第9話『心』
『玲子さんのお子さんはもう、五ヶ月でしたっけ?』
『はい!最近、はじめて歩いたんですよ!』
『あら、はやいですね!』
『そうでしょ?それに、この前初めて私のことママって呼んだんです!本当に可愛くて……』
『お子さんのこと、とても愛してらっしゃるんですね』
『ええ!……昔は自分が子どもを産む未来なんて想像できなかったんですけど、いざ自分の子が産まれると、愛おしくてたまらないんです!』
テレビに映る幸せそうな玲子の顔。
この世の幸せを全て、一人で背負ったような顔。
「……」
『旦那さんとの関係も良好ですか?』
『はい!あの人も親バカで』
玲子は表向きには一般男性と結婚したことになっていた。
業界のことはよくわからないが、玲子の所属する事務所の方針らしい。
なので玲子の夫がアナウンサーの沓九航青であることを世間は知らない。芸能界だけが知っている事実だ。
『今回が最後のランウェイということですが、どのような意気込みですか?』
『本当は、永遠にランウェイを歩き続けたかった。それだけが、私の生きる理由だと思っていたんです。……でも、今は違う。大切なものができたから。だから、この最後のランウェイに今までの私の全てを置いてきます。そして、これから先は1人の母として、いいお母さんになれるよう努めたいと思います』
玲子は満面の笑みをこぼす。
「……綺麗」
どうやったって叶わない。
圧倒的な強さと誇りが彼女にはある。
航青も彼女のその姿に心を奪われたんだ。
「……」
ぼんやりとテレビを眺めていると、電話が鳴った。
「もしもし」
『お、久しぶり。美代、元気か?』
「泉谷くん?久しぶりね。元気よ、そっちは?」
『こっちは、まぁちょっと大変かな』
「浅葱ちゃん?……5ヶ月だっけ?」
『そうそう。航青のとこと3日違い』
「すごい偶然ね」
『本当、驚いたよ。病院も一緒でさ、入院中、玲子さんとも仲良くなったみたいだ』
「あの淡子ちゃんが?」
『そうそう。以外だろ?ベタベタに玲子さんにくっついてたんだよ』
「あはは。やっぱり、玲子はすごいわね。淡子ちゃんも手なづけちゃうなんて」
『だよな。玲子さんのラストランウェイ見てるか?』
「うん。見てる」
『勿体無いよな。まだまだ現役なのに』
「きっと、あの子なりの覚悟があるのよ」
『強いな、玲子さんは。産後なのにもうテレビ復帰して、ランウェイ歩くなんてさ。うちのは、まだ不安定なのに』
「そうなの?」
『浅葱の夜泣きがひどくてな、だいぶまいってて、今実家に帰ってるんだ』
「育児って大変なんでしょうね」
『そうだな。でもさ、可愛いよ子どもは』
「ふふっ」
『なんだよ?』
「不思議ね。泉谷くんも学生の頃は『俺は子どもなんていらない』って言ってたのに」
「ははは。いざ産まれるとな。やっぱり自分の血を分けた子は可愛くてしょうがない」
苦しい。
咄嗟に心の中にその言葉が浮かんだ。
なぜか、わからない。
幸せな話を聞いているはずなのに。
機械的な返答しかできない。
胸が苦しくてしょうがない。
「……っ」
『美代?どうした?』
「なんでもないの。……みんな、幸せでなによりだわ」
『お前も……航青以上にいい男見つけろよ』
「あはは。わかってる」
『お、はじまるぞ』
テレビを観るとショーが始まろうとしていた。
煌びやかなモデルたちが颯爽とランウェイを歩く。
玲子の出番は最後だろう。彼女の最後の晴れ舞台。
音楽と照明が変わり、舞台に青を基調とした美しいドレスを纏った玲子が登場する。
これ以上ないほどの歓声が上がる。
玲子の象徴とも言える縹色のハイヒール。
彼女はここぞという時にはいつもあのハイヒールを履いていた。
ランウェイへと一歩を踏み出す彼女。
照明が青いからか、大きな水槽の中を歩いているかのように見える。
まるで、水の女神のようにしなやかで美しい。
ランウェイの先端まで来ると玲子は、ニコリと勝気に笑い、急にしゃがみこんだ。
会場がざわつく。
再び玲子が立ち上がるとその足元には縹色のハイヒールが揃えて置かれていた。
玲子は朗らかに笑う。母親が子に向けるような笑みだった。
そうして、裸足でランウェイを折り返し始めた。
歓声と拍手。
ランウェイの先端に置かれたハイヒールは、彼女が宣言した通り、彼女の『今までの全て』だ。
自分の頬を涙が伝っていることに気がついたのは、ショーが終わってしばらくしてからだった。
玲子の最後のランウェイから数日後のことだった。家でくつろいでいると、インターホンが鳴った。
こんな時間になんだろう……?
