第8話『母親』

水面に背中を激しく叩かれる。

そして、私の身体は重力のままに水中へと引き込まれ、やがて浮力に押し返された。

私はどうしてこんなことをしているんだろう。

一瞬見えた赤い太陽が、空にあるものなのか、水中に映った虚像なのか、もうどうだっていい。

苦しさも冷たさも何も感じない。

ただ、心地よく水に抱かれる。

水は私の全身を優しく撫で、浄化してくれるようだった。

ああ、全てを流して。

私の過去も今も、未来も。


私は母親にはなれなかった。

どこまでいっても、私はただの女であって、この先もきっと母親になることはできなかったんだろう。

大事にしていたのは、嘘じゃない。

そんなこと、今さら一人でつぶやいたって意味はない。

ごめんね。

最期に見たのは、言葉が泡となって、水中へ溶ける姿だった。




沓九邸に向かう道の途中、着信が入った。

縹くんからだ。

電話をしてくるなんて珍しい。何かあったんだろうか。


「はい、もしもし」


「あ、浅葱。俺だ」


電話越しの縹くんの声はどこか焦っているように聞こえた。


「縹くん。どうしたの?」


「今から、少し会えないか?」


「今から?いいよ。ちょうどそっちに向かってたところ」


「いや、この家はダメだ」


「え?」


「どこか違うところで」


どういうことだろう。沓九邸では都合が悪いことなのだろうか?


