第6話『傷』

微かなベッドの揺れに目を覚ます。

暗闇の中で航青がスーツに着替えていた。


「行くの……?」


「ああ。起こしたか、悪いな」


「ううん。……大変ね」


「その分やりがいもあるよ。じゃ、行ってくる」


「行ってらっしゃい」


航青が玄関のドアを閉める音が響く。

再び目を閉じる。まだ眠い。




けたたましいアラームの音に目を覚ます。

このアラーム、少し音が大きすぎる……はやく買い替えないと。


「ふぁあ」


ソファに座りテレビをつけると、バラエティ風の情報番組が流れだした。

明るく芸能ニュースを読み上げているのは先ほどまで隣で眠っていた航青だ。

アナウンサーというのは大変な仕事だな、と思う。

この朝の時間に放送される番組のために、深夜に出社しなければいけない。

寝不足だろうと、体調が悪かろうと、全てを隠して笑顔で健康的なキャスターを演じる。


「次は今月末公開予定の映画……」


すごいなぁ、彼は。

航青と付き合い始めてもう5年も経った。

今では、当たり前のように隣にいる存在だ。


「さて実は今日、特別ゲストをお招きしております!映画のヒロインを演じ、今人気絶頂の女優さんです!」


ワッとスタジオが湧く。

今日のゲストが誰かなんて、みんな知っているくせに初めて聞いたかのような驚いた反応。


「佐渡玲子さんです!どうぞ!」


航青の合図に合わせて、赤いカーテンの中から、すらりと長い手脚を携えた、女優が会釈をしながら登場する。

拍手と歓声に包まれるスタジオ。航青も笑顔で拍手している。


「最近この子、売れてるなぁ」


ハッキリとした目鼻立ちに抜群のスタイル。

芸能人になるべくして生まれてきたような存在。

最近よくテレビで見かける売れっ子女優だ。


「やっぱり、こう、オーラが違いますね!佐渡さんはモデル出身なんですよね」


「はい。そうなんです。映画の主演はこれが初めてで……」


航青が女優に話を振っていく。女優はシャキッと背筋を伸ばして椅子に浅く腰掛けている。座っている姿も、ふと髪をかきあげる仕草でさえ、一挙手一投足、全てが美しい。

言葉もハキハキとしていて物怖じする様子もない。


「それにしてもお美しい脚ですね」


本当に綺麗な脚だ。土なんか踏んだことも無いような。青いハイヒールもその脚の美しさを際立たせている。

私は自分の脚を見下ろして、ため息をついた。





「沓九先生は、今日帰ってくるんだっけ?」


「ううん。学会が終わるのは今日だけど、今夜は向こうに泊まるらしいわ。明日帰ってこられるんじゃないかしら」


沓九先生の研究室には、私と泉谷君の二人だけだった。初めの頃は、埃臭くて苦手だったこの研究室も、いつの間にか構内で一番落ち着ける場所になっていた。

大学院に進学し、大学所属の研究院となった私たちは研究の合間や暇な日に、目的もなくここに集まり、たわいもない話をしては、時間を潰す。


「そっか。……そういえば、どうなんだ最近、航青とは?あいつ仕事忙しいみたいだけど」


「うん。一緒にゆっくりする時間はなかなかとれないかな」


「まぁ、あの業界は労働時間帯が普通と違うからな」


今ここにいない航青に同情の目を向ける泉谷くん。


「わかってる。……少し寂しいけど文句は言わないって決めてるの。あの人が心から仕事に向き合っているのは知ってるから」


航青の選んだ道の邪魔はしたくなかった。

私を理由に何かを諦めるようなことは、彼にはして欲しくないのだ。

彼と付き合うことになった日にそれは告げた。

『私のために何かを諦めることは絶対にしないでほしい』

それは、両親の話を沓九先生から聞いた時から決めていたことだ。


「お前は、航青にワガママとか絶対言わないよな」


「うん。航青を縛りたくないから」


「いい女だよ。お前は」


泉谷くんは照れることもなく、サラリとそう言った。


「そんなことないわ」


「ただ」


「?」


「縛りたくないっていうのは、相手に『興味がない』ってことでもあるのか?」


「え?」


「そう思われても、仕方がないとは思うよ」


泉谷くんはグッと背伸びをしている。


「どういうこと?私が航青に興味ないって?」


「そうは言ってない。ただ、そう思われても仕方がないとは思う」


泉谷くんがそんなことを言うのは珍しい。


「そんなこと……私は航青の重荷になりたくないだけなのに」


「重すぎるのは問題だけどさ、軽すぎるのも良くないんじゃないか?邪魔をしたくないっていう気持ちもわかるけど。空気としてそこにいるだけなら、恋人である意味ないじゃないか」


「……」


何も言えなかった。

航青の夢の邪魔をしないように。

ただ、それだけを意識して彼と付き合ってきた。

でも、それは航青に対して何もしてこなかったのと同じことだ。

私は、航青に対して、何をしてきたんだろう……?

