らいでいる。


「大丈夫よ、心露ちゃん。お兄ちゃんを連れて行ったりしないから……」


玲子がかけた言葉に対して返事をすることはなく、心露は無表情のままくるりと背を向け階段を駆け上がって行った。


「強い子ね」


玲子が悲しそうに微笑む。


「シャワー借りてもいいかしら?」


玲子が困ったように肩をすくめた。


「……ええ、もちろん」





ノックをして脱衣所の扉を開ける。

浴室の中からはシャワーの水が流れる音が響いてきた。


「タオル、ここに置いておくわね」


「ありがとう」


「じゃあ……」


「待って」


シャワーの音が止まった。


「少しだけ私の話、聞いてくれる?」


浴室からくぐもった玲子の声が響く。


「うん」


「見て」


玲子が、浴室のドアを開けた。

細く白い玲子の美しい裸体。


「……!」


「驚いた?」


皮肉めいた笑顔を見せる玲子。


「それ、どうしたの?」


玲子の身体には無数の切り傷や火傷痕があった。


「舞台に立つ日はいつも、コンシーラーで隠してたんだけどね」


「……知らなかった」


「誰にも見せてないから。あの人にも……」


「一体、何があったの?」


「ありふれた話よ。母親の虐待」


「え?」


よく見れば傷は最近ついたものではない。昔ついた傷が消えていないんだ。


「ロクでもない親だったわ」


玲子はゆっくりと口を開き、語り始めた。彼女の過去を。


「私は1人っ子だったんだけど、父親は朝から晩まで飲み歩いて、外で浮気ばっかり。やがて家にも帰ってこなくなった。母親は精神を病み、私に対して暴力を振るうようになったの。タバコを押し付けられたり、カッターナイフで切りつけられたり、浴槽に顔を沈められたりね」


玲子は微笑んだまま語る。


「『虐待を受けた子どもは、親になった時、同じように自分の子どもにも虐待をするようになる』って何かの番組で言っててね。私、そんなこと絶対ないって思ってた。縹を愛してる。我が子に対して暴力を振るうことなんてないって……」


虐待の連鎖。私も聞いたことはある。


「母親はいつも言ってた。『お前なんて産まなきゃよかった』って。……私、同じことを縹に言った。その時に思ったの。私は、やっぱりあの母親の娘なんだって」


「玲子」


「だから、縹を遠ざけた。本当は引き取りたかった。でも、私は縹に何をするかわからない。今だってそう。自分の中にふと、黒い感情が溢れてきてどうしようもなく何かを壊したくなってしまう」


自分の手を見つめる玲子。

その姿はとても孤独に見えた。

1人の小さな子ども。私の目にはそう映った。

彼女は決して強い人間なんかじゃなかったんだ。

自分の弱さを隠すために、無理に勝気を装っていただけ……。

本当はとても孤独な1人の少女だったのかもしれない。

それなのに。

彼女がやっと手に入れた幸福を奪ったのは。

こんな風に玲子をさらに孤独へ追いやったのは。

私だ。


「本当は今日、縹を引きとらせてほしいって言おうと思ったの。でも、ダメだわ。まだ、私じゃ縹を幸せにはできない」


「……」


「みっちゃん、こっちに来て」


私は言われた通り、玲子の元へ近づいた。

浴室の敷居を跨ぎ、足に冷たい水が触れる。

玲子は微笑んで濡れた身体のまま、私を抱きしめた。

冷たい身体。湯ではなく水を浴びていたの?


「最初に言ったのは嘘。私、あなたを憎んでた。私から全て奪ったあなたが、憎くてしょうがなかった。あなたに縹を任せておきたくなんてなかった」


「……」


「あの人の恋人であるあなたが憎かった。譲ってくれたと思ったのに、やっぱり奪い返されるんだって。あなたが憎い。私よりも綺麗で、頭も良くて、なにもかも持ってるあなたが憎い」