警戒しながら玄関のレンズを覗くと、そこに立っていた人物に驚いた。
急いでドアを開ける。
「航青?どうしたの?」
「うぇ」
玄関先に立っていた航青はぐすぐすと泣いていた。
大の大人が子どもみたいに泣いている異様な光景。
「また、飲んだのね?」
「う」
相変わらず何を言っているのかわからない。
こんなに酔ってるのを見るのは久しぶりだ。就職してからは、酒の飲み方も上手くなってきていたのに。
「なんで、うちに来てるの……」
「うっ」
航青がいきなり口を押さえた。
「ちょっと!」
大学時代の経験から、私の動きは迅速だった。
とっさに航青の首根っこを掴み家に上がらせると、トイレに放り込んだ。
案の定、トイレからは嗚咽が聞こえてくる。
「人の家で吐かないでよ……」
「……」
「航青?」
トイレのドアを開けると、航青は便器を枕にすやすやと眠っていた。
「……もう」
眠っている航青の身体を抱え、ソファーまで運ぶ。
かなりの重労働だわ。
起きたら、文句の一つでも言わないと気が済まない。
「んがっ」
大きめのいびきとともに突然、航青が目を覚ます。
「ちょっと、航青。どういうつもり?」
「んー?」
目が虚ろだ。かなり飲んだらしい。
「はやく家に帰りなさいよ」
「んー、あしたいちげん、てすと……」
「は?」
「たーいおとすとりゅーねんなんだよ」
単位落とすと留年……?
「何言ってるのよ」
「ぜったいおこしてくれよ」
「あなたもう大学生じゃないのよ?」
「……」
また寝た。
もしかして、大学生の頃の癖でウチに来たのかしら?
付き合っていた頃は、よく酔うとウチに寝に来ていた。そして毎回、授業の時間に間に合うように私が起こす日々。
「んー。みよー」
「……なに?」
「がくしょくでな、いわれたんだ」
「学食?」
「みよをくれって」
航青は目を瞑ったまま、呂律の回っていない下で話し続ける。
「かつひこに」
「……そう」
「どうしたい?」
「……私が決めるの?」
「だて、みよはおやじがむりやりいったから、おれとつきあうことになった」
「……そうね」
「もし、みよがかつひこのほうがいいなら」
泉谷くんとは大学の同期で友人だった。
彼と一緒にいる時は、気が楽でいつも行動を共にしていた気がする。
彼の好意には私も気がついていた。
でも、あの頃の関係が壊れるのが嫌だった私は彼の想いを無視し続けたんだ。
「……あなたは、なんて言ったの?」
「おれは……」
「……」
「いやだっていった。みよがおれよりかつひこのことをすきでも、わたさないって」
「え?」
「……」
あの時、航青には私から別れを告げた。
航青が玲子に惹かれていることに気がついたからだ。
玲子に惹かれる航青の姿を見るのが辛かった。
私が枷になって、玲子への気持ちを抑えて欲しくはなかった。
でも、もし。
もし、私がもっと自分に自信があって航青を信じられていたら。
航青が玲子に惹かれていても、航青を好きだと言える勇気があったなら。
少しでも、変わっていたの?
あなたは、私のものでいてくれた?