「何かあったの?心露は?」


「今は部屋で眠ってる」


「……心露に聞かれたらまずいこと?」


「そうとも言える」


なるほど。おおかた予想がついた。


「わかったよ。じゃあ、私の家に来て、そこから遠くないし」


「ありがとう」


「地図送るから、一人で来られる?」


「大丈夫だ」


「今はまだ帰ってきてないけど、母さんには会わないようにして欲しいんだ」


「……?わかった」


「じゃあ、待ってるから」


「すぐ向かう」




インターホンがなる。モニターには暗い顔をした縹くんが写っていた。

ドアを開けて、家に招き入れる。母さんはまだ帰っていない、そっと私の部屋へと案内した。


「悪いな」


「大丈夫だよ。で、何があった?」


座布団を差し出し座るように促すと、縹くんは素直に座布団の上に正座をした。


「心露が、記憶戻ったみたいなんだ」


やっぱりか。予想はできていたけれど。


「たぶん」


自信なさげにボソリと呟く縹くん。


「たぶん……?」


「ああ、あれ以降口を利いてない」


縹くんは、心露と二人で水族館へ行ったこと、クラゲの水槽の前で起こったことを話してくれた。


「……なるほど」


「心露、俺を見て怯えてた」


「……」


「俺、最初はそれがなぜかわからなくて」


「縹くん」


聞く限りの心露の反応からして、記憶が戻ったのは間違いないだろう。

そして、記憶の戻った心露は縹くんに何も言わなかったんだ。ただ、彼を避けるように部屋に閉じこもった。


「わかった気がしたんだ」


「え?」


ずっとうつむいたままボソボソと喋るので、彼の言葉がよく聞き取れない。


「母さんの死が隠された理由。父さんが俺たちを離そうとした理由。そして、心露が俺を忘れようとした理由。全部の辻褄が合うことに」


「……」


縹くんは、バカじゃない。

いつか、その答えにたどり着くことはわかっていた。

心露の反応から察してしまったんどろう。


「殺したんだ母さんを」


虚ろな目で縹くんは言葉を放った。


「俺の本当の母親……佐渡玲子が俺たちの母さんを殺した」





クローゼットを開けると、雪崩のようにさなざまな衣類が崩れてきた。

この中から発掘するのか……。


「いやー、だいぶ長いこと開いてなかったからな」


呑気に笑う沓九先生をよそに、私は衣類の山をかき分けてそれらしいものを探す。


「新しいの買ったほうがいいかもしれんな」


「あ!これじゃないですか?」


服の山の中から、クシャクシャにしわのついたモーニングを引っ張り出す。


「おう!それだそれだ。いやー、見つかってよかった。ありがとう美代くん」


「少しカビ臭いですね。それにシワが……」


「まあ、大丈夫だろう」


そう言って、躊躇なく先生はしわくちゃのモーニングに袖を通した。


「いけませんよ。新郎の父親なんだからちゃんとしたものを着てください」


「まったく、君は小煩いなぁ……」


「先生のためです」


「むむ。なら、やっぱり新しいものを買うか」


「それがいいと思います」


「いや、悪かったね。探させてしまったのに」


「いいですよ」


沓九先生はしわくちゃのモーニングを見つめた。


「これを着るときは、君のウエディングドレス姿を見られるものだと思ってたよ」


「……」


「すまない」


沓九先生は小さな声で私に言った。


「え?」


「あの時、強引に私が航青と君をくっつけた。最初はイヤイヤでも、段々と恋人らしくなっていたし……それに君は……」


「やめてください。まるで、私が未練あるみたいじゃないですか」


「……」


「いいんです。2人とも私にとっては大事な友人だから。2人が幸せなら、私も幸せです。それに……」


「?」


「私の結婚式では、沓九先生に一緒にバージンロード歩いてもらわないといけないですから」


私の言葉に沓九先生はキョトンとして、そのあと笑いだした。


「ははは。光栄だな」




花嫁の控え室で、ウエディングドレスを着た玲子の髪をとかす。

今日は一段と綺麗だ。

まるで、絵本にでてくるお姫さまのよう。


「とっても綺麗だわ」


「やだ。みっちゃんに言われたら信じるもんも信じられないよ」


「本当よ」


私がそう言うと、玲子は恥ずかしそうに微笑む。


「私、みっちゃんに聞きたいの」


「なに?」


「私、幸せになってもいいの?」


「いいに決まってるじゃない。まだ、くだらないことに悩んでるの?」


