第7話『アクアリウム』

「……兄さん」


居間で呆然と机の縁を眺めていたら、突然心露の声がした。顔を上げると青白い顔のまま、入り口にそっと立っている心露の姿が目に入った。


「心露、もう大丈夫か?」


「大丈夫。心配かけてごめん」


『ごめん』そんな言葉を言える子だったんだな。


「俺こそ、もっとはやく気づいていれば」


「兄さんが助けてくれたんだよね。浅葱に聞いた。ありがとう」


浅葱が気を使ってくれたんだろう。実際には俺は何もできなかった。


「俺は何もできなかったよ」


「そんなことない。兄さんが私を呼んでくれなかったら…あの時、母さんに呼ばれた気がしたの」


心露が無表情のまま、語る。


「呼ばれた?」


「突然目の前が真っ暗になって……」


「俺のせいだ」


「え?」


「俺が、お前に余計なこと思い出させたからだ」


「なんで、そんなこと」


「だって、そうだ。母さんと同じ場所で」


呪い。そんな言葉を使いたくはないが。

心露の深層心理に刻まれた、あの日の記憶が心露を呼んでいる。

怖い。もし心露が全てを思い出した時、自ら母さんのところへ向かう選択をしてしまうんじゃないか?


「……兄さん。言ったでしょ?私、思い出したい」


「ダメだ。忘れたままでいい」


「どうして?」


俺だって、忘れられるものなら、忘れてしまいたい。

あんな苦しみを、また味わうぐらいなら。ずっとそのまま、忘れたままでいたい。


「お前に、こんな苦しみ味わって欲しくない」


「……」


「ごめん。俺……もう明日帰るからさ。浅葱と仲良くやれよ」


「もう、来ないの?」


「そうだな」


「いや」


「……」


ふと顔を上げると、心露は強い目でこちらを見つめていた。


「帰らないで。私を置いていかないで」


「ダメだ」


「どうして、そんなに隠すの?私が耐えられないって、なぜ勝手に決めつけるの?」


「心露」


「だったら、兄さんはどうなの?兄さんだって辛いのに、どうして一人で抱え込もうとするの」


心露は淡々と俺に詰め寄る。


「違う。俺は……」


「兄さんは苦しかったはず。だから、ここに来たんだ。私が同じように苦しんでいると思ったから」


「違う」


「違わないよ。私と苦しみを共有したかったんだ。そうしたら少しは楽になれると思ったんでしょう?」


「違う!」


「……」


「俺は……お前と……!」


感情的になるな。

そう、俺の理性が告げている。

いっときの感情で、自分の心の中を吐き出してしまえば、二度とその言葉を戻すことはできないんだ。


「俺はお前と…家族として、一緒にまた暮らしたかっただけだ」


ふーっと息を吐く。

冷静にならないと。


「……」


「でも、お前は全て忘れていた。なら、もう新しい人生を歩むべきだ。俺や暗い過去なんて忘れて」


「兄さんは、それで私が幸せだって、そう思うの?」


「……ああ」


「バカなんだね、兄さん」


「な!」


「向き合わなくちゃいけないことから目をそらして、それで普通に生活したって、ちっとも幸せなんかじゃないよ」


「……」


「私ね。自分に兄がいるんだって知った時、本当に嬉しかった。私は一人じゃないんだって」


心露の表情は、ほとんど変わらない。

でも、その言葉が心露の本心なら……。


「たった一人の兄さんだから。お願い教えて。私も一緒に兄さんと苦しんでもいい」


俺と一緒に苦しむ?

家族として……?


「俺を……兄として認めてくれるのか?」


「当たり前だよ、兄さん」


心の中心がグッと熱くなった。


「……それに約束した。クラゲを観に連れて行ってくれるって」




錆びた窓枠から朝日が差し込むバス。1番後ろの席に腰掛ける。

乗客は俺たち2人だけだ。運転手もあくびをしながらハンドルを揺らしている。


「あの日はカレーだった。でも母さんがカレールーを切らしてて、俺と心露で買い物に行ったんだ。心露は買い物中、ずっと時間を気にしてた」


「どうして?」


俺は心露に、全てを話すことにした。

俺たちとの間にある、様々な思い出。そしてあの日、起こったこと。


「刑事ドラマの再放送が見たかったんだってさ。だからはやく帰りたくてしょうがなかったんだと思う」


「刑事ドラマ……」


心露がうーんと首を傾げている。


「で、お前がトイレに行くって言うから俺は会計済ませてトイレの前で待ってたんだ。でも、どれだけ経っても一向に出てくる気配がなくてさ、女子トイレに入るわけにもいかないから、店員さんに確認してもらったんだよ。そしたら、トイレには誰もいなくてさ」


