第5話『パズル』

血の繋がりというのは、とても大きな鎖だ。

ある者にとってそれは、かけがえのない大切な繋がりで、絆なのだろう。

また、ある者にとってそれは自分を縛りつける重い枷となる。

私にとっての血は、後者だ。17年間、血に縛られ続けている。私の中にはあの母親の血が流れている。呪いのように。



私の血は決して、優秀じゃなかった。それを教えられたのは、物心ついて間もない頃だ。

客間では、父さん、そして沓九先生と航青おじさんが仲良くおしゃべりをしていた。

私はその隣で沓九先生の作ったキューブ型のパズルを解こうと必死になっていた。


「難しいか?」


沓九先生が優しく私に問いかける


「……うん、できない」


「親父が作ったパズルか?それは、難しいだろうよ」


航青おじさんはそう言って笑っていた。


「ははは。浅葱もまだまだだなぁ」


父さんが私の頭をぽんぽんと叩く。

全く解けないパズルを前に私は涙目になっていた。

昔から、すっきりしないものが嫌いだった。

夜もそのことを考えて眠れなくなるから。


「大丈夫だ。おじちゃんも全くできないからな」


そう言って航青おじさんは私の頭を撫でた。


「航青はバカだからな」


「なっ」


父さんが航青おじさんの肩に手を置き、やれやれと言った様子で首を振ると航青おじさんはムッとした顔をした。


「我が息子ながら、恥ずかしい」


沓九先生がこめかみを抑える。


「先生の血をひいてるのに、数学は全くできないし」


大きくため息をつく父さん。


「そもそも、数学になんで英数字が出てくるんだよ」


反発するように航青おじさんは肩に置かれた父さんの手を振り払った


「もう喋るな。頭が痛い」


沓九先生はこめかみを抑えながら目を閉じて唸っている。


「ははは。そういえば縹くんは?」


父さんが尋ねる。


「ん?あれ?さっきまでここにいたはずだけど……どこ行ったんだ?」


全員がキョロキョロと回りを見回すが、縹くんはどこにもいなかった。大人たちの会話に飽きて、いつのまにかどこかへ遊びに行ってしまったんだろう。


「ま、そのうち戻ってくるだろ」


航青おじさんがそう言った瞬間、バンッと扉が開き、虫捕り網を持った縹くんが現れた。


「見て!セミ!」


得意気にセミを掲げる縹くん。


「おいおい。部屋の中まで持ってくるなよ……」


航青おじさんが呆れたように縹くんを叱る。


「はははっ。やっぱり親子だな」


腹を抱えて父さんは笑っている。


「縹。かわいそうだから外に逃がしてあげなさい」


「ちぇっ……はーい」


縹くんは沓九先生に言われた通り、窓を開けてセミを離した。そして、その去っていく姿に手を振る。


「縹くん、どこに行ってきたの?」


「裏庭!」


父さんが尋ねると、縹くんは大きな声で答えた。


「そういえば、裏庭の木はセミがおびただしいほどいたなぁ……幹の模様が動いてるのかと思ったら、全部セミで……」


航青おじさんの言葉を想像して私は身震いした。


「大袈裟すぎだろ」


「いや、ホントだぜ?」


大人たちはまた談笑を始めた。私はもう一度パズルに向き合う。


「何してんの?」


唐突に背後から縹くんに話しかけられ、どきりとした。

ソファの背もたれにぶら下がって私の手元のパズルを見ている。


「……パズル」


「パズル?かして!」


「いいけど……」


縹くんにパズルを渡すと、鼻歌を歌いながらいじり始めた。

沓九先生のパズルだ。そんなに簡単に解けるはずもない。


「できた!」


「……え?」


「おっ?縹、できたのか?」


縹くんの得意げな声を聞いて、沓九先生が寄ってくる。

縹くんの手にあるのは確かに完成形のパズルだった。