「好きだった」
つぶやくようにでた、私の言葉は届いていない。
航青はまた眠っている。
「私、航青が好き。でも、自分が傷つかない方法を選んだの。ずるいよね。今さらになって……」
涙が溢れる。
バカな自分に。
一度手放したらもう、一生手には入らない。
「ないてるのか?」
「……泣いてない」
「よーしよし」
航青が私の頭を撫でる。
優しくて大きな手。もう、私のものではない手。
返してなんて言わない。
だから、お願い。1日だけ、私に彼を貸して。
「ハッ!!」
ベッドで眠っていた航青がいきなり飛び起きた。
「え?え!ここ、美代ん家?」
「そうよ」
私はソファーで朝のコーヒーを嗜んでいた。
「な、なんで?」
「やっぱり覚えてないのね……あなた酔っ払ってうちに上がり込んできたのよ」
「……マジで?」
「マジよ」
航青の顔は真っ青だった。
「なんか、大学時代の夢見てて」
「寝言でいってたわ」
「お、俺、なんかした?」
「なんかって」
「いや、その……」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ」
「そうか。ならよかった……」
航青がそっと胸を撫で下ろす。
「玲子には連絡したの?」
「ゲッ!してない」
「無断外泊なんて怒るんじゃない?ましてや元カノの家なんて」
「ああ!頼む、黙っといてくれ!」
「わかってるわよ。そんなことより時間いいの?」
「え?」
掛け時計を見た航青の顔は、さらに青くなった。
「やばい!収録はじまる!」
慌てて出て行こうとする航青。
「ちょっと!鞄忘れてる!」
「あ!悪い!」
玄関で靴を履きながら航青は私の顔を見上げた。
「……本当に悪かった」
「お詫びは後日たっぷり」
「お、おう」
「いってらっしゃい」
「……」
航青は私の顔を見つめたまま玄関で立ち止まっている。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。いってきます」
玄関のドアが閉まる。
階段を慌ただしく駆け下りていく音を、私はその場に立ち尽くしたまま聞いていた。
嵐の強風に身体を持っていかれそうになりながら、やっとたどり着いた。
「もう少しだよ」
腕の中に声をかけ、インターホンを押す。
しばらくして扉が開くと、懐かしい顔が私を見て目を丸くした。
「美代くん!」
「先生……お久しぶりです」
「いったい今までどこに!半年以上も連絡がとれないから心配して……とりあえず入りなさい!」
沓九先生は私の肩を支え、雨から匿うように邸へと招き入れてくれた。
「先生……私」
「待っていなさい。今、タオルを持ってくる」
先生は急いで白いタオルを何枚か持ってきて、私の肩にかけてくれた。
「ありがとうございます」
「それは……」
私の抱き抱えているものを先生は訝しげに見つめた。濡れたタオルをとる。
よかった。ちゃんと眠ってる。
「赤ちゃんです」
「……まさか君の?」
先生は唖然とした様子で、赤子と私の顔を交互に見た。
「ええ。女の子なんです」
「それで、ずっと姿を見せなかったのか?父親はいったい……」
「私、どうしても……欲しかったの」
「美代くん?」
「私も……家族が欲しかったの」
「美代くん。とりあえず落ち着きなさい。その子をこっちに……君はシャワーを浴びて来るんだ」
シャワーを浴びて客間に行くと、先生は慣れた様子で、赤子をあやしていた。
「君に似てすごくべっぴんさんだ。名前はもうつけたのかい?」
「ええ。以前の私なら、子どもが産まれた時には先生に名前をつけてもらおうって思ってたんですが……やめたんです。私が自分でつけました。この子の名前は心の露と書いて『ココロ』」
「こころちゃんか。可愛い名前だね」
先生は優しい眼差しを心露に向けた。
「ごめんなさい。いきなり。……先生しか頼れる人がいなくて」
「いいんだよ。可愛い教え子の面倒は見てやりたいものさ」
涙が溢れそうになった。
妊娠がわかってから、しばらく身を隠した。
