『ヨブ記』注解 (2019/04/26)
序
『ヨブ記』は、旧約聖書の中で最も難解とも言われる。本稿は、未完成の小説『メシア』のプロトコルとして、『ヨブ記』を因果応報説の観点から注解したものである。正しき人(=ヨブ)が不幸のうちに死なんとすることは、因果応報の不在に他ならない。しかし、こうした捉え方は、伝統的な『ヨブ記』の理解とは異なるものであることは、あらかじめ断っておかなければならない。
注解
誰が罪なくして不幸のうちに死ぬことがあるか、正しい人で(神によって)呪われ死んだ人はいないとエリパズは主張する(第4章7節)。
典型的な「因果応報」思想であるが、この立場からすると(わたしはそのようには読まなかったが)、ここでの趣旨は、ヨブが実は不義の人だったのではないか、その疑いを投げかけることであったようにも読める。しかし、ヨブが主張するのは、因果応報は現実的には成立していない(自分こそがその左証である!)というのであるから、この読み方では、議論は最初からかみ合っていないことになる。
おそらくは、エリパズは、すべての人間は死ぬ、ということに、すべての人間の不義の証拠を見出している(第4章17節以下)。つまり、死ぬことは不義の帰結なのである。この議論によれば、正しき人などこの世には一人もいないことになる。『自分は全き正しき人間だ』というヨブのおごりを諌めるのが趣旨であろうか。しかし、ヨブの被った不相応な苦難を説明する議論としては、あまりにも弱い議論である。
エリパズは、運命を神にゆだねよ、とヨブに諭す(第5章7節)。そうすればうまくいくはずだ、と勇気づけるものか? だが、現にそうなっていないので、ヨブはいじけているのである。ヨブは神を信じないというのではなく、因果応報の実現を信じない。現にそのようなものは、無いからである。わたしの考えでは、エリパズもまた、一見したところで(つまり人間の目から見て)、ヨブは報われない人であることを否定しない。※
※ ここでのエリパズの議論を、第20章のゾパルの議論(後述)と混同する向きがある。ヨブが不幸であるからには、ヨブは不義の人、つまり偽善者にちがいないと疑ったり、決めつけたりするのとは、本質的にちがう。エリパズの議論は、もっと手の込んだものである。
エリパズの議論は、当初から、ヨブの不幸を、一見したところでの「神の不義」として、つまり神の正義として、合理化することで、因果応報を骨抜きにしようとする方向を示している。それは、人間知性の不完全性を根拠としている。つまり、因果応報は現に存在していても、人間には認識できないような、曖昧模糊としたもの(あると思えばあるし、ないと思えばないようなもの)とすることで、義人の苦難という矛盾を解消しようとする。
要するに、エリパズの議論は、因果応報の実現をたんに主張するものではなく、方向として逆で、因果応報が(人間の目から見れば)不在であることを正当化する議論なのである。これは、現実との、ある種の調和、というより妥協であり、まったく魅力のない、弁神論的試みである。※
※ 正しき人が不幸になりうるという事実を前に、神を擁護できるかということに、焦点を合わせなければならない。『ヨブ記』の導入部(第1章と第2章)では、神とサタンが登場し、サタンの介入によって、ヨブに苦難が与えられる経過が描かれるが、ヨブとその友人たちは、天上でのやりとりのことは、むろん知らなかったのである。よって、ヨブとその友人たちが何を語っているか、またそれが筋が通ったものかを理解しようとする際に、サタンの介入があったかどうかは、差し当たりまったく重要ではない。(さもなければ、かれらはヨブには当てはまらないことについて、延々と議論を続けていることになろう。)
ヨブは、自分は罰せられるべき罪を犯していないと考えているので、自分が何か(知らずに)罪を犯したと認めるのは(第7章20節)、ヨブの本意ではない。
関根正雄の『ヨブ記注解』(以下、注釈者と略記)は、ここにヨブの(新約的な?)深さを見ようとするようであるが、たぶんそういうことではなくて、ヨブは、人間に認識することが不可能な咎のために、神が人間を責めるのは、(そのようなことがあるとすれば、たしかに人間の不義にはちがいないが、)人間の眼から見れば、法外な厳しさを前提すると考えるのである。
前世の咎という発想は、聖書にはないが、運命として「外から」降りかかってくる責苦は、人間にとっては、試練ではありえない。その証拠に、悔い改めるとき、かれらが何について悔い改めているのか、わかっている者などいない。「神の御心のままに」と、神への絶対的な帰依の表明として、根本的な「無知」の表明として、悔い改めが語られるにすぎない。
人間にとって、なんだかわからない罪を赦すことが、神の慈悲と考えられているのである。神の不義への疑惑が、転倒されてしまっているのであるから、非-応報思想は、その疑惑のもとになる応報思想を前提しているのである。人間は(仮定された)咎をその身に引きうけているのであって、罰は、第一義的には、神の怒りとして、人間に加えられる責苦であって、温情としての、教育的な試練などではない。さもなければ、人は何を
ゾパルは、他の二人(エリパズとビルダデ)と同様に、(自分たちから見て)因果応報が公正に実現せられていると見る(第11章5節以下)。しかし、人間の知識には限界があるので、(因果応報が厳密に貫徹せられるのだとして、また、自分たちから見て、公正に思われるとすれば)神は実際上、罪を軽くして罰しているはずだ、という趣旨の議論だとすれば、神は人間に理解できる罰のみを与えることになろう。この議論は、明らかにうまくいっていない。
注釈者は、因果応報は厳密に貫徹せられるのではなく、実際には神は罪を軽くして罰せられるのだとしている。この考えによれば、ヨブはもっと重く罰せられてしかるべきであるということになる。不正に罪を緩和することを、神の温情による(恩赦)とみなしている。第10章のヨブの議論が、神の冷酷、無慈悲への糾弾だとすれば、神の(想定された)温情に基づくゾパルの議論は、それへの直接的な反駁を意図したものだと理解できる。
ただし、不可知論を前提として、想定された咎を、想定された恩赦によって差し引くことが(仮に)意図されているのだとすれば、ゾパルの議論もやはり、多かれ少なかれ(自分たちから見て)因果応報が公正に実現せられていることを前提している。だとすれば、彼は、(自分たちから見ても)ヨブが実は不正なことを行ったので罰せられたのではないかと疑っていると見なければならないことになろう(第11章11節を見よ)。
しかし、実のところ、この見解は、ヨブに荷担するのであって、神がヨブに下した、不可解な処罰を正当化する議論にはなっていない。(正当化できないことを神は行っている。)
なぜなら、エリパズの議論は、不可解な(われわれから見て不正な)処罰を、不可知の咎を想定することで説明しようとしたが、ゾパルの議論は、神の温情、慈悲を想定することで、その効力を弱めることになるからである。そもそも不可知の咎を想定すること自体が、本来余計な事であって、因果応報が公正に実現せられているかどうかが、重要なのである。
現に、(第1~2章の記述を前提すれば、)神は、ヨブに本来受けるべきでない責苦を課しているのであり、サタンに挑発されてそうしたのであって、不可知の咎のゆえにそうしたのではない。『ヨブ記』の読者にとっては、当初から、ヨブの友人たちの弁神論的議