「へへへっ」


得意気に胸を張る縹くん。

私は唖然として縹くんを見つめていた。

そして、視線に気づいた。冷たく痛い視線。

父さんの視線だ。


「……やっぱり、沓九先生のお孫さんは違いますね」


父さんの言葉は、私に向けられていた。


沓九家は代々優秀な学者が多かった。

父はその才能に焦がれ続けていた。

そして、私にも沓九より優秀になるよう言い聞かせていた。そのために私は、勉強も頑張ってきたしクラスではいつも1番の成績だった。

血は鎖だ。

私に沓九の血が流れていたら、どれほどよかっただろうか。



あたりは大分暗くなっていた。家の扉を開けると鍵はかかっていなかった。玄関は暗く、リビングからは蛍光灯の光と怒声が漏れてくる。

またか。


「ただいまー」


リビングに足を踏み入れた瞬間、頭の真横をワインボトルが勢いよく通過し壁に当たって砕け散った。


「危ないなー」


部屋では父と母が言い争っており、母は父に掴みかかっている。二人とも、私の存在には全く気づいていない。


「はぁ……」


ため息をつく。

台所から袋を持ってきて、割れたワインボトルをさっさと片付ける。


「どうしてよ!なんで、あの子のためにそんなにするのよ!」


母さんの金切り声が頭の中に突き刺さる。


「仕方ないだろう!沓九先生が亡くなって……」


父さんは母さんを宥めるのに必死だ。

どうせまた、父さんが母さんの地雷でも踏んだんだろう。


「沓九先生、沓九先生ってあなたはいつもそう!神様だとでも思ってるの?そもそも、沓九先生を理由にしてるだけでしょう!」


「女の子一人なんて放って置けないだろう!」


母さんが掴んでいる父さんのシャツは、ブチブチと音を立ててボタンが千切れていく。


「……ホントはあの女の子どもだから。私、嫌いなのよ!あの女の目が!態度も!いつも私のこと見下して!」


「それはお前の思い込みだって何度言えば……」


「うるさいっ」


母がワイングラスを床に叩きつける。

2人が言い争う日常の光景を眺めながら、シンクに溜まっている食器を洗い終えリビングを後にして風呂場へ向かった。


緩いシャワーが全身を包む。汗が流されていく。

女は感情的でいやだ。そう思う。

でも自分も女で、あの母親と同じ血が流れている。

父ははじめから母を愛してなどいなかった。

沓九のような優秀な脳を持っていなくてもそれぐらいわかる。

なのに、母はそれを受け入れようとしない。

みっともなく父に執着して、無様だ。



シャワーを終えて、リビングの前を通るともう怒声は消えていた。私は玄関に向かう。少し遅くなったが沓九邸に向かおうと思った。

靴を履いていると、背後に人の気配を感じた。


「どこに行くの、浅葱」


いつもより、少し低い母さんの声。


「あの子のところ?あんたまで、あの女に囚われているの?」


「……」


「どこに行くのよ」


ああ、刺激してはいけない。なんとか上手く言い訳を考えないと。


「塾だよ、母さん」


「塾なんて行かなくてもいいわ」


「そういうわけにも行かないよ」


「別に勉強なんてできなくてもいいじゃない」


母はこういう人だった。一度も私に勉強をしろなんて、言ったことはない。父さんとは何もかも反対だ。


「あの人の言うことなんか聞かなくっていいわ。今日は母さんと一緒にご飯でも食べに行かない?」


「……」


「浅葱……」


背後から抱きしめられる。

ゾッとした。

人間臭い生温かい体温が背中を這う。

嫌悪感しか湧かない。

私は、できる限りの穏やかさを装いながら、母の抱擁をふりほどいた。


「今日は友達と食べるから」


「浅葱!」


