第10話『零度』

窓枠が風に叩かれて、ガタガタと揺れる。

本格的な台風がやってきている。

台風は嫌いだ。

親父が留守の日に、1人で台風に耐える日は本当に心細かった。

俺は心露の部屋の前に立つ。

ノックをするが返事はない。


「心露、ごめん。俺の声なんか聞きたくないかもしれないけど、最後に聞いてくれないか?」


部屋からはなんの返事もないが、俺は話を続けた。


「記憶……戻ったんだろ?」


かすかな物音がした。

本当に微かだが、こちらに向かってくる足音。

足音は扉の前で止まった。

今、一枚の扉を挟んで心露がすぐそこにいる。


「俺は明日の朝、台風が過ぎたら帰ろうと思う。それからは、もう二度と顔を見せない」


トン、とひとつだけノックの音がした。


「……最後に顔は見せてくれないよな」


トントン、と二回ノックの音。

きっと、イエスが一回、ノーが二回なんだろう。


「いいんだ。ごめんな」


ノックの音はなかった。


「聞いたよ。浅葱から。俺たち血が繋がってるって。お前知ってたんだな」


少しの沈黙のあと、ひとつだけノックの音がした。


「父さんたちが再婚する前から?」


ひとつのノック。


「そうか、俺だけが何も知らなかったんだな。ずっと苦しかっただろ?」


長い沈黙。ノックの音はなかった。


「俺さ、妹ができた時、本当に嬉しかったんだ。お前は『兄さん』って全然呼んでくれなかったけどさ」


ノックの音はない。俺は話を続ける。


「お前のためならなんでもしてやろうって思ったよ。兄として。感情表現が苦手だけど、俺はちゃんとわかってた。感情があって、ちゃんと色んなことを感じてるんだって。俺が、ちゃんと心露の気持ちをわかってあげるんだって意気込んでた」


トン、トン、トン、と三回のノックの音。

どういう意味だろう。


「心露、俺は、俺自身はお前が大好きだよ。どんなことがあろうと」


ノックの音はない。


「ありがとう。もう、顔は見せない」


扉に触れる。


「ごめんな」


ノックの音が二回。


「……どうして?」


扉の奥から小さな声がした。


「どうして縹があやまるの?」


か細い、消えてしまいそうなほど小さな声だった。


「……認めたくなくても、血を引いた息子だから」


「どういうこと?」


「母さんを殺したのは、俺の実の母親だから」


バンッと勢いよくドアが開いた。

そこに立っていた心露は、目を見開いて俺を見上げる。


「……どういうこと?」


「え?」


心露の反応は予想していたものとは違った。

おかしい。浅葱はたしかに、心露からこの事実を聞いたと言った。

なのに、この心露の反応はなんだ?

記憶は戻ったんじゃなかったのか?


「お前、記憶戻ったんじゃ……」


「うん。全部思い出したよ。縹のことも、あの日のことも」


「なら、知ってたんだろ?」


「……縹の本当のお母さんが、私のお母さんを殺した?」


「浅葱にそう聞いた」


心露は唖然として、その場に立ち尽くしていた。


「浅葱が、本当にそう言ったの?」


「ああ、浅葱はお前から聞いたって言ったよ」


「……。他には何か言ってた?」


「他?……心露の立場になって考えろって言われた」


心露はふっと下を向いた。


「自分が心露の立場なら、どう思うか。それを考えろって……でも、俺はバカだからわかんねぇよ。お前がどれだけ苦しかったかなんて……」


「違う」


心露はうつむいたまま、顔を上げようとしない。


「……どういうことだ?」


「浅葱は、嘘をついたんだ」


「え?」


浅葱が嘘をついている?