何も、思い出せない。ただ一歩引いて、彼の横を歩いてきただけ。

それで、彼を支えているつもりになっていた。

航青は、私なんかがいなくても、歩いていけるのに。

なら、私が彼と一緒にいる意味は……?


「……よし!今日は二人でパァっと飲みでも行くか!たまには弾けるのも必要だろ?」


泉谷くんが急に立ち上がった。

暗い顔をしていた私を気遣って、わざと明るい声を出してくれたんだろう。

航青と3人で飲みに行くことは何度かあったが、泉谷くんと2人で飲みに行くなんていつぶりだろう。


「私は別にいいけど。……淡子ちゃんはいいの?」


泉谷くんに最近できた年下の彼女。

彼女に知られたら……ちょっと面倒くさいことになりそうだ。


「あぁ、大丈夫。大丈夫。あいつも今、卒論で忙しいみたいだし」


「……それなら」


行きたい。そう言いかけた時、研究室の扉がドンドンドン叩かれた。


「はい」


返事をすると扉が開き、小柄な女の子が顔をのぞかせ、キッと私を睨みつけた。


「……あ、淡子。どうしたんだ?」


「先輩、どこにいるかなって思って……やっぱりここにいた」


泉谷くんの彼女である淡子ちゃん。

私は彼女に、好かれていない。

泉谷くんと仲良くしているのが気に入らないのだろう。いわゆる嫉妬だ。

泉谷くんからは、何度も私たちはただの同期の関係だと伝えているようだが、一向に私に対する警戒が解かれる様子はない。


「今日、あと一限で授業終わるので、一緒に帰りませんか?よかったら、そのままご飯でも」


「あー、悪いな。今日は……」


泉谷くんが断ろうとするが、今はその判断はよくない。


「あー!あー!私、沓九先生に頼まれてた仕事忘れてたわ。今日中にやらないと!」


らしくない大声で泉谷くんのセリフを遮り、その辺の資料を探って忙しそうなフリをする。

わざとらしかっただろうか?