「あー……」


心露が明後日の方向を向く。


「自分ならやりかねないと思ったか?」


「うん」


「まったく……根本の性格は変わってないんだな」


「……ごめん」


「ははっ、まさかお前に謝られる日がくるなんてな」


「謝るぐらいできる」


無表情のまま、怒りのオーラを醸し出す心露。


「いーや、お前は俺に謝ったことなんてなかったぞ!俺のアイス勝手に食った時も、『そこにあるのが悪い』って言ったんだ!」


「そんなちっさいこと」


「子どもにとってはおっきいことだ!」


「はいはい。ごめんなさい」


面倒臭いです。といったように心露は手をひらひらと振った。


「く……なんか腑に落ちない」


「それで、その後はどうなったの?」


「そうだな……、まぁ、俺は大荷物抱えて家までの長い坂を登ったさ。汗だくになりながらな。で、家についたら……」


「……」


「リビングには誰もいなくて、刑事ドラマを見ているはずの心露も、カレーの下ごしらえをしていたはずの母さんも……」


身体が熱くなる。息がつまる。

話すだけでも、あの時の感覚を鮮明に思い出してしまう。


「兄さん、大丈夫?」


心露が心配そうに俺の顔をのぞいている。


「……大丈夫だ。耳を澄ますと風呂場から水の流れる音が聞こえてきた。風呂場に向かったら、心露がそこに立ってて」


詰まりながらも、俺はあの日の情景をできるだけ言葉にする。


「俺が声をかけても、浴室を見つめて動かないから……」


「死んでたんだね、浴室で」


心露が言った。

俺に言わせないようにしてくれたのかもしれない。

ゆっくりと俺は頷いた。


「そうなんだ」


「かっこ悪いんだけど、俺その場で気失っちゃってあんまり覚えてないんだ。覚えてるのは、仰向けに横たわる女の人の裸体にシャワーの水が降り注ぐ光景」


「……」


「目を覚ました時には、家にたくさんの警察がいた。……実は、あの事件について俺は何も聞かされてないんだ」


「なにも?」


「ああ、葬式にも行ってない、葬式がされたのかどうかも定かじゃない。俺は自分の部屋から出られなかった。しばらくの間、学校にも行かずに引きこもっていたんだ。あの事件がニュースで報道された記憶もない。もしかしたら、父さんが報道を控えるように頼んだのかもしれない」


「父さんが、一体どうして?」


「父さんはテレビ局の人間だからな。報道に関してはちょっとぐらいなら抑えることもできたんじゃないかって」


「報道を抑えるって……それは、私たちを守るために?」


「きっとそうだと、思ってる」


「……わからない」


「え?」


「まるで実感がわかない……その話を体験したのが自分だなんて」


「そうか」


心露の記憶は、想像よりも固く閉ざされているのかもしれない。


「兄さん」


「ん?」


「兄さんは母さんが死んでるのを見て気を失ったんだよね?」


「……ああ、そうだな」


「私が帰った時間と兄さんが帰った時間、どれぐらいの差があった?」


「え?確か…30分とか?」


「私は兄さんが帰ってくるまでの30分間ずっと母さんの死体を見つめていたってこと?」


「……それは、お前にしかわからない」


「そう、私しかわからない。……でも、きっと私はその場で30分も棒立ちなんてしてないと思う」


「たしかに、そうかもしれないな」


あの日の心露の様子をハッキリと覚えてはいない。

だが、心露が帰宅してすぐにあの光景を見つけたとは、考えにくい。

もしかしたら……心露が帰ったとき、まだ母さんは生きていたんじゃないか?


「そもそも母さんの死因は何?」


心露が尋ねる。自分の母親の死因についてここまで掘り下げようとできるのは、心露自身にまだ実感が湧いていないからだろう。


「……知らない」


「風呂場で足を滑らせたとか?」


「一瞬見た光景は、頭が浴室の奥になる形で仰向けに倒れていた」


「後頭部を蛇口に打ち付けた?」


それが一番しっくりはくる。

だが、ハッキリ言葉にされると、まだその情景を受け止められない自分に気づいた。


「……やめないか、心露」


「どうして?」


「あんまり気分のいいものじゃない……親の死因を探るなんて」


俺がそういうと、心露は少し俯いた。


「そうだね。……でも、おかしいことが多いんだ」


「え?」


「事故だとしたら、なぜ父さんはそんなにまで母さんのことを縹に隠すのか、私たちを離そうとするのか」


「……」


「母さんは本当に事故死だったの?……もっと言えば」


「心露」


「死んだのは本当に私たちの母さん?」


その言葉にゾッとした。

考えもしなかったことだ。


「まさか……母さん以外に誰が」


「ちょっと疑問に思っただけ」


心露の言葉が胸に引っかかる。

本当にあれは『母さん』だったんだろうか?