誰にも見つからないように。一人で育てていこうと決めた。
でも、現実はそんなに甘くはなかった。
誰かの助け無しに、子どもを一人で育てていくなんてできない。
そして……結局、頼れる人はこの人しかいなかった。
「まぁ、座りたまえ」
私は先生の向かいに座った。
そして、全てを話した。
先生は私が話終わるまで、黙って、全てを聞いてくれた。
そして、頭を下げた。『すまなかった』と。
先生の家で暮らすようになって三年が過ぎた。
三年間、ほとんど外に出ることもなく、先生や心露以外とは誰とも話すことはなかった。
そして、誰も私がここにいることを知らない。
航青も玲子も泉谷くんも。
3人には、地元を離れて元気に暮らしている、と先生から伝えてもらった。
私は先生の家にひっそりと身を隠しながら、邸の掃除や、学会の準備の手伝いなど、自分にできることはなんでもやった。
ある日、庭で航青と泉谷くんの両家がバーベキューをすることになったらしい。
私は窓から、そっと4人の様子を覗いた。
3年も会っていなかった友人たちが、こんなに近くで楽しそうにしている。
「おかあさん、あれ、なーに?」
無邪気に心露が窓の外を眺める。
「バーベキューって言うのよ。お肉やお野菜を焼いて食べるの」
「こころもいっしょにやりたい」
心露は満面の笑みで彼らを指さした。
「……ごめんね。今はダメなの」
「どうして?」
「心露はね、お姫さまだからよ」
「おひめさま?」
「そう。お姫さま」
「どーして、おひめさまはそとにでられないの?」
「お姫さまはね、いつか王子さまが迎えに来てくれるまでお城から出てはいけない決まりなのよ」
「そうなんだ」
心露はまだ3歳なのに、やけに聞き分けがよかった。
同年代の子と触れ合わせてあげられないから、感情の種類もわからないのかもしれない。
私のせいで、子どもを不幸にしたくはない。
でも、この子を幸せにすることはとても難しい。
「……心露」
「なーに?」
「お外に出たい?」
「うーうん。おーじさまがくるまでまつ」
「王子様が来なかったらどうする?」
「くるまでまつよ」
「寂しくない?」
「さみしくないよ」
「……」
「だっておかあさんがいるから!」
「……」
「おかあさんといっしょならずっとおそとにでられなくてもいいの」
「ごめん」
「おかあさん?」
「ごめん、ごめんね。心露……ごめんね」
「心露、大丈夫?」
「うん」
ケホケホと咳をしながら心露が頷く。
病院の帰りだった。
沓九先生は大学に泊まり込みの期間で、私は車の免許を持っていないため、歩いて近くの町医者に行って診てもらったが、軽い夏風邪らしい。
「ごめんね。こんなに暑いのに歩かせて」
「おそと、きらい……」
心露が不機嫌そうにつぶやく。
「……みっちゃん?」
聞き覚えのある声にハッとして振り返る。
唖然とした顔で長身の美しい女性がそこに立っていた。私は咄嗟に心露を背中に隠す。
「……玲子」
私が名を呼ぶと、玲子はワッとこちらへ駆けてきた。
「今までどこにいたのよ!急に連絡取れなくなって……みっちゃんがいなくなった4年間、私がどれだけ心配したか!」
玲子は少し怖いぐらいの剣幕で私の肩をギュッと握った。その手は震えている。
「ごめんなさい。ちょっと色々あって連絡できなかったの」
「今はこの辺りに住んでるの?」
「え、ええ」
「私は今日、淡子ちゃんとランチするからこっちに来たんだけど……」
玲子が私の背後を気にしている。
隠す方が不自然に思われるかもしれない。
「こども……?」
私の背後を覗こうとする玲子。
心露は私の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「ええ」
「みっちゃんの子?」
「……そう」
「ほんと?なんで教えてくれなかったのよ!」
また肩をギュッと握られる。
「色々あって……」
「いつの間にか、結婚してたのね」
玲子は悲しそうに笑った。
「そんなおめでたいこと……教えてくれてもよかったじゃない」
