布団の国
カムリ
布団の国
ある朝、布団から出られなくなった。
心の問題ではなく、即物的に抜け出せなくなったのだ。
昨日は少し厭なことがあったから頭まで布団を被って寝たはずなのだが、今にして思えばそれがよくなかったのかもしれない。
仕方がないので布団を被ったままリビングに行くと、ちょうどルームメイトもかたつむりみたいに布団を被って部屋から出てくるところだった。
「何か嫌なことでもあったの」
私は布団のもこもこを
ルームメイトも暖簾を上げるような調子で布団をぴらりと捲り、
「まあね。これじゃあ朝ごはんが作りづらいなあ」
言葉の様子とは裏腹に、案外堪えていないようだった。
私たちは各々カップ麺で朝食を済ませ(布団の中籠る蒸気に苦心しつつ)、互いの状況について話し合った。
ルームメイトも私と同じく、『ちょっと嫌なことがあって布団に潜り込んだまま寝てしまった』ら、翌朝には布団から出れなくなっていたらしい。
通販で買った羽毛布団の布地は私たちの頭頂部から背中にかけて強く接着しており、如何いかなる手段を試みても引きはがすことができなかった。くわえて布団自体もなぜか物理的な強度を獲得しているため、刃物による解体も失敗に終わっている。火を点けることも考えたが、自分自身に引火するのがお互いに怖かったのでやめた。要するに、私たちが常識的な努力の範疇でできることはなにもなかった。
「どうしようね。会社には行けなくなったけど」ルームメイトが呑気にぼやいた。あまりの危機感の欠如に、私は思わずカップ麺の汁を呑み干してしまった。
「偉い人が納得してくれるとでも?」私は訊いた。
「ありのままを言うしかないんじゃないかなあ」
「布団が背中にくっついてますって言うわけ」
「どうだろう。もともと、みんな布団から出たくなかったのかも知れないよ」
とても呑気に言われたので、私はおもわず唸ってしまった。確かにそうだ。本当はみんな布団から出たくないのかも知れない。生きていれば少し嫌なことや、少しではすまない嫌なことがある。それでも、何もかもがゆるやかに進み続けるだけだとわかっていて布団に入る。朝になれば布団から出なければいけないはずだったのに。
結局ルームメイトは私に代わって上司に電話をしてくれた。
いくつか言葉を電話口で交わしたあと、振り返ったあの人が指で小さくマルを作る。いつ頃まで休めるだとか、給料はどうなるのかとか、そういう話は教えてくれなかった。
そのあと私たちは一緒に映画を見ることにした。なので裁縫道具を取って来て、お互いの背中にくっついた布団の周縁を縫い合わせた。
熱い飲み物だと湯気が布団の中で籠って湿気るので、私は布地を被りながら暗い手元で二人ぶんのアイスコーヒーを淹れてあげた。
暗闇が広がり、そのなかでノートパソコンの画面を点つけると、ちょっとした映画館のように薄青い光がかげっていた。布団の中の空間は繋がっていて、私たちはお互いに手を触れあうこともできる。もっとも、ルームメイトが私の手を握ることはなかった。
お互いの存在の輪郭をただ知りながら、私たちは旅をするだけの映画を観た。
布団を縫い合わせてしまったので、寝る時も一緒だ。
他人の息遣いがもどかしかったが繋いだ糸を解く気にもなれなかった。
布団が背中にくっついたままなので、うつ伏せのまま枕に顔を埋めていると、
「ずっとこのままだったらどうしようね」とルームメイトがくぐもった声で訊いた。
いつかは終わりが来るだろう、と私は答えた。ルームメイトもそれに同意した。
「きみは布団から出たいかい?」
「ううん。でも、いつかは飽きると思うな」
「飽きても出られなかったら?」
「その時は慣れる。慣れて、一緒に毎日映画を観る。幸いこの世には面白いアニメも映画も一生分残っているから」
「二人で一つぶんの映画しか見ることができないけど、いいのかい」
「あなたは別にいいんでしょう」
「きみは一人の方が良いって思ってたけど」
ルームメイトの言葉は鷹揚な響きを伴っていた。鷹揚な響きを伴わせてくれていることに、私はなぜか安心していた。
「それでも布団を繋いだのは私だよ。こんな糸は鋏で切れるから、気が向くまでそのままにしておくことにしたんだ」
みんな嫌なことがあって布団に潜る。その中に籠る暗闇を繋ぐ権利も、断ち切る権利も私には残されていた。すでに隣で静かな寝息を立てているルームメイトにも、その自由が残されていればいいと私は思った。
目を閉じる。瞳の中でフィルムの光を溶かすような蒙昧な黒が広がっていく。
ルームメイトに触れようかと思ったが、寝ていることを思い出してやめた。
翌朝、ニュースでは布団が背中に癒合する現象が各地で起こっていることが解説されていた。布団から出られなくなった人々は、国が指定した場所に赴き、布団を繋ぎ合わせてコミュニティを作ることを推奨されるらしい。
『政府は布団から出られなくなった人々が日常生活を送るための支援制度の構築を急いでいます。症状のある方はすぐにお近くの集合場所まで……』
ニュースキャスターが上ずった声で住所を諳んじるなか、テレビの画面にはすでに避難所のようなところに集まって布団のヘドロみたいなパッチワークを作っている人々が映されていた。いずれはこの布団がふつうになって、みんな昨日あった嫌なことを繋ぎ合わせる世界が来るのだろうか。
その時、ルームメイトの寝息は穏やかな寝息は鮮明に聞こえるだろうか。
そう考えると、彼らのもとに集う気にはなれなかった。
いつかはこの生活にも飽きて、慣れて、私たちは布団の国に集うのかもしれない。と言うより、世の中の流れから考えて、おそらくはそうなるだろう。
でもしばらくは見るべき映画やアニメがある。
できればこの布団から出るのがいつになるかわからないといい。
もうひと眠りする気にはなれなかったので、私はアイスコーヒーを淹れるために布団の重みを感じながら立ち上がった。つられて、ルームメイトの背負った布団が引っ張られる。彼が目をあけた。暗闇のなか、私とルームメイトの目線が合う。
すると、あのひとは常夜灯のようにやわらかく笑った。
私がどんな顔をしていようと、きっとそうしたはずだ。
布団の国 カムリ @KOUKING
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