母の叫びに、私は振り返ることなく玄関のドアを開け、足速に沓九邸へと向かった。





「あと一回分ぐらいかな……」


おそらく20杯目の湯を沸かし始める。

これでも到底足りないだろうが、冷水を浴び続けるよりはマシだ。


「心露。大丈夫か?」


駄菓子屋から帰って来てからというもの、心露はずっとソファに横たわっていた。冷水で浸したタオルを額に乗せ、一言も口をきいてくれない。


「悪かったよ。まさか、あれぐらいでバテるなんて思わなかったからさ……」


横たわる心露の隣に座り、駄菓子屋で買ったヨーグルの蓋をあける。


「……」


心露がゆっくり身体を起こした。


「おっ、ヨーグル食べるか?」


「……」


こちらの声には反応せず、ぼんやりと虚空を見つめている。


「おーい?心露?」


「……ヨーグル」


「おう。ヨーグル。小さい頃さ、よく食べたんだ。おこずかいもらって2人で駄菓子屋まで買いに行って。10個買うと1個オマケしてくれた。懐かしいな」


「……」


「でも、11個って奇数だからそのオマケの1個が取り合いになって……結局母さんにあげるっていう」


俺はスプーンでヨーグルをすくい、心露に差し出す。心露はそれを一瞥するが受け取らず、じっと俺の顔を見つめる。


「なんだよ。いらねぇの?じゃあ、俺が食うから。……んっ!うめぇ」


「……」


「久々に食ったなぁ」


「……ねぇ」


「ん?」


二口目を食べる。


「……おふろ」


「え?」


「音がする。……シャワーの音」


「え?シャワーは出してないはずだけど?」


どさっと何かが落ちる音がした。

びくりとして音のした方を見ると、浅葱が唖然とした顔でこちらを見つめている。

足元には学生鞄が落ちていた。


「おう、浅葱」


「顔色が悪い」


ボソッと浅葱が言う。


「え?」


浅葱は俺を無視して一直線に心露の元に駆け寄ると、眉をひそめて心露の顔を覗き込んだ。


「ああ、ちょっと夏バテ気味なんだ」


「夏バテ!?」


今までで聞いた中で一番大きな浅葱の声。


「少し外に出て散歩してたんだ」


「外!?」


「そう、ちょっとそこの駄菓子……っってえ!?」


突然、脳天に鈍い衝撃を食らった。

一瞬、タライでも落ちてきたのかと思ったが、すぐにそれが浅葱の拳であることがわかった。


「いってえな。何すんだよ!」


「『何すんだよ?』だ?それはこっちのセリフだよ!」


浅葱はぎゅっと心露を抱きしめて、鬼のような形相で俺をにらみつけている。

当の心露は、無抵抗な人形のように全身脱力して明後日の方向を見ていた。


「外には危険がいっぱいなのに!」


浅葱はなおも鬼の形相で叫ぶ。


「危険がいっぱいって……小さな子どもじゃあるまいし」


「こんな可愛い子がどこぞの男に目をつけられたらどうしてくれる!!それで、尾行されて家を特定されて、私がいないうちに邸に侵入されて、心露が乱暴されたら……ああ!考えただけで怒りが湧いてくる!」


あ、あまりにも過保護すぎないか?

全てを諦めきった目をした心露。どうやら、浅葱のこの過保護は今に始まったことじゃないらしい。


「お、落ち着けよ浅葱」


「だから君みたいなガサツな人間は嫌なんだよ!」


鬼の威嚇だ。牙が見える。


「なんだよ!散歩に連れていくことがそんなに悪いことかよ。ちょっと過保護すぎじゃないか?」


「ああん?」


俺の反論が逆鱗に触れたらしい。

浅葱の右ストレートが俺の顔面を狙う。

だが、二度も殴られてなるものか。俺の反射神経を舐めてもらっては困る。


「ファッ!」


間一髪で、拳を避ける。


「ちっ」


浅葱が舌打ちをする。昨日までのクールな浅葱と本当に同一人物なのか?