教えられなかったことにショックを受けているんだろう。でも、言えるわけがない。こんなこと…。
「ごめんなさい。……ただ、結婚はしてなくて」
私のその言葉を聞いて玲子の顔が一瞬で曇る。
「どういうこと?」
「この子は、私が一人で育てていくって決めたから……」
玲子は何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
「玲子……」
「この4年間……色々あったのね。私たちを頼ってくれなかったのは、すごく残念だけど、みっちゃんにも事情があるのよね。……でも、遠慮なんてしないで、何か困ったことがあったらいつでも私を頼って!みっちゃんは大切な友達だから!」
そういうと玲子はバッグからメモ帳を取り出し、何かを書いて私に手渡した。
「これ、私の携帯電話の番号。いつでも連絡して!すぐ駆けつけるから」
ああ。
なんて、強くて優しい人なんだろう。
何年経っても、やっぱりあなたには敵わない。
あなたがもっと冷酷な女で、性格が悪くて、私を見下してくれたなら、私は心置きなくあなたを恨むことができるのに。
あなたを裏切ったことをこんなに悔やんだりしないのに。
「ごめんなさい」
「どうして謝るのよ」
「私は……」
玲子は不思議そうに首を傾げた。
そして、私の背後に隠れている心露に声をかける。
「いくつ?」
「……」
心露は反応しない。
「3歳なの」
「あら!縹とひとつ違いなのね」
私が答えると、玲子は手を合わせて嬉しそうな笑顔を見せた。
「え、ええ」
「お名前は?」
「……」
「あらあら恥ずかしがりやさんなのね」
玲子がしゃがみ込み、心露の目線に合わせる。
私は背中に変な汗をかき始めていた。
「心露って言うの」
「こころちゃん?可愛いお名前ね!」
ニコニコと玲子は心露に笑いかけるが、心露は震えて私の足にくっついたまま顔を埋めていた。
「怖がらせちゃったかしら?」
「引っ込み思案なの」
「かわいい」
にっこりと玲子は朗らかに笑う。
「……」
心露がそっと顔を上げて、私の影に隠れたまま玲子を覗いた。
「あらっ、でてきた」
「……おともだち?」
か細い声で心露が言葉を発した。
「ええ、ママのおともだちの沓九玲子です」
「せんせいとおなじなまえ」
「あら、沓九先生のことも知ってるのね」
「うん」
「……」
玲子は急に固まった。
心露が玲子に顔を向けたから。
「そっくり」
ギョッとした。玲子の目は今までに見たことがないほど鋭い目をしていた。
「みっちゃんにそっくりね。美人さんで……綺麗な目、少し青みがかってる」
心臓がバクバクと脈打っている。
はやく、はやくこの場を離れなければ。
「そ、そうかな?そういえば時間はいいの?淡子ちゃんと約束してるんでしょ?」
「あ、そうだった」
玲子の顔がパッと笑顔に戻る。
「会えて嬉しかった。また、ゆっくりお話できたら嬉しいわ」
「ええ、私も」
玲子はにっこりと私と心露に微笑むと、手を振って去っていった。
夜、心露が眠ったあと先生の書斎に呼ばれた。
「お呼びですか?」
「ああ、美代くん。すまない、座ってくれ」
「……はい」
私は、書斎にある古い革製のソファに浅く腰掛けた。
「心露は?」
「部屋で寝ています」
「そうか」
「それで、話って……?」
「君には話しておくべきかと思ってね」
先生の顔は深刻そうだった。
何か、よくない知らせがあったのだろうか。
「どうされたんですか?」
「航青と玲子さんがね。離婚するらしいんだ」
「え?」
瞬時にあの時の玲子の顔が蘇る。
心露を見た時の玲子の、あの目。
「もしかして……」
「急に玲子さんが、出て行くと決めたらしくてね。縹は、航青が引き取ることになった」
「理由は、理由はなんですか?」
「それが、わからないんだ」
「え?」
「玲子さんは何も言わなかったらしい。ただ、航青に対して『嘘つき』と」
嘘つき。その言葉は、私に向けてのものでもある。
「そのまま離婚届を置いて、帰って来なくなったらしいんだ。どこにいったのかもわからない」