もし仮に、『母さん』じゃないんだとしたら、あの日、死んでいたのは誰だ?

そして、『母さん』はどこに消えた?

もしかしたら。

父さんが、あの日のことを隠すのは、俺たちのためじゃないのかもしれない。

もっと、深く、複雑な事実が……。


「……いずれ知ることになるんだと思う」


「え?」


「俺がちゃんと受け止められるようになったら話すって、父さんが言ってたんだ」


「……」


「だからそれまでは……」


待つしかない。父さんが真実を語るまでは。



心露を連れてくる、という目的のためであって、自分が楽しむという発想はあまりなかったのだが、いざ水族館のゲートに着くと、子どもの頃のようにワクワクしている俺がいた。

先ほどまで深刻な話をしていたというのに、気分の切り替えができるのは我ながらすごいと思う。

チケットを買うために列に並ぶ。夏休みだからか家族連れが多いようだった。

俺が並んでいる間、心露はチケット売り場の横にある売店に行っていた。

高校生2枚のチケットを買うと、なんとなく感慨深いものがあった。

父さんや母さんに子ども2枚を買ってもらっていたときから、時間はいつの間にか進んでいたんだ。

当たり前のことだけど。



チケットを持って、心露が待つ売店に入ると、心露はキョロキョロと辺りを一生懸命に見ていた。

無表情のままだけど、楽しんでいるみたいだ。

まるで、世界を初めて見るかのような姿はあの頃よりも幼く見える。


「お待たせ。チケット買えたから館内行こうぜ」


「うん」


と、返事はしたものの心露は売店からなかなか離れようとしない。


「なんか欲しいものあるのか?」


「んー」


「なんでも買ってやるぞー」


俺は兄ぶりたくて、胸を張ってみた。


「これとかどうだ?」


俺は、アザラシの顔の被り物を掲げる。

心露は一瞬ちらっとこちらを見たがすぐに、興味なさそうに目をそらした。


「なんだよ。可愛いぞコレ」


「バカっぽい」


「ひっでー。アザラシさんが可哀相だぞ」


「兄さんには似合いそう」


「ん?どういう意味?」


「さあ」


心露が無表情のまま皮肉を言うのは、昔からだ。


「まあ、俺はアザラシよりもペンギンが好きなんだけどな」


「これ」


心露が掲げたのは小さなクラゲのキーホルダーだった。


「兄さん、これ欲しい」


「おークラゲか」


「綺麗」


「買ってやるよ。それだけか?」


「うん」


「もっと欲張ってもいいんだぞ」


「ううん。これだけでいい」


あいかわらず、やっぱり欲がない。




混雑を避けるためか、館内は一本道のルートになっているらしい。

ゲートをくぐると、すぐに上りのエスカレーターがあった。

エスカレーターで少し登ると、そこは真っ青な筒だった。

エスカレーターの上下左右、すべてが水槽で覆われており、色とりどりの魚たちが俺たちを囲むように泳いでいる。


「海の中にいるみたいだな」


心露に目をやると、やっぱり無表情だったが、丸くて大きな目はしっかりと青い水槽を写し、キラキラと光が揺れていた。



エレベーターを降りたところで、サメの被り物を被ったお姉さんに館内のマップをもらった。


「すげー、国ごとの海で展示が分かれてるんだってさ」


心露はじっと館内マップを見つめていた。


「クラゲ、遠い」


「せっかく来たんだからクラゲだけじゃなく、他も色々見ようぜ。俺、オーストラリアの海見たい!」


「オーストラリア……コアラ?」


「さすがに水族館にコアラはいないだろ」


俺たちはいろんな国の海の魚を見て回った。

エイや、ウミガメ、マイワシ、ベルーガ、アザラシ、オオサンショウウオ……。

中でも、南極エリアのペンギンは最高だった。

短い足でポテポテと歩く姿は可愛すぎて、永遠に見ていられる。

心露は呆れたように俺の裾を引っ張たので、しぶしぶ離れた。

館内には様々な人がいた。

夏休みの自由研究のためなのか必死で解説をノートに写している小学生や、少し離れたベンチに腰掛けてデッサンをしている大学生風の人。

カップルも多かった。

そういえば、側から見たら、俺たちはどう見えるんだろう。

ひょっとしたら、カップルに見えちゃったりしてたりするんだろうか?