「だって」


玲子が口籠る。

私と玲子は航青をきっかけに仲良くなった。

今では、お互い親友とも言えるだろう。

そして、玲子が航青に惹かれているのも知っていた。


「確かに、私と航青は付き合っていたけど。もう昔の話よ」


玲子が俯く。


「今はお互い、ただの友人」


「……」


「ほら、そんな顔しないで」


せっかくの晴れ姿にそんな顔は似合わない。

私は2人を応援すると決めたのだ。大切な2人の幸せを。


「賢くて、マナーがあって、泳げる人」


「え?」


「私が好きな男の人のタイプ」


私の言葉を聞いて、玲子が吹き出すように笑う。


「航青は全然、当てはまんないね」


「でしょ」


玲子は、目に涙を浮かべながら笑った。

そしていきなりこちらを振り返ると、大きく腕を広げて抱きついてきた。


「どうしたの?」


「私、みっちゃんのこと好きよ」


「……」


「だから、みっちゃんのこと信じる」


「……うん」


ノックの音。扉の外からスタッフの声がした。


「玲子さん。もうすぐ入場です」


「あ、はーい!すぐ向かいます」


玲子はふと微笑む。いつもの勝気な笑顔ではなく、弱く、優しい笑顔で。


「……私、幸せだわ」


彼女の笑顔に応えるように、私も微笑む。


「よかったわ」




騒がしい二次会会場の空気にあてられてしまった。

頭がクラクラする。

あまり飲んだ覚えはないが、様々な人に酒をすすまれるうちに、結構飲んでいたのかもしれない。

隣にいた沓九先生にお手洗いに行くと告げて、会場をでた。

少し離れた壁際のベンチに腰掛け、頭をもたれかけさせる。

そのまま少し目を瞑る。


「君、大丈夫?」


近くで声がして、目を開けると整った顔をした男性が、私の顔を覗いていた。年齢は私と同じぐらいに見える。おそらく、芸能人だろう。


「あ、はい。ちょっと休んでるだけなので」


「酔っちゃったの?」


「ええ、少しだけ」


男はジロジロと私を見る。

居心地が悪い。何の用なんだろう。


「どこの事務所?」


「え?」


「玲子ちゃんと同じ事務所?」


どうやら、私のことを芸能人と勘違いしているらしい。


「私はただの友人で、芸能界とは関係ない人です」


「そうなの?一般人?」


「はい」


芸能人同士の結婚ということもあって、参列者はやはり芸能人が多かった。

私のような一般人は肩身がせまい。


「そうなんだー」


男はそういうと、私の横に座った。


「たくさんの芸能人と触れ合えてラッキーでしょ?」


なんとなく嫌味な言い方だった。

一般人とわかった途端、気を使わなくてもいいと思ったのだろうか。


「いえ、別に……」


「俺のこと知ってる?」


「えっと、ごめんなさい」


見たことあるかもしれないが、記憶にはなかった。


「酷いなぁ。これでも結構売れてる方なのにさ」


「あまり、テレビとか観ないので」


「へー、そうなんだ。珍しいね。そうだ、連絡先教えてよ」


「え?」


「電話番号」


「ごめんなさい。うち電話なくて」


「ほんとに?」


男は疑いの目で私を見る。

そして、なぜか距離を詰めてきた。


「君、一般人にしては綺麗だよね」


「はあ」


褒めてくれているのだろうが、なんだか嫌な気分だ。全然嬉しくない。


「どう?一緒に」


「え?」


「だから」


男はぐいっと私の腰に手を回した。


「このまま抜け出しちゃおうか」


ゾワッと全身に悪寒が走る。


「あの、やめてください」


「俺と遊べるなんて幸運なことだよ。友達に自慢できる」


男を押し返そうとするも、さらに強い力で体を引き寄せられる。


「離してください!」


気持ちが悪い。触らないで。


「水本さん」


名前を呼ばれて、ハッと顔を上げると通路の奥に航青が立っていた。


「こうせ……」


航青がつかつかとこちらに向かって歩いてくる。


「玲子が呼んでる」


そう言って、私の腕をとって男から引き剥がしてくれた。


「新郎がナンパの邪魔か?」


男が小馬鹿にしたように笑う。


「『人気男性アイドルが、嫌がる一般人を無理矢理連れ出した』次のニュースを読むのが楽しみだなぁ」


航青が皮肉のこもった笑みを浮かべると、男は舌打ちをして去っていった。


「大丈夫か?」


「……大丈夫、ありがとう」


心配そうに私の顔を覗き込む。

タキシード姿の航青はいつにも増して、大人びて見えた。