「二人ともあんまり、大声出さないで……」


心露の弱った声に俺たちは一瞬で鎮まった。

そして顔を見合わせる。


「一時休戦としようか」


「賛成だ」


浅葱の提案に大きく頷く。

そして、俺と浅葱はふうと肩の力を抜いた。

やかんがカタカタと音を立て、もくもくと白い湯気を勢いよく吹いていることに気づく。


「やべっ!」


慌てて火を止めにいく。


「お湯?何か作ってるの?」


浅葱が不思議そうにこちらを見る。


「うん。風呂をな」


「風呂?」


はぁ?と言う目で見られる。

俺だって、ヤカンで風呂沸かしてる人を見たら同じ顔をするだろう。


「ここ冷水しか出ないだろ?夏場とはいえあの冷水をかぶるのは文明人にとって苦行だよ」


「ガス栓開けたらいいじゃない」


浅葱がさも当然のアドバイスを口にする。


「え?ガス栓あるのか?」


「ないわけないでしょ」


呆れたように、眉間に皺を寄せる浅葱。


「だって、心露がそんなのないって……」


「……」


心露は無表情のまま明後日の方向を向いている。


「おい、目をそらすんじゃない」




屋外にあるガス栓を開ける。


「どう?」


「おお!お湯だ!お湯が出たぞ!!ありがとう神さま!!」


浴室の窓から感激の雄叫びが聞こえる。

お湯が出たくらいでそんなに嬉しいのか。


「浅葱」


名前を呼ばれて振り向くと、心露がすぐそこに立っていた。


「心露、家の中にいたらよかったのに」


「どうして、教えてくれなかったの」


心露は無表情のまま私の問いかけた。

縹くんの存在のことを言っているのだろう。


「……父さんに言われてたの?」


「……そうだよ」


9割は本当だが、1割は違った。


「なら、しょうがないね」


はじめて心露と会った時。

心露はまだ記憶を失ってはいなかった。だが、その姿はあまりにも痛々しくて、見ていられなかった。

心露が全てを忘れた時、沓九先生や航青おじさんたちはこのまま心露が全てを忘れて生きていく道を歩ませようとした。

心露にとってそれが一番いいと、私も思っていた。

だから、縹くんをこの家に連れてくるべきではないとわかっていのに……。


「浅葱」


心露が私に向かって両腕を伸ばしている。


「もう、甘えん坊だな」


心露を抱き上げる。

女の私でも軽々抱き上げられるほど心露の身体は小さくて軽い。

その体温はまるで陶器の人形のように冷たくて、心地いい。


「……眠い」


「よしよし、もうベッドに行こう」


心露に初めて会った日に思った。

私が、この子のお姉ちゃんになってあげよう。

そして、弱くて脆いこの子をずっと守ってあげるんだ。





「ふうー!あったまったあったまった」


「おかえり」


風呂から上がると、客間では浅葱がソファに腰掛け参考書か何かを読んでいた。


「あれ?心露は?」


「もう寝たよ」


「そうか。具合悪かったもんな」


「チッ」


舌打ちされた……。


「だから、悪かったって」


「もういいよ。次は無いから」


「ははは」


クラゲを見に行く時は絶対に内緒だな……。


「ん?」


浅葱の制服の襟に何か赤いシミがあることに気づく。


「なに?」


「襟のとこ、赤いシミついてるぞ」


「え?……ああ」


襟元を確認した浅葱は、慌てる様子もない。


「まさか、返り血?」


「そんなわけない」


「お前なら、やりかねない」


「今からでも君の返り血浴びてあげようか?」


浅葱が指をポキポキと鳴らす。


「冗談だって」


あながち冗談でもないけど。


「ワインだよ」


「は?ワイン?お酒の?」


「そう。母さんがこぼしたのがついたんだと思う」


「なんだ、そういうことか」


確かに、そう言われてみれば血の色とは少し違う気がする。


「……君と会っても、心露の記憶は戻らなかったんだね」


そういう浅葱の目は参考書に落とされたままだった。


「悪かったと思ってるよ。君に、伝えなかったこと」


「いいんだ。父さんに言われてたんだろ?ならしょうがない」


「……おんなじこと言うんだね」


「え?」


「なんでもないよ。……なら一つ頼みがあるんだけど」


「なんだ?」


浅葱は顔をあげないまた話を続ける。


「私が君をここに連れて来たこと、航青おじさんには言わないでね」


「あー、実は親父にバレちゃったんだよ。ここにいること」


「はぁ!?」


浅葱が勢いよく顔をあげた。切れ長の目がまるまるに開かれている。


「大丈夫!浅葱に連れて来てもらったとは言ってない!」


「……ここにいるってわかったらおじさん、飛んでくるんじゃない?」


浅葱の言うことは最もだ。