そんなはずはない。だって、全てのピースがハマったように、全部しっくりきた事実なんだから。


「……話す、全部。あの日のこと」


心露が顔を上げ、まっすぐに俺を見つめる。

母さんから受け継いだ少し青みがかった硝子のような綺麗な瞳に、情けない俺の姿が映っている。


「どちらにせよ、縹と会うのはもう、これが最後であることには変わりない」





あの日、私は「トイレに行く」と言って、縹を騙して勝手に家に帰った。

刑事ドラマの続きがどうしても気になった。

録画もしていなかったから、犯人がわからないまま、もやもやするのはどうしても嫌だった。

縹は怒るかもしれないけど、すぐに許してくれるだろう、そんな自信があった。


「ただいま」


玄関を開けると、他人の気配を感じた。

お母さんのものではない青いヒールの靴が玄関に揃えられている。


「おかえりなさい。今、お客さん来てるから、2階に上がってて」


お母さんの声がリビングから聞こえた。

その声は、普段と様子が違った。

恐怖心、焦り、危機感。

そんなものが混じった声。

今リビングにいる客はお母さんにとって、喜ばしい客ではないんだろう。

私は、正直に言うことを聞いて2階に上がろうとも思ったが、お母さんが心配だった。

だから、そっとリビングを覗いた。




「心露!2階に上がってなさい」


リビングを覗いた私に、お母さんが大きな声を出す。

お母さんの向かいには、髪の長い、綺麗な女の人が座っていた。


「……?」


私はその女の人をどこかで見たことがあるような気がした。

遠い昔のような気もするし、つい最近のような気もする。


「久しぶりね。心露ちゃん。おばさんのこと覚えてる?」


女の人は立ち上がると、気味の悪い作られたような微笑みを浮かべながら私の前まで歩いて来て、私を見下ろした。


「……覚えてる」


嘘だった。

私はこの人と、どこで、いつあったのか覚えてなんかいない。

でも、この人が誰なのかはなんとなくわかった。


「こうして君の顔を見ると、やっぱりわかるわ。……あの人にそっくり」


女の人の冷たい目線が私の顔の造形を舐める。


「どことなく縹にも似ているわ鼻筋や口の形が。あ、でも目元はみっちゃんの特徴を受け継いでるわね。可愛い」


「……」


恐ろしかった。

私はその場から逃げることも動くこともできない。

蛇に睨まれた蛙のように。少しでも動けば食われてしまうと、感じた。

ただこの人を……縹の本当のお母さんを見上げ続けることしかできなかった。


「玲子、やめて。心露は何も悪くないの。悪いのは私だから……」


懇願するようにお母さんは声を絞り出している。


「どうしてそんなこと言うのよ。怒ってないって言ってるじゃない。恨んでもいない」


不思議と嘘を言っているようには見えなかった。

でも、本当のことのようにも思えない。

真っ黒な感情が混ざりあって、混ざりすぎて、無に帰ったような、そんな表情で、私を見つめ続ける。


その後のことはあんまり覚えていない。

精一杯の虚勢を張った言葉を投げかけたような気もする。

ただ、襲い掛かる高波のようにこの人が怖かった。

動けない私を守ろうとしたのか、お母さんは縹のお母さんにポットの中身をかけた。

小さな悲鳴にハッとして、私はその場から後ずさった。そのあたりの記憶は曖昧だ。


「大丈夫よ、心露ちゃん。お兄ちゃんを連れて行ったりしないから……」


気味の悪い優しい声だった。

私は返事をせず背を向け、逃げるように階段を駆け上がって自分の部屋へ向かった。




私は産まれてはいけない存在だった。

幼い私でも、なんとなくそれはわかっていた。

縹は本当のお母さんのことを、もう忘れたと言っていた。

私や私のお母さんを本当の家族のように思っているのは間違いない。

でも、本当は?

私がいたから……私がお父さんの子どもだったから、縹のお母さんは出て行ってしまったんだ。

それを、私は知ってる。

縹はきっと知らない。

だけど、もし知ったら?

私たちのことを、変わらずずっと家族だと思ってくれる?

自分の本当の母親を不幸にした存在のことを。

それでも、妹だと言ってくれる?