こういうのは、やっぱり向いていない。


「……わかった。あと一限待ってるよ」


泉谷くんは私の意図を察してくれたらしい。


「はい!」


淡子ちゃんは微笑んで、泉谷くんに手を振ると研究室を出て行った。扉の締まる巡回、最後にキッと私のことを睨む。

彼女の足音が消え、ほっとため息をつく。最近ため息ばかりだ。


「悪いな」


泉谷くんが両手を合わせる。


「いいのよ。誤解されても、よくないし」


「いつから扉の前にいたんだろう……」


確かに気づかなかったが、しばらく私たちの会話を外で聞いていた可能性もある。


「それだけ、泉谷くんのことが好きなのね」


「ははは……笑えないな。やっぱり、女は重すぎない方がいいよ」




テレビ局のロビーは綺麗に床が磨かれていて、足音が響きやすい。


「悪いね。付き合わせてしまって。本当は航青に案内してもらおうと思ったんだが、どうも収録の時間帯が悪いらしくてね。かと言って、一人じゃ何かと不安だし」


「いえ、お役に立てて嬉しいです。十二階のスタジオらしいですね。……どんな取材なんですか?」


沓九先生は業界では有名人だから、専門家としてテレビに出るような仕事も少なくはない。

幼い頃の航青は、沓九先生の出演するテレビ番組の収録によくついてきていたらしい。

それをきっかけにテレビ局の仕事を知り、この業界を目指すようになったんだと、照れ臭そうに語っていた。


「子ども向けの科学番組らしくてね。私も詳しくは聞いてない。いや、説明された気もするが覚えてない」


「……それ、大丈夫なんですか?」


この人はそういう細かいところが抜けている。

先生の大雑把ぶりには、いつも迷惑を被っているのでいい加減慣れてきた。


「ま、大丈夫だろう」


先生はヘラヘラと笑いながらエレベーターのボタンを押す。


「あれ、親父……それに美代、なんで?」


突然後ろから名前を呼ばれたので振り向くと、そこにはいつもテレビで見るような姿の収録用スーツを着た航青が立っていた。

収録終わりか、これから収録なのかはわからないけれど、テレビに映る姿の航青を生で見るのは初めてだった。

自分の恋人だというのに、なんだか芸能人に出会ったような気分だ。


「おお、航青。この前話しただろう、子ども向けの科学番組に呼ばれたって。収録が今日なんだ」


「ああ!そうだったのか。悪いな、案内できなくて。……美代も?」


航青に話しかけられるが、なんだか照れ臭くなって少し目を逸らしてしまう。


「…私は先生の付き添い」


「一人じゃ寂しいからな」


ワハハと沓九先生が豪快に笑う。


「先生一人だと迷子になるから」


「うむ」


先生は力強くうなづいた。

そこはプライドを持って、否定して欲しかった。


「親父、美代に頼りすぎだろ」


航青は呆れたように笑った。


「美代くんが優秀すぎるんだ」


「美代は親父の秘書じゃねぇぞ。たまには、断ったっていいんだから」


「いいのよ。むしろ先生1人にする方が心配で眠れないから」


「まるで、お母さんだね。はっはっは」


また豪快に笑う先生を、不思議そうに見る通りがかりのスタッフたち。


「笑ってんじゃねぇよ、ダメ親父……」


そうこう話しているうちにエレベーターが到着した。扉が開き、私たちは乗り込む。


「何階?」


ボタンの前に立った航青が尋ねる


「えーと」


「12階」


沓九先生が思い出せなさそうだったので、私が答える。


「ほいよ」


エレベーターが上昇する。

途中5階で止まり、扉が開くと、サングラスをかけた女性が乗り込んできた。


「……あ、沓九さん!おはようございます」


サングラスの女性は和かに航青に挨拶した。


「え?」


先生が反応する。


「……え?」


それに対して女性も疑問の声をあげた。


エレベーター内で、はてなマークが交差する。

女性は、航青に挨拶したのだが、天然な先生が自分のことだと勘違いしたらしい。


「あ!玲子ちゃん。おはよう」


「あぁ、航青のことか……」


航青が女性に返事をしたことで、先生は自分が挨拶されたわけではないことに気がついたらしい。


「???」


だが、女性は不思議そうに先生を見つめている。


「これ、俺の親父なんだ」


航青が親指で先生を指す。


「あっ!そうなんですね!すみません……紛らわしい呼び方をしてしまって」


女性がサングラスを外した。

その顔には見覚えがあった。

テレビでは何度も見たことがあるが生で見るのは初めてだ。


「佐渡玲子と申します。航青さんにはお世話になっています」


「ほー、こりゃまたべっぴんさんだなー」


先生も見惚れていたが、私も見惚れていた。

テレビでもオーラはあったが、やっぱり生で見ると次元が違う。


「やめろよ、親父。女優さんなんだから変なことすんなよ?」


「せんわい」


「あはは」


くったくない笑顔も本当に綺麗な人だ。

人を惹きつけるオーラがあり、表情は自信に満ち溢れている。


「……?」


あまりにジロジロと見すぎてしまった。

佐渡玲子は目線に気づいたのか、私の顔をジッと見つめ返す。


「……」


私の顔を見つめたまま彼女は何も言わないので、自分の顔に何かついているじゃないかと不安になってくる。


「えっと……何か?」


美人から向けられる目線に耐えられず、私の方から口を開いた。


「綺麗」


「え?」


佐渡玲子は私の顔をずっと見つめ続けている。


「タレントさんですか?」


「へ?」


思ってもいなかった言葉に、素っ頓狂な声が出てしまった。


「ぶはっ」


航青が吹き出した。


「違うよ、玲子ちゃん。美代は俺の親父の付き添いできた大学の研究院」


「あ!そうなんですね。研究院さん!すごい……頭いいんですね!」


彼女はパッと目を輝かせて私の手をぎゅっと握りしめた。


「いや……そんなことは」


急に手を握られてたじたじになってしまう。


「あ、ごめんなさい急に。えっと……美代さん?」


「……はい」


まじまじと私の顔を見つめる佐渡玲子。


「失礼ですが、お化粧とかは?」


お化粧?なんで急に化粧のことを聞いてくるんだろう?