「……私のせいです」
「どういうことだい?」
先生に言っておけばよかった。
玲子と会ったあの日に。
「私、玲子と会ったんです」
「なんだって?」
先生は目を見開いた。
そして、察したように首を項垂れた。
「その時、心露も一緒にいて……あの時、玲子は何も言わなかったけど、たぶん気づいていたんだと思います。心露が航青の子だって……」
「……なるほど」
長い沈黙が流れた。
どう考えたって、この物語の悪者は私だ。
私さえいなければ、みんな幸せだったのに。
私なんかが欲を出したせいで、一つの幸せな家庭を壊してしまった。
「美代くん。これは提案なんだが」
「?」
「航青に全て打ち明けてみないか?」
先生の言葉に私は耳を疑った。
「そんなこと!できません……」
「いつまでも、君が日影に隠れている必要はないんだ。心露も自由に外で遊ばせてやりたい。それに……」
「……?」
先生がフッと肩の力を抜いてこちらに優しく微笑みを向けた。
「先日、ちょっと身体にしこりが見つかってな」
「え?」
「私もいつまで、君を匿い続けられるかわからないんだよ」
緊張しながらノックを3回、ドアを開ける。
4年ぶりの懐かしい顔がそこにいた。
「……美代!」
「久しぶり、航青」
「親父から聞いた。ずっとこの邸にいたんだって……心配してたんだぞ」
航青は見るからに疲れ切って痩せていた。
玲子との離婚で精神的な疲れもあったのだろう。
「話があるの」
「ああ、話があることは親父から聞いてるよ。今の今まで本当に美代がいるかどうか半信半疑だったけどな……一体、なんの話だ?」
「……心露」
私が呼びかけると、扉からそっと心露が顔をのぞかせた。
「こっちへおいで」
「……うん」
ととと、と心露が私のところまで駆けてくる。
「こども?」
航青は驚いたように心露の様子を見つめる。
「そう、私の子」
「……」
航青は心露の顔をじっと見つめた。
「……やっぱりあの時の夢は、夢じゃなかったんだな」
「え?」
「俺の子……だろ?」
「……わかるの?」
「ああ、わかるよ。なんでだろうな。わかる……」
航青は力なく笑い、心露と目線を合わせるようにしゃがんだ。
「はじめまして。俺は沓九航青」
「はじめまして……こころです」
心露はもじもじとしながらも、しっかりと自分の名前を名乗った。珍しい。私や先生以外とはなかなか喋ることができないのに。
「いくつかな?」
「さんさい」
心露は3本の指を立てて航青に突き出した。
「そうか。可愛いな」
「……」
心露はじっと航青を見つめる。
人と目を合わせることも苦手なはずなのに。
「おうじさま?」
心露が航青に向かって尋ねる。
「え?王子さま?」
「おかあさんがいってた。おうじさまがむかえにきてくれたら、ここからでられるって」
航青はそっと微笑んだ。
「そうか、ずっと待ってたんだね」
「うん」
「おいで、小さなお姫さま」
航青が心露を抱きしめる。心露は幸せそうに笑った。
私は全てを話した。
この4年間のこと、そして、玲子と会ったことも。
「少しだけ時間をくれないか?」
そう言って航青は帰って行った。
「おうじさま、またくる?」
「そうね。心露がいい子にしてたらまた来てくれるかもしれないわね」
そのあとのことは間接的に聞いた。
航青は玲子を探しだし、話をした。
心露が自分の子であることも打ち明け、謝罪した。
玲子は慰謝料などを請求することもなかったという。
自分はもう全てを捨てたのだから、勝手にすればいい。
とだけ、航青に告げたらしい。
それからしばらくして航青は私たちを迎えに来た。
心露が小学校に上がるタイミングで私たちは再婚をすることになった。
今でも、私は自分を責め続けている。おこがましくも。
もう、会うこともできない友人に対して、どうか謝罪をさせてもらえないかと。
どんな報いでも受けるから、私を責めて罰してくれたらいいのに。
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