震える膝を抱える。

自分という存在が憎い。

みんな、本当は私が産まれることを望んでいなかったんじゃないだろうか。

私がいなければ、私さえいなければ、みんな、縹も、幸せに暮らせていたんじゃないだろうか。


どれだけの時間が経ったのかはわからない。

ふと、部屋の扉を叩く音がした。


「お母さん?」


扉を開けようとしたが、外から手でドアノブを抑えられているらしく、扉は開かない。


「開けなくていいわ」


落ち着いた、静かな声だった。


「あの人帰った?」


「ええ」


顔が見えないからわからない。でも、お母さんの声は、波ひとつない海のように穏やかだ。


「大丈夫?」


「大丈夫よ」


大丈夫じゃない。お母さんは、大丈夫じゃない時に、『大丈夫』と言うから。

お母さんが遠く感じる。


「心露」


「どうしたの?」


「心露はね。本当はお父さんの本当の子なの」


「……」


「大きくなったらわかるわ。その意味が」


「知ってた」


「え?」


知ってたよ。そのせいで、色んな人を傷つけていたのも知ってた。


「私は産まれて来なければよかった存在なんだって」


「……どうしてそんなこと」


「私が産まれなかったら、みんな幸せだったんだよね」


「心露、違うわ」


「ごめんね。産まれてきて」


涙は出なかった。ただ、事実を述べただけ。

私の心は強くない。本当は硝子のように脆い。だから厚い氷の中にしまいこむんだ。何も感じない。自分の気持ちは凍らせてしまえばいい。


「違う!違うわ!」


お母さんが叫ぶ。

大丈夫だよ。言い訳なんてしなくていい。

私は傷ついたりしないから。


「あなたは悪くない!誰がなんと言おうと、私は心露を愛してる。あなたが産まれてきたことは間違ってなんかいない」


「お母さん」


「心露、ありがとう。産まれてきてくれて」


母さんの言葉。

はじめて言われた言葉。

ギュッと心が熱くなる。


「ねぇ、母さんと行く?」


「……どこへ?」


「遠いところへ」


意味なんて、わからなかった。

でも、お母さんについて行ったら、きっともうこの家には帰って来られない。そんな気がした。


「……行かない」


私は答えた。


「どうして?」


「縹を待たないといけない。先に帰ったこときっと怒ってる」


「……あはは。そうね」


弱々しくお母さんは笑っていた。


「お母さん」


「ん?」


「すぐ帰ってくる?」


「……」


沈黙。


「ええ。すぐに帰ってくるわ」


嘘だ。

お母さんはきっと帰ってこない。


「わかった。待ってる」


「うん」


扉のすぐそこで、お母さんが立ち上がる音が聞こえた。

迷った。

今からでも、扉を開けてついて行こうか。

でも、そうしたらまた、お母さんは私と一緒にずっと暗い部屋の中で過ごす道を選ぶんじゃないか?


「愛してるわ、心露」


小さな声だった。

嘘じゃない。本当の言葉だと、信じたい。


「……私もだよ」


扉の前にもう、お母さんはいなかった。

しばらく、その場に座り込んでいた。

人の気配のなくなった家。

私はゆっくりとドアを開け、一階へと降りた。

母さんはもう家のどこにもいなくなっていた。


水の音。

浴室からだ。お母さんが止め忘れたのだろうか?