「玲子……」


「ねぇ、みっちゃん。もし、私が縹を返してほしいって言ったら、あなたはどうする?」


玲子の囁き。

孤独な状態の玲子のたった1人の肉親である縹。

縹はもしかしたら、本当の母親を求めているのかもしれない。血の繋がった本物を……。


「……渡さない」


「……」


「例え、あなたがまともな母親で、どれだけ縹を愛していたとしても……縹は私の子よ。あなたには返さない」


「そう」


玲子がぎゅっと私を抱く。


「それが聞けてよかったわ。……悔しいけど、私よりあなたの方があの子の母親に相応しい」


「……」


「みっちゃん。私あなたが嫌いよ。殺してしまいたいぐらい憎く思ったこともある。今だってそう。あなたの輝きに敵わない自分が腹立たしい。……みっちゃん」


玲子がそっと耳元で、囁く。


「だからこそ、あなたが大好きよ」


背筋がゾッとした。

反射的に私は玲子の身体を突き飛ばしていた。

玲子がゆっくりと仰向けに倒れていく。

その顔は微笑んでいた。


シャワーが一斉に流れ出す。真っ赤な血のついた蛇口は限界まで捻られていた。

完全に頭部が割れていた。誰が見ても明らかだ。

玲子は死んでいる。

シャワーの水がベールのように玲子の上半身を包む。


しばらくその場に立ち尽くしていた。

救急車を呼ぶほど冷静さを取り戻すこともできなかった。

もう、間に合わない。


私は濡れた身体のまま、二階へと上がった。

心露の部屋へと。





心露の部屋の前に座り込み、ノックをする。


「お母さん?」


心露がドアを開けようとするがドアノブを押さえて、開けさせようとしなかった。

こんな姿見せられるわけがない。


「開けなくていいわ」


「あの人帰った?」


「ええ」


「大丈夫?」


「大丈夫よ」


「……」


心露は黙ってしまった。


「心露」


「どうしたの?」


「心露はね。本当はお父さんの本当の子なの」


「……」


「大きくなったらわかるわ。その意味が」


「知ってたよ」


「え?」


知っていた?違う。きっと意味を履き違えているんだ。そんな考えは次の心露の言葉に掻き消された。


「私は産まれて来なければよかった存在なんだって」


ああ、心露は全てを察していたんだ。


「……どうしてそんなこと」


「私が産まれなかったら、みんな幸せだったんだよね」


「心露、違うわ」


「ごめんね。産まれてきて」


「違う!違うわ!」


思わず、叫ぶ。

自分の産んだ子に、「産まれてきて、ごめん」なんて言わせたくなかった。


「あなたは悪くない!誰がなんと言おうと、私は心露を愛してる。あなたが産まれてきたことは間違ってなんかいない」


こんなに必死に誰かに何かを訴えたことなんて、今までなかった。


「お母さん」


「心露、ありがとう。産まれてきてくれて」


私は伝える。私の心を。


「ねぇ、母さんと行く?」


「……どこへ?」


「遠いところへ」


尋ねたけれど、連れて行くつもりはなかった。


「……行かない」


その言葉に私は少しだけホッとした。


「どうして?」


「縹を待たないといけない。先に帰ったこときっと怒ってる」


「……あはは。そうね」


そう、あなたはこの部屋でお兄ちゃんを待っていて。


「お母さん」


「ん?」


「すぐ帰ってくる?」


「……」


言葉に詰まった。


「ええ。すぐに帰ってくるわ」


嘘をつく。心露に最後の嘘を。


「わかった。待ってる」


「うん」


ゆっくりと立ち上がり、ドアを見つめた。

顔を見るのはやめた。


「愛してるわ、心露」




川を見つめていた。

そういえば、この川でバーベキューをしたっけ。家族4人で。


「……」


車の音がした。

なぜだか、わかった。あの人だと。


「美代!」


ゆっくりと振り返る。

息を切らせた航青が、立っていた。


「……どうして」


航青は肩で息をしながら、私に問いかけた。


「私が殺したの」


「……!」


「ずっと前から、私は玲子を殺し続けていたの」


「事故……なんだろ?」


「……」


夕陽が川に反射する。

青い水が赤く染まる。


「警察に事情を話そう。縹も、心露も待ってる。だから、帰ろう」


「帰れない」


「美代……」


「どんな顔して会えばいいの?私は玲子を殺したの、例え事故だとしても、玲子を苦しめ続けたのは私」


「それなら、俺もだ!」


「あなたは違うわよ」


「そんなことない。俺もあいつを苦しめた。お前のことも苦しめた」


「……」


「一緒に償おう。どれだけかかっても……」


「愚かだわ」


一緒に償う?誰に何を?玲子に、私たちの関係を償うの?もう玲子はいないのに。それとも、子どもたちに償うの?私たちの勝手で子どもたちの人生を狂わせたことを。

償うことなんてできない。

子どもたちにも彼女にも。

あまりにも愚かだ。


「私が生きているなんて」


「美代?」


「玲子のものだったあなたを奪って、玲子のたった1人の子どもも奪って……本当に醜い」


「お前のせいじゃない」


「私のせいよ」


「お前は、心露を産んだことを後悔してるのか?」


航青の言葉が重い。そんなわけない。


「……あの子は私の宝物よ」


「なら、もう一度、母親として……」


航青は気楽なものだ。もう一度、母親になれるわけがない。


「……殺人犯の子どもになっちゃうのね」


「どうして、そんなこと言うんだよ」


「事実だもの」


空を見上げる。夕陽はどうしてこんなにも沈むのが早いのかしら。


「愛してるわ。あなたも、心露も、縹も」


「美代!」


何かを察したのか、航青が駆け寄ってくる。

私に向かって腕を伸ばす。


「玲子を一人ぼっちのままにしておけないじゃない」


私は言った。

私に駆け寄ってくる彼に向けて。

彼に届かないほど小さな声で。


「さよなら」





濁流にもまれながら、心露の身体を追う。

手を伸ばそうとしても、水流に巻き込まれて、なかなか届かない。何度か、手を伸ばし、心露の服の裾を掴む。

グッと身体を引き寄せ包みこむように抱きしめる。

岩に背中を打ち付けた。

痛みと衝撃に腕を緩めてしまいそうになる。でも、絶対に離さない。心露を離さない。

水面上に上がり、空気を吸い込もうとしても、波が襲いかかってきて、すぐに水中に押し戻される。

それを何度も繰り返し、濁った水を大量に飲んだ。

限界だ。息が続かない。

誰か。神さまでも、誰でも。

どうか助けてくれ。心露を助けてくれ。


「……」


ダメだ。意識が遠のく。

お願いだから。俺はこのまま流されてもいい。

だから、どうか心露だけでも。

母さん。……父さん。

意識が途切れる瞬間。幻のようなものが見えた。

大きな手、その腕に包まれ、俺と心露はぎゅっと抱きしめられる。

優しく、力強く。

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