「酔ったのか?」


「少しだけね」


「待ってろ。水持ってくるから」


「大丈夫よ。少し座ってたら楽になると思うから」


私がそういうと、航青は少し困った顔をしつつも私の横に座った。


「主役が戻らなくていいの?」


「いいんだよ、ちょっとぐらい」


航青が隣に座っているなんて、久しぶりだ。


「今日は飲んでないのね」


「まあな。俺、酔うとすぐダメになるから」


「たしかに」


「自分の結婚式で醜態晒すわけにもいかないだろ」


航青の酒癖の悪さはよく知っている。

付き合っていた頃は、よく介抱したものだ。

今は、友達として航青といい関係を保てていると思う。

こうして沈黙が続いても、苦痛じゃない。


「そういえば、克彦も結婚するんだってさ」


克彦とは泉谷くんのことだ。

彼からも話は聞いていた。


「ああ、聞いた」


「絶対、すぐ別れると思ったのに、まさかゴールインしちゃうとはな」


「泉谷くん、いつものように今日は別れ話する!って言ってたのにね」


笑っては失礼だが、少し笑ってしまった。


「ああ、でもあれだろ?その度に『別れるぐらいなら死んでやる』って。俺だったら、普通に別れるけどな」


「相手が死ぬって言っても?」


「ああ。だって、そんなの依存だろ?」


「依存……」


「そう。『好き』じゃないんだよ」


航青は真っ直ぐ正面を見ていた。真面目な横顔だ。

『好き』ってなんだろう。

聞こうとしてやめた。

航青からその答えを聞きたくない自分がいた。

私たちはまた、沈黙の時を過ごす。





「な?全部説明がつくだろ……」


「……」


浅葱は何も言わなかった。ただ俺をじっと見つめる。

その目から、俺は察した。


「……知ってたんだな?」


浅葱は誤魔化すこともせず、深くうなづいた。


「知ってたよ」


「はははっ」


「だから言ったんだ。心露には会うなって」


「心露が話したのか?」


「そうだよ。心露が沓九先生と一緒に暮らし始めた頃、まだ心露は記憶を失ってはいなかった。でもね……」


浅葱は眉をひそめる。


「痛ましくて見ていられなかった。毎日、暗い部屋の隅でうずくまってた。誰からも触れられないように」


「……」


「私はそんな心露を見ていられなくて、無理矢理にでも、あの事件のことを吐かせようと思ったんだ。そうしたら心露が少しでも楽になると……心露は震えながら、全てを私に話したよ。その翌日、心露は全てを忘れていたけれど」


そうか、心露は浅葱には話していたんだ。


「……ねえ、縹くん」


「なんだ?」


「例えば、君が心露の立場だったらどうなってたと思う?」


「俺が?心露の立場?」


「そう」


「そんなの、わからない」


「君は心露を恨む?自分の母親を殺した女の子どもを」


「……」


答えられなかった。想像もできないから。


「答えて」


「俺は、恨まないよ」


「……そう」


「そう思いたいだけだ。でも、実際にはわからない。もう顔も見たくないかもしれない」


「しっかり、想像して。心露の気持ちを」


「……無理」


「縹くん」


「俺は心露じゃない!!」


自分の出した大声にハッとした。

冷静にならないと。


「悪い。大きな声だして」


「構わないよ。でも、逃げないで」


「逃げる……か」


「君はこれからどうしたいのか。心露とどう接していくのか」


心露とどう接していく?接していくべきなのか?自分の母親を殺した女から生まれた人間と接するなんて、苦痛に決まっている。


「もう、心露の前には現れない」


「それで、心露は救われる?」


「そうだろ?」


「君に聞いてるんだよ」


浅葱は俺の肩を掴み、真剣に目を見つめてくる。


「君が心露の前から姿を消して、それで心露は救われるの?」


「そんなのわからねぇよ」


「考えろ!」


浅葱に胸ぐらを掴まれる。


「誰もいない!たった一人で、家族とも触れあえず、ずっと一人で、苦しんだまま生きていけるのか?縹くんは!」


「今は心露の話だろ?」


「君の話でもある」


「俺と心露は違う」


「同じだよ!君たちよく似てる。兄妹だから」


「血は繋がってない」


「……」


浅葱はぐっと口を噤んだ。


「救われねぇよ。何をしたって、心露は救われない」


「決めつけるな!心露に何をしてやれる?考えろ!心露の立場に立って、心露が救われる方法を考え続けるんだよ」


心露が救われる方法?