「だからこそ長期ロケの日程を狙ったんだよ」


俺がそう言うとポカンと浅葱は口を開けた。


「……呆れた。変なとこで賢いね君は」


「感謝してるよ。心露に会わせてくれて」


俺がそう言うと、浅葱はまたふっと目を逸らした。


「正直、驚いたよ」


浅葱は先ほどと同じように参考書に目を落とす。


「なにが?」


「こんなにもあっさり、心露が君の存在を受け入れるとは思わなかった」


「それは俺も思うよ。もし兄を名乗るだけの不審者だったらどうするんだよって」


そう、あまりにも警戒心が無さすぎるのだ。確かに、浅葱が心露に対して過保護になるのも仕方ないのかもしれない。


「君をここに連れてくる気は無かったよ。でもね、思ったんだ。君なら、なにか変えてくれるんじゃないかって」


「俺が?」


浅葱は小さな声で続ける。


「今の記憶を失った状態が心露にとって一番の平穏なのは、私も理解しているつもり。でも、一生そうだとは限らない。何かの拍子で過去を思い返した時、私は心露を」


浅葱は途中で言葉を遮った。

虚空を見つめ、じっと沈黙している。


きっと浅葱は本当に心露のことを大事に思ってくれているのだろう。


「お姉ちゃんみたいだな」


「……そう思ってくれていたら嬉しいけど」


「きっと思ってるさ。浅葱のこと本当の姉のように信頼してると思う」


「本当の姉でもないのにね」


「ははは。それを言ったら俺だって本当の兄じゃない」


俺の言葉に対して、浅葱の返答はなかった。


「俺と浅葱と心露、3人兄妹ってどうだ?面白くないか?全く血が繋がってない3人で兄妹になったら楽しいだろうな」


俺が努めて明るくそう言うと、浅葱はフッと笑った。


「いいね。いっそのこと3人でこの家に暮らそうか」


「お!いいな、それ!」


「ははは。面白そうだけど、冗談……。私は遠慮しておくよ」


「えー、なんでだよ」


浅葱はそれ以上、何も言わなかった。

ただ、小さく微笑むと再び参考書に目を落とした。




たまごの焼ける音が好きだ。この音だけで食欲がわいてくる。

鼻歌を歌いながら、決して綺麗な形ではない卵焼きを皿に盛る。だが、満足だ。

すでに太陽は高く昇っており、明るい陽射しが射し込んでいる。

窓の外を見ると、懐かしい光景が飛び込んできた。




「ご飯作ったから、一緒に食べようぜ!」


扉を開けると、心露はびくりと飛び上がった。

床には白いパズルが散乱している。


「いきなり入って来ないで」


無表情だが、オーラは怒りモードだ。


「悪い悪い。あ、見てくれよ!裏庭の木にセミ、スッゲェいた。ホラ」


俺が虫カゴを掲げるとカゴの中のセミが元気よく大合唱を始める。


「家の中までもって来ないで」


「見せようと思って。昔、よくここの裏庭でセミとりしたんだよ」


「いいから、逃がして」


「ここに?」


俺が虫カゴの蓋を開けようとすると、心露は素早く後退りした。


「違う。外」


「なんだよ、せっかく捕まえたのに」


心露がため息をつく。


「一匹だけならいい?」


ミーン↑と蝉が鳴く。


「ダメ」


ミーン↓。


「ちぇっ」


しぶしぶ窓からセミを逃す。

せっかく捕まえたのに。さよなら……お前たち。

俺は去りゆくセミたちに手を振った。


「で?なにやってんの?パズル?」


「そう」


床を見ると、心露が作っているのは絵のない真っ白なパズルだった。


「あ、そういやこの家やたらと真っ白のパズル飾ってあるよな。あれお前が作ってたの?」


「違う」


「じゃあ、爺ちゃん?」


「知らない」


「白いパズルって難しいんだろ?」


「さあ?」


俺の問いかけに対して、一言返事のみ。こちらを見ようとしない。


「俺も混ぜてよ」


「イヤ」


「なんでだよ」


「もう飽きた」


「へ?」


心露は立ち上がり、やりかけのパズルを蹴散らした。

白いパズルが再び床に散乱する。


「あ!もったいない」


「いいの。暇つぶしだから」


「完成させないのか?」


「完成したら終わっちゃう」


「いいじゃん。完成させれば」


「……うるさい。ご飯食べる」


心露はそう言って部屋を出て行った。


「……」


蹴散らされたパズルを1ピース拾い上げてみる。

そう言えば母さんも、よく白いパズルやってたな。

学校から帰ると、リビングに白いピースが広がっていた。……そういえば完成した形を見たことはない。

もしかしたら母さんも、完成させるつもりはなかったのかな。




朝食を終えると心露は風呂に入ってくると行ってすぐに出て行った。


「ふぁあ。久しぶりに早起きしたからまだ眠いな」


目を閉じると、すぐに睡魔が襲ってきた。