私は肌が弱く、化粧をするとすぐに荒れてしまうため、よっぽど重要なことがない限り、肌に何かを塗るのは避けていた。


「化粧品は肌にあわなくて……」


「え!ノーメイクで、そのお肌なんですか?すごく綺麗!ケアとか、どうしてるんですか?」


ケア?そんなことほとんどしていない。


「特には何も」


「嘘でしょ!じゃあ、食事習慣とか?」


食事習慣なんかも気にかけたことはない。


「……主食は大抵カップ麺です」


「えー!なんで、なんで?神様って不公平!こんなに綺麗で、しかも頭もいい女の人がいるなんて!」


佐渡玲子は私の顔を隅から隅まで見ながら、嘆いている。


「そんな……あなたの方がよっぽど綺麗です」


「あははっ。私は化粧厚塗りしてこの顔ですから!すっぴんなんて見れたもんじゃありませんよ」


佐渡玲子は、気取った様子もなくケタケタと笑う。

エレベーターが10階に着く。


「あ、私ここで降りなきゃ!」


彼女は慌ててエレベーターを降り、私たちに手を振った。

嵐のような女性だった。


「……」


「女優さんにベタ褒めされるとは、さすがだな美代くん」


ふんふんと得意気に沓九先生は頷いている。


「いや……お世辞でしょう」


「あの子はお世辞言わないタイプだよ。私生活からあんな感じなんだ。感じたことは正直に言う。飾らずに。……なかなか、人懐っこい子だろ?」


航青が和やかに彼女について語る。


「……そうね」


芸能人というのは番組内ではキャラに徹していても、外では気取っているイメージがあったので意外だった。


「ああ見えて、実は子ども時代に苦労してきたらしいんだよ。それでも、明るく振舞ってる。有名になっても、傲慢になったりしない」


「できた子だね」


先生が呟く。


「うん。……すごい女性だよ」


ふと、そう呟いた航青の横顔を見る。

……見なければよかった。

私はうつむき、ぎゅっと自分の袖を握る。

なんだろうこの気持ちは。




ものすごい物音に驚いて目が覚めた。

ガラスの割れる音だ。

そして、ママの泣き声。


「……ママ?」


リビングの床にはガラスの破片が散らばっていて、その中心でママはうなだれていた。


「ママ!危ないよ」


「縹?」


「どうしたの?」


ママはぼんやりと俺を見つめる。その目の下には濃いクマが浮かびあがっていた。


「私、裏切られていたみたい」


「え?」


「みんなみんな、嘘ついてたの。私だけ何も知らなかった。結局みんな、あの人たちと同じ。私のこと愛してくれない」


虚ろな目で、淡々と呟くママ姿に恐怖を覚える。


「ママ……ガラス危ないよ」


俺はガラスを避けてママに近寄ろうとした。


「近寄らないで!」


ママのけたたましい叫びに、進む脚をとめた。


「嘘つき」


「俺は嘘なんてついてないよ」


ママの肩に触れようと、もう一度近づく。


「触らないでよ!」


そう叫ばれた瞬間、身体を突き飛ばされた。

いきなりのことで、俺は身体をかばうこともできず、割れたガラスの上に転倒した。


「いた…痛いよ、ママ」


腕にいくつものガラスの破片が刺さっている。

少量の血がポタポタと床に落ちた。


「全て捨てたのに、あの人のために。子どものために、なのに……」


「何してる!」


父さんが慌ててリビングに駆け込んできた。


「縹!」


床の血を見て、父さんは俺に駆け寄った。


「家族のふりなんかして」


母さんがスラリと立ち上がる。

その手には大きなガラス片が握られている。


「やめろ、落ち着くんだ」


父さんがママの腕を掴む。


「縹!向こうにいってなさい!」


俺は震えながら父さんの言葉に頷き、階段を駆け上がる。

部屋にいても、リビングからはママの叫び声が響いてきていた。


「こんなことなら子どもなんて…産まなければよかった!」




朝、リビングで父さんは1人頭を抱えていた。


「……父さん?」


「ああ、縹……おはよう」


俺を見て作り笑いを見せる父さん。

だけど父さんの顔は疲れ切っていた。

部屋はどことなくいつもより広く感じる。


「……ママは?」


俺の問いかけに父さんは首を弱々しく振った。