そんなの俺が関わらないこと…。

心露の笑顔の記憶なんて、初めて家族になってクラゲを見に行ったあの日しか。


「……家族」


「?」


「家族が欲しかったんだ。俺たちは」


突然室内にノック音が響いた。


「まずい」


浅葱がシッと口に人差し指を立てる。


「浅葱?だれかいるの?」


扉の外から、可愛らしくおっとりとした声が聞こえた。


「母さん、帰ってたんだ」


浅葱は俺の胸ぐらから手を離し、平静を装った声で、扉の外へ声をかける。


「今さっき帰ったところなの」


ゆったりとしたペースの掴みにくい声。


「ちょっと友達が来ててね。もうすぐ帰るから」


「友達?浅葱が友達呼ぶなんて珍しいわね。挨拶してもいい?」


「ごめん、今は大事な話してるからまた今度にして」


「……」


浅葱の言葉に返事はなかった。


「淡子さん……だっけ?」


俺は小声で尋ねる。確か浅葱の母親の名前は泉谷淡子さんだ。


「そう」


「俺、挨拶しようか?」


「だめ」


小さな声で強く浅葱は制した。


「なんで?」


「とにかくダメ」


「男の子?」


おっとりした声のトーンが、少し強張ったように感じた。


「玄関に靴があったから」


しまった。

浅葱が俺をキッと睨む。

仕方ないじゃないか。玄関で靴を脱いで上がるのは日本人として当たり前のことだ。


「やっぱ俺、挨拶するよ。変な誤解かけられても嫌だろ?」


「だめ」


「……もしかして、淡子さんも知ってるのか?」


「いいや。母さんは何も知らない。だからこそ、君とは会わせられないんだ」


突然、ドアノブがガチャリと回った。


「!」


浅葱が慌ててドアを抑える。


「母さん!いい加減にして!」


「浅葱!開けなさい!」


甲高い悲鳴に近い叫び声。


「母さんには関係ない!」


「男の子連れ込むなんて許さないわ!」


「ただの友達なんだよ!」


「だったら母さんに会わせなさい!」


ガチャガチャとドアノブは壊れんばかりに揺らされている。


「どうして、母さんに会わせないといけないの!」


「浅葱!」


ドアが何度も激しく叩かれる。

先ほどまでの、おっとりした声からは想像できないほど、豹変した激しい叫び。

怖い。

これが、浅葱の母親……?


「縹くん。2階から飛び降りたことは?」


「あるわけないだろ」


「大丈夫。庭の土は柔らかい」


「無理だって!」


何言ってるんだ、お前まで冷静じゃなくなってるじゃないか。

正直怖い。ホラー映画の演出みたいだ。

だけど、この場から俺が逃げることは最善ではないだろう。


「浅葱、大丈夫だ」


「は?」


俺はドアを抑える浅葱の手をとった。

ドアは浅葱の支えを失い勢いよく開く。その反動で浅葱は後ろへ倒れこむ。俺は浅葱を抱える形で尻餅をついた。


「いたっ」


「……あら」


開かれた扉の先には髪を乱した小柄な女性が立っていた。

あの頃とほとんど変わらない幼げな雰囲気。

とても17歳の娘がいる母親には見えない。


「縹くん?」


にこりと優しく微笑む泉谷淡子。

さっきまで悲鳴を上げながら、ドアを激しく叩いていた人物だとはにわかに信じられない。


「……お久しぶりです」


最後に会ったのは小学生の頃だぞ。

こんなに成長したのによくわかったものだ。


「沓九先生のお葬式以来だわ」


淡子さんは嬉しそうに微笑んだ。

そうか、淡子さんもじいちゃんの葬式に来てくれていたのか。

 