そんなくだらないことを考えているせいか、何度か心露を見失いかけた。

心露は俺なんか気にも止めず、自由に自分の見たいようにスタスタと先へ進んでいってしまう。

心露を追いかけるのに必死になっていると、ふと大きな看板が目に入った。


「お、メインプールでイルカショーだってさ、観るか?」


声を掛けると、先に進んでいた心露は立ち止まり、くるりと振り返って戻ってきた。


「もう、終わってる」


心露に言われて、看板の横のスケジュールを見ると、ちょうど5分前に今日の最終公演が始まってしまったところだった。


「あーちょうど最後の回が始まっちゃったみたいだな……」


「別にいい。クラゲがみたい」


心露は、またもスタスタと先へ行ってしまう。

もしかしたら、ペンギンのエリアで時間を使いすぎたのを怒っているのかもしれない。

心露を喜ばせようとしたつもりが自分が楽しむことに夢中になってた。

ダメだな。

俺の自己満足で、心露を振り回したくないと思ったばかりなのに。

先を歩く心露が遠くなっていく。

俺は、そっと下を向いた。


「縹」


「?」


パッと顔を上げると、心露がこっちに戻ってきていた。


「こっち」


心露が俺の腕を引く。


「え?え?」


始めてだ。心露に腕を引かれるなんて。

いつもは逆で、俺が心露の腕を引いていた。

それが兄のすべきことだと思っていた。

それなのに、今は、妹に手を引かれている。

なんだこれ?嬉しくて、たまらない。


「これ」


心露は、ゲームコーナーの前で立ち止まった。


「ん?」


「ペンギン」


心露がゲームの景品を指差した。

そこには、綺麗にひな壇で整列した大小さまざまなペンギンのぬいぐるみたちが鎮座していた。

ゲームをしている子どもがこぶし大の球をぬいぐるみに向かって投げている。

どうやら球を投げて、ひな壇から落としたペンギンのぬいぐるみがもらえるゲームらしい。

単純だが、案外難しそうだ。

ぬいぐるみに当たったとしても、ひな壇から落とすにはなかなかの威力がいる。

それに、可愛いペンギンに向かって球を投げるのもちょっと気がひける。


「やったら?」


心露が俺を促すが、俺は首を横に振った。


「いや、いいよ。はやくクラゲ見たいだろ?」


「別に急いでるわけじゃない。ペンギンいらないの?」


「欲しいけど……」


「ならやったらいいのに」


心露に言われて、俺はゲームを管理しているらしきおばちゃんに500円を渡した。

なんであれ、心露が俺の手を引いて連れてきてくれたんだ。

取れなかったとしても、一回ぐらいはチャレンジしてみるのもありだろう。

おばちゃんはこぶし大のカラフルな球を3球渡してくれた。

500円で3球か。割とお高めだな。

いざ、投げようとしてみても可愛いペンギンに球をぶつけるのはやはり気が引ける。

もしかして、そういう商法か?

人の罪悪感に漬け込んで全力を出させない作戦か?