そのままソファに横たわり、昨日クローゼットから発掘した毛布を被る。

うとうとと、すぐに俺は夢の世界に落ちて行った。



扉の開く音がしてハッと目が覚める。


「寝てたの?」


私服姿の浅葱が扉のところに立っていた。


「ああ、少しだけ……って何時だ?」


「もう昼だよ」


「マジで!?」


時計を見ると本当にもう昼だった。どれだけ寝てたんだ……。


「今日は早いんだな」


「うん。今日は補習ないから」


「そうか……私服始めて見た」


青くて薄い柔らかそうなシャツに、丈の長い白いスカート。

シンプルだが、浅葱の雰囲気によく似合っていた。


「なんか気持ち悪い」


浅葱が汚いものを見るような目を向けてくる。


「なんでだよ」


不覚にもちょっと傷ついた。


「ところで心露は?」


「あ、そういえば……」


確か、風呂に入ってくるって……さすがにもう出てるよな。


その時、ふと気づいた。

微かに水の音が聞こえる。幻聴?いや違う。

心臓がドクンドクンと音を立てる。

嫌な予感がする。


「……心露?」


俺はバッと立ち上がり風呂場へ向かった。


「ちょ!縹くん?」





こころ、こころ。


「……お母さん?」


こころ……こっちへおいで。


「お母さん、どこにいるの?」


こっちよ、さぁ早く。


「待ってよ、お母さん!」


こころ、いい子ね。さぁ、おいで。


「……」


こころ?どうしたの?こっちへおいで


「……イヤ」


どうしてそんなわがまま言うの。


「誰?」


……。


「あなたは誰?」


母さんよ。


「違う」


こころ…こころ…こころ。


「あなたは違う。あなたは誰」


おいでこころオイデ。


「……行かない」


…そう。


「……」


なら、さようなら。





「心露!」


勢いよく浴室扉を開ける。


「!」


あの時の光景と同じ。

倒れた裸体に降り注ぐ水。


「心露!!」


「縹くん!?えっ、心露!」


浴室の床に倒れた心露を抱きおこす。

身体が冷たい。尋常じゃないほど冷たい。


「浅葱、ガス栓開けてきてくれ!」


「わ、わかった!」


浅葱は慌てて外へ駆けていく。


「開けたよ!」


窓の外から浅葱の声。

出っ放しの水に手を当てる。

なんでこんなに冷たいんだ!

湯になるにはしばらく時間がかかる。

はやく、はやく温めないと。


「また、またここで」


いやだ。同じことがおこるなんて。


「また!ここで家族がいなくなるなんて!」


「縹くん!」


パンッと頬を叩かれた。

いつの間にか外から戻ってきた浅葱は、その手に何枚もタオルを抱えていた。


「落ち着いて。大丈夫だから。ね?」


「……」


浅葱の穏やかな声。

いつのまにか、興奮していた身体がゆっくりとほぐれていく。


「心露をこっちに」


「……ああ」


浅葱が意識のない心露の身体をタオルで巻く。


「大丈夫。ちゃんと息してるから」


落ち着いた浅葱の声。

でも、その手は震えていた。

自分も気が動転しているのに、俺を落ち着かせるために、穏やかに話してくれているんだ。


「……情けないな俺」


「温度どうかな?」


タオルを巻いた心露の体を抱きしめる浅葱に尋ねられ、シャワーの温度を手で確認する。


「まだ少し冷たい」


「念のため、やかんでお湯沸かしてきてくれないかな?ぬるめで大丈夫。あと湯のみも」


「ああ、わかった」


俺は立ち上がり、台所へ向かった。

冷静になるべきだ。


ぬるま湯を沸かし戻ってくると、浅葱は心露の身体に優しくシャワーの湯をかけていた。


「いきなり熱い湯をかけると返って危険なんだ。血管が一気に拡張してしまうから」


「……」


何も言えなかった。

もし、俺が1人だけだったらそんな冷静な判断ができただろうか。

そもそも、俺がうたた寝なんてしなければ……。


「心露?」


「!」


浅葱の呼びかけに、ゆっくりと心露が目を開けた。


「……母さん?」


掠れた小さな声で心露が呟く。


「ははは。ついにお母さんになっちゃったか」


浅葱は優しい笑顔のまま、心露に湯をかけ続ける。


「……浅葱」


心露がぼんやりと辺りを見回す。


「私、どうして?」


「とにかく今はゆっくり身体を温めて」


浅葱が湯をかけながら心露の身体をさする。


「……あったかい」


俺はそっとその場を離れた。

できることは何もない。

俺のせいで、心露は死にかけたんだ。

後悔の念が押し寄せてくる。

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