私は水を止めるために浴室へと向かった。





自分の目から涙が溢れていることに気づきもしなかった。

お母さんの言葉の意味もわかった。

逃げたのか、追ったのか、どちらでも同じことだ。

お母さんは、もう二度と帰ってこない。

私は、やっぱり産まれなければよかった。


玄関が開く。

縹が帰ってくる。縹が何かを言っている。

でも聞こえない。何も聞こえない。


「母さんが……」


縹が私を見つける。そして抱きしめる。


「お母さんが……やったの」


縹。

私の半分血の繋がった兄。

ずっと黙っててごめんなさい。

あの日、風呂場で死んでいたのは、私のお母さんじゃない。

縹の本当のお母さんなんだ。





あの日から、縹は部屋にこもったきりでてこなかった。ご飯も食べず、ずっとベッドにうずくまったまま。

私は父さんに全てを打ち明けた。

お母さんの最後の言葉も。

父さんは頷いて、何も言わず私の頭を撫でるだけだった。

佐渡玲子が事故死したという報道が流れたのは、ほんの一瞬だけだった。

その報道の翌日に、大御所女優が病死したというニュースにかき消され、世間の大半はそちらに目を向けた。

縹が自分の母親の死の報道を見ることはなかった。

玄関が開き、父さんがリビングに入ってきた。


「……どうしたの?」


全身ずぶ濡れの父さんがよろよろと食卓の椅子に座った。

外は雨が降っているわけでもない。


「助けられなかった」


「え?」


「ごめんな。父さんがいけないんだ」


「お母さんは?」


父さんは俯いたまましばらく黙っていた。


「……警察が探してるよ」


ああ。

お母さんはもういないんだ。

心がスゥーと冷えていく。凍っていく。


「父さん?」


枯れた弱々しい声が小さく部屋に響いた。

いつのまにか、リビングの入り口に縹が立っていた。


「縹!」


父さんが縹にかけ寄り、その肩を支える。

頬は痩せこけて、目の下には大きなクマがあった。何日も何も食べず、ろくに眠ってもいないんだ。


「母さんは?」


「……」


縹の問いかけに、父さんは答えなかった。


「母さんはいつ帰ってくるの?」


尋ねる縹の目は虚ろだ。


「……縹」


「はやく母さんを連れて帰ってきてよ!」


縹が大きな声で叫ぶ。

父さんは黙って縹を抱きしめる。

抱きしめられた縹は小さな子どものようにわんわんと泣いていた。


私はただ、それを見つめることしかできなかった。

臆病な自分を憎む、その心さえも、感じないように、心を凍らせることだけが、あの頃の私が唯一できたことだった。





私はお爺ちゃんの邸に住むことになった。

私がそう願ったのだ。

どれだけ自分の心を凍らせても、縹の側にはいられなかった。いつ砕けて、その破片で縹を傷つけるかわからなかったから。


お爺ちゃんは私を心よく迎えてくれた。

この家で孫とのんびり暮らすのが老後の夢だったんだ。とお爺ちゃんは朗らかに笑った。

お母さんの話はまったくしなかった。

父さんも、お爺ちゃんも、私や縹を守ろうとしてくれている。真実を隠し続けている。そこにある事実を見せないようにしている。


それは本当に優しさなの?




「はじめまして。心露ちゃん。私は泉谷浅葱」


浅葱に会ったのは、お爺ちゃんの家に来てまもなくのことだった。

お爺ちゃんは、学校に行かなくなった私に話相手を、と浅葱を紹介した。

冷たい雰囲気を持った女の子だと、思った。

他人には興味がなさそうな……お爺ちゃんに言われてしょうがなく私の話相手をしているんだと思っていた。


「無理に、来なくてもいい」


私が浅葱にそう言うと、浅葱は首を傾げた。


「別に無理に来てるわけじゃない。私は来たくてここに来てる」


「嫌じゃないの?」


「嫌じゃないよ」


「どうして?」


「心露のこと好きだから」


浅葱は眉ひとつ動かさずそう言った。


「嘘ついてる?」


「嘘じゃない。可愛くてしょうがない。ほんと食べちゃいたいぐらい可愛いよ」


クールな雰囲気からは、想像できない言葉がその口からでてきた。

嘘を言っているようには感じない。浅葱も、私のことを妹のように思ってくれているんだろうか。


「浅葱は、感情が表情に出ない人なの?」


そう私が尋ねると、浅葱はまるで『え?お前がそれ言うか?』という顔でこっちを見つめてきた。


「そんなことないよ。感情はすぐに顔にでる方。でも、出さないように努力はしてる」


「どうして?」


「そういう女が嫌いだから」


そう言うと、ふっと浅葱は目を伏せた。


「だから、心露のことは好きだよ」



それからは、浅葱といることが居心地良かった。まるでやっと歯車が噛み合ったような。

何を話すわけでもないけれど、ただそこにいるだけで安心した。


「心露、何をそんなに苦しんでるの?」


ある日、突然浅葱は私に尋ねた。

自分も気づかないうちに、私の心は砕けていた。

毎日夢に見た。あの光景。

産まれるべきじゃなかったという、一生変わらない事実。


「全て忘れられたらどんなに幸せだろう」


自分が壊れてしまう前に、私は浅葱に全てを打ち明けた。浅葱は言った。


「ごめんね。私じゃ、心露を救えない」





あの日死んだのは、俺の本当の母親である佐渡玲子。


「……」


「もしかしたら縹は自分も気づいていないうちに……無意識のうちに、あの死体が誰か、確信してるんじゃないか、と思ってた。そして、彼女を殺した人間にも予想がついてたんじゃないの?」


「そんな……ことは」


「でも、それを明確に認めてしまったら、自分が保てなくなる。……心がドロドロになって溶けて無くなってしまう」


「……」


「縹は、私たちを……私と母さんを家族としてすんなり受け入れた。壊れてしまった本当の母親を忘れるために。だから、私の母さんを実の母親以上に慕った。自分を自分自身の心を騙すために」


自分の心を騙す?俺が?