なら、ここは……。


「おらっ」


ひな壇の最上段、中央に鎮座する一番大きなペンギンを狙って球を投げる。

球はペンギンの腹に跳ね返って落ちた。

デカペンギンはビクともせずに、俺を見下ろしていた。

『落とせるものなら落としてみよ』

と、でも言っているようだ。

こいつなら、多少球を当てても罪悪感は湧きにくい。


「だあっ」


先ほどよりも強めに球を投げる。

だが同じように球は腹に跳ね返される。


「ラストか……とうっ!」


3球目の球もやはり、デカペンギンの腹に跳ね返された。

全敗だ。


「ド下手」


心露が冷たく言い放つ。


「う……。もういいよ。これ以上ペンギンに球をぶつけるのは可哀想だ」


「私がやる」


「え?」


心露の言葉に、思わず聞き返す。


「え?お前もやるのか?」


「うん。兄さん下手だから」


「いや、俺の中の良心が邪魔をして」


俺の言葉を聞きもせずに心露は勝手に俺の財布から500円を抜きとって、おばちゃんに渡していた。


「どれが欲しいの?」


心露はすでに球を構えていた。

非力な心露が落とせるはずもないのだが、なんだか頼もしい姿だ。


「1番、おっきいやつ……」


「わかった」


うなづく心露。

両手で投げるもんだと思っていたが、まさかの片手で大きく振りかぶった。

運動不足の引きこもりが放ったとは思えない速度だ。球は猛スピードでデカペンギンの顔面へと一直線に飛んでいく。

そして軌道はズレることなくデカペンギンの顔面に思い切り当たった。

デカペンギンの顔は球の圧力に変形してすっ飛ばされ、ぽとりと悲しく床に落ちた。


「嘘だろ」


俺も含め、周りに居合わせた人たちは唖然とした。

だが、パラパラと徐々に拍手が起こり始める。


驚いた顔をしていたおばちゃんも、フッと笑ってひな壇から落ちたデカペンギンを拾い上げ心露に手渡した。

心露の身長の半分ほどはある大きさだ。


「ん」


心露は興味なさそうに俺にデカペンギンを差し出した。


「くれるのか?」


「そのためにやった」


まるで彼氏にぬいぐるみをとってもらった彼女の気分だ。

俺は、心露からデカペンギンを受け取る。

しっかりと重量があって、触り心地もふわふわしている。

今日はこいつと一緒に眠ろう。

デカペンギンのもふもふの腹に顔を埋めているうちに、また心露はすたすたと先へ行ってしまった。


「よかったね。お兄さん」


特賞を取られたのに、機嫌がよさそうなおばちゃんに背中をバシバシと叩かれる。


「へへっ。ありがとうございます」


「妹ちゃんに感謝だね」


おばちゃんがそう言った。俺はその言葉に引っかかる。


「え?」


「ん?どうしたんだい?」


「妹だってわかります?」


「違うのかい?顔似てるからそうかと思ったんだけどねぇ」


顔が似てるはずなんてない。だって、俺たちは血が繋がっていないのだから。


「兄さん、はやく」


そうだ。心露に話さないと。俺たちのこと。


「楽しんでねぇ」


「はい!ありがとうございます!」


おばちゃんに手を振って、その場をあとにした。




デカペンギンを抱えて次のフロアへと続く通路を心露と歩く。

暗い通路が終わり次の水槽が見えた。


「!」


ふわふわと逆らうことなく浮力に身をまかせる者たちの水槽。


「心露、クラゲだよ」


「クラゲ……」


何千匹ものクラゲの水槽を見上げる心露の瞳に水の光が反射する。


「俺たちが出会ってから、初めて家族で遊びに行ったのが、水族館だった。そこで、心露は今と同じようにクラゲに心を奪われて水槽の前から離れなかった」


「……え?」


心露が不思議そうに俺を見て首を傾げた。


「初めて出会った……?どういうこと?」


俺は優しく、微笑むことができているだろうか。


「心露。お前にもう一つだけ言わないといけないことがあるんだ」


「……聞きたくない」


何かを察したのか、心露は俺に背を向けた。

でも俺は言う。すべて話すと決めたから。


「俺たちは本当の兄妹じゃない」


心露は背を向けたままピクリとも動かない。


「親同士の再婚で兄妹になっただけで、血が繋がっているわけじゃないんだ」


心露はこちらを振り返ろうともしない。クラゲを見つめ続ける。


「黙っててごめん」


「似てると思った。でも、勘違いだったんだ」


「ああ」


「そっか」


「だけど、例え血が繋がっていなくても、俺がお前の兄であることは変わらない。母さんがいないとしても、お前は俺たちの家族だ。それを伝えたくてここまで来たんだ」


「……」


「戻ってきて欲しかった。俺たちの家に」


「家族……」


心露が振り返った。


「ありがとう、兄さん」


「心露」


「血が繋がってなくても、私を妹として、家族として迎えてくれるの?」


「当たり前だ」


「……母さんがいなくなったあとの私が、何を思って家を出たのか、今の私にはわからない。でも……私、兄さんたちと一緒に暮らしたい」


また、目頭か熱くなる。

ずっとその言葉が聞きたかった。

心露の口からその言葉を。


「ああ、戻ってこい。一緒に暮らそう」


「うん」


もう一度、家族になろう。

例え、強いつながりがなくても。

年頃の女の子に対して少し躊躇ったが、俺はそっと心露を抱きしめた。


「帰ろう、家へ」


「……」


「心露?」


抱きしめた心露はピクリとも動かない。


「……あ」


ドンッと胸に衝撃が走り、後ろへ突き飛ばされた。


「いてっ」


「……あ、あ」


「心露?」


心露は、頭を抱え小さく唸る。


「おい!大丈夫か?」


「……は」


心露がパッと顔を上げて俺を見た。

その目は、先程の『兄に向ける目』ではなかった。


「縹……?」


恐ろしい化け物を見たような、恐怖に染まった瞳だった。


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