「ママはな。病気になっちゃったんだ。全部、父さんが悪いんだ」


父さんはうなだれたまま、動かない。


「ママはな……もう、ママではいたくないんだって」


「……?」


「だから、もう。ママは……この家には戻ってこない」


子どもながらに理解した。

ママは俺を捨てたんだって。

俺のために全てを捨てたママ。そんなママが俺を捨て、去っていった。





「縹!ちょっと降りて来なさい」


ママが俺を捨てていなくなってから数年が経った。

自分の部屋で夏休みの宿題をしていると一階から父さんに呼ばれた。

なんだろう?

部屋を出て、階段を降りると、玄関先に父さんと雪のように白い肌をした綺麗な女の人が立っていた。


「はじめまして縹くん」


女の人が、俺に微笑みかける。

雰囲気はまるで絵本に出てくる優しい王女様のようだった。


「……はじめまして」


俺は少し緊張しながら挨拶を返した。


「縹、大事な話があるんだ」


父さんが真面目な顔でそう言った。


「大事な話?」


「そう。あ、その前に」


女の人の後ろを見る父さん。


「ほら、心露。隠れてないで、縹くんに『はじめまして』しなさい」


女の人が背後に語りかける。

すると、その背中に隠れていたのか、ひょこりと小さな女の子が顔を覗かせる。


「……はじめまして」


「はっ、はじめまして」


女の子はすぐに女の人の背後に隠れてしまった。

少ししか顔は見えなかったが、女の人とよく似た顔立ちをしていた。

きっとこの人の娘なんだろう。


「恥ずかしがりやなんだから」


くすくすと女の人が笑う。


「縹、今日から新しい家族になるんだ」


父さんが膝をつき、俺と目線を合わせてそう言った。


「家族?」


「そう。ママだよ」


「ママ?」


ママ?父さんはこの綺麗な女の人のことを言っているんだろうか?

俺は、自分の記憶のママと女の人を比べた。


「お母さん」


「お?そうだな。もうその年になったら、さすがに『ママ』は恥ずかしいか」


父さんはそう言って笑った。

女の人も優しく微笑んでいた。

『ママ』と呼ぶのが恥ずかしかったのも本当だ。

今時クラスで母親のことを『ママ』なんて呼んでいたら、『まざこん』だと、からかわれてしまう。

だけど、それだけが理由じゃなかった。

もし、この人を『ママ』と呼んでしまったら、前の『ママ』は俺の中から本当にいなくなってしまうんじゃないかと思ったんだ。


「父さんたちはちょっとお話があるから、縹は心露ちゃんと遊んできてくれるか?」


「……え?あ、うん!」


「ほら、心露。縹くんに遊んでもらいなさい」


近寄って顔を覗くと、女の子はプイッと反対を向くので、また反対に回って顔を覗く、するとまたプイッと反対を向く、また同じことの繰り返し。


「何歳?」


「……ななさい」


俺が尋ねると女の子は反対を向いたまま答えた。


「俺のがお兄ちゃんだ!」


「……」


「ふふふ。そうね……ほーら、お兄ちゃんと遊んできなさい」


女の子はお母さんの背中にぴったりとくっついたまま離れようとしない。


「セミ捕りにいこうよ!少し行ったところの雑木林にいっぱいいるんだよ」


俺はなんとか、女の子の気をひこうと明るく話しかける。


「セミ……嫌い」


「ほら、行こう!」


俺は少し強引にその手を引いた。

しっかりくっついていたように見えた女の子の身体は、意外にも簡単な力でお母さんから離れた。

嫌そうな顔をするその子の手を引いて、俺は夏の日差しが射す方へと駆け出した。



心露と…そして母さんとの初めての出会い。

母さんは血が繋がっていない俺を本当の息子のように大切にしてくれた。

毎日美味しいご飯を作ってくれた。ケガをしたら、優しく手当てをしてくれた。

前の母のことはもう思い出せもしない。

たとえ血が繋がっていなくても、今の母さんと心露は本当の家族なんだ。




「子どもなんて産まなければよかった」


顔も忘れた本当の母親。

なのに、その言葉だけは、今でもずっと忘れることはできずにいる。

俺が産まれなかったらママは幸せでいられたのだろうか?


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