「何よ、浅葱。縹くんだったなら、早く言えばよかったのに」


「……」


浅葱はそっぽを向いたまま何も答えなかった。


「もしかして、2人付き合ってるの?」


「違う」


浅葱の否定が早い。


「あ、ただ話してただけで!誤解させてすみません」


「あら、そうなの残念。何をお話ししてたの?」


「……」


浅葱はなおも黙りこくっている。


「なになに?」


なんだろう、この人は。

可愛らしい雰囲気の中に底知れない闇。恐怖を感じる。浅葱はいつも、この母親とひとつ屋根の下で暮らしているのか。


「沓九家とはね。仲良くしていたかったのに、あの人のせいで、交流なくなっちゃって」


「あの人?」


俺が尋ねると、淡子さんの雰囲気が急に険しくなった。


「あの女よ」


「母さん」


浅葱が制す。


「水本美代」


淡子さんの口から出たのは、俺たちの母さんの名前だった。


「母さん!」


「今は沓九美代か。……ほんとうに忌々しいわね」


淡子さんが爪を噛み始めた。よく見ると、腕のそこかしこに切り傷がある。


「あの女のせいで、玲子さんはおかしくなってしまった。玲子さんは私にも優しくしてくれた。いい人だったのに。あの女のせいで……縹くんも辛かったでしょう?」


怖い。これ以上刺激してはいけない、と俺の本能が告げていた。


「何を……言ってるんですか?」


「私の夫にも何度も手を出そうとしてた……あの女、玲子さんから航青さんを奪うだけじゃもの足らなかったんだわ」


母さんが浅葱の父親にも?母さんが親父を奪った?そんなはずはない……。そもそも親父と母さんが出会ったのは、俺の本当の母親が家を出たあとだ。


「母さんがうちに来たのは、親父が佐渡玲子と別れた後です」


俺がそういうと、淡子さんはキョトンとした顔をした。


「その離婚の原因が水本美代じゃない」


とても、軽く。

当たり前のような、みんなが知っている事実を述べるかのように、淡子さんは言った。


「え?」


「あの女が航青さんの子を身ごもったから」


にわかには信じられない言葉がその口から出た。

その瞬間、浅葱の手のひらが淡子さんの顔面を叩きつける。


「きゃっ!」


尻餅をついた淡子さんに、容赦なく馬乗りになって浅葱は淡子さんの頬を何度も殴る。


「あ、浅葱……!やめろ!」


俺は浅葱を羽交い締めにして、淡子さんから引き剥がす。


「な、んで?私に手をあげるの?」


淡子さんは呆然として、浅葱を見上げていた。


「私は……あなたの母親なのよ」


「……」


「娘が、母親に手をあげるなんて」


「悪いけど、私はあなたを母親と思ったことはない」


浅葱は今まで見たどんな目よりも冷たい目で淡子さんを見下ろしていた。


「あなたはただの女。男に醜く執着した女」


「……どうしてそんな酷いこと言うの」


「あなたは父さんを束縛したいだけ。父さんはあなたのことなんて見てもいないのに。繫ぎ止める、ただそれだけのために私を産んだんでしょう?」


浅葱は淡々と、母親を見下ろしながら言う。


「私も小さい頃は、あなたのことを母親として見ていた。でも、だんだんあなたが私に向ける感情の違和感は強くなった。娘としてではない、父さんを繋ぐ枷としか私のことを見ていない」


悲しみも、苦しみも全て捨て切ったような目で。


「醜い女。あなたの血が私の中に半分も流れているなんて、信じたくもない」


そう言い捨てると、浅葱は俺の腕を乱暴に掴んだ。


「行こう、縹くん」


浅葱に手を引かれ、玄関へと連れ出される。

家を出る間際、2階からは淡子さんのものであろう大きな、子どものような泣き声が響いてきた。





「大丈夫か?お母さん」


「ほっといたらいい」


浅葱は俺の腕を強引に引っ張ったまま、夜道を早足で歩く。


「でも……」


「あの人はいつまでたっても女なんだ。痛々しくて、気持ちの悪い……女」


「……」


「あの女の血が私に流れていると思うだけで、怖気が走る」


「……血か」


俺がつぶやくと、ハッとして浅葱が立ち止まる。


「こんな形で知ることになっちゃったね。本当は私の口から言おうと思ってたんだけど」


浅葱は目を伏せたまま、俺に向き直った。


「血、繋がってるんだよ。君たち」


浅葱の口から改めて聞くと、先ほど淡子さんが口走っていたことは、妄想ではなく真実なんだと実感した。


「……ははっ」


思わず、笑いが込み上げてくる。

意味がわからない。この1日で色んなことを知りすぎた。


「もう、何がなんだかわからないな。頭がパンクしそうだ」


つまり、心露は俺の父親・沓九航青と心露の母親・水本美代が不倫してできた子ども。

俺の本当の母親・佐渡玲子は何らかの経緯でそれを知り、心を病んだ。

離婚後、沓九航青は水本美代と再婚した。

家族を全て奪われた佐渡玲子は、その復讐として、水本美代を殺害した。


「半分血の繋がった兄妹でもあり、被害者の子と加害者の子でもある」


俺はボソリと俺と心露の関係を呟いた。


「すごいな神様って」


俺はまた笑った。もう笑うことしかできない。

このクソみたいな因果を。

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