「わからない。何が、なんなのか」


「父さんは隠してたんだ。きっと一生伝えないつもりでいたんだろうね」


嘘だ。父さんは伝えるって、言ってたんだ。俺が受け入れられるようになったらって……

でも、それはいつ?


「縹の実の母さんはね、縹に会いに来たんだよ。愛してる息子を取り戻そうとした。でもそんな彼女を私の母親が殺した」


努めて冷淡に、事実を述べる心露。


「うっ。うぅ……」


声にならない声が漏れる。

混乱している。何が、本当で、何が嘘なのかわからない。

自分がどうしたいのか、どう思っていたのか、何を知っていて、何を知りたかったのかさえも。


「わからない」


「縹」


スッと心露の手が俺の頬に伸びた。


「!」


反射的だった。

心露の手を振り払ってしまった。


「……」


ハッとして顔を上げる。

心露は無表情のまま、そこに立っていた。

自分の頬に水滴が伝う感覚。

それを拭おうとしてくれた、妹の手を俺は振り払った。


「……あ、違うんだ」


「一番怖かったのは、それなんだ」


心露は無表情だ。だけど、その姿は何もかもを諦めたような、そんな風に見えた。


「縹にその目を向けられること」


自分はどんな目をしていた?

心露の手を振り払った瞬間、俺はどんな目を。


「どこかで信じてた……縹なら……」


「違うっ!心露!」


心露は俺を押しのけて、部屋を出て走り出した。


「心露!」


心露を追おうとして、足がもつれ転倒する。

平衡感覚がつかめない。

頭が働かない。命令が足に伝わらない。

まるで水中にいるかのように身体が思うように動かない。

追いかけないと。心露を。

早く。早く!


「立てよ!」


自分の頭を何度か叩く。

少しだけ、意識がはっきりとしてきた。

玄関のドアが開く音がして、外の嵐の音が轟々と邸内に響いた。

まさか、外に?この雨だぞ?


「心露!」


俺は、感覚の鈍った足をなんとか立ち上がらせる。

そして、壁を伝いながら、最大限の力で心露の後を追った。



玄関の扉は開いたままだった。

外は風と雨が吹き荒れている。

迷ってる暇はない。

俺は全力で自分の頬を殴り、嵐の中へと飛び込んだ。




強い雨が顔を叩く。

向かい風でも進まなければいけない。

心露を追いかけないと。

追いかけて、どうしたいのか、わからない。

心露とどう接していけばいいのかも、わからない。

これから先のことなんて、何もわからない。

でも、今はあいつを追わないといけない。

それだけがわかっていたら十分だ。

早く。速く。

遠くに橋が見えた。橋の中央に小さな人影がポツンと雨風の中に佇んでいる。


「心露!」



橋の柵にもたれて、心露はうつむいていた。


「なにしてるんだよ!」


心露はゆっくりと顔を上げて、俺を見た。

髪も服もびしょ濡れで、とても弱々しい姿。


「来ると思ってた」


嵐にかき消されそうなほど小さな心露の声。


「悪かった。さっきはとっさに」


「縹が謝ることなんて何もない」


遠くを見つめる心露の目。


「私は縹が絶対来るってわかってた。縹は優しいから。何があっても許してくれる」


「ちゃんと、話をしよう。俺たちは……」


俺の言葉を遮るように、心露は強く首を振った。


「ダメだよ。許してしまうから、縹は。それが、私にとっては一番、苦しい」


「どうして……」


「縹のこと好きだったよ」


「え?」


「大事なお兄ちゃんだった」


「心露」


「私は、やっぱり産まれて来なければよかったんだ」


心露が橋の柵に足をかける。

まさか。

橋の下に流れる川は、水嵩が増して流れも激しくなっている。


「やめろ!」


駆け出す。その腕を掴むために。手を伸ばす。

心露の唇が動く。言葉を発するために。

小さな声は嵐に掻き消され、俺の耳に届かず消えた。

そして、心露の身体はするりと柵を滑り、重力に従って川に吸い込まれるように落ちていった。

濁流は小さな身体を飲み込み、一瞬でその姿は見えなくなった。

迷ってはいられなかった。

あとを追って、川へと飛び込む。

一人で行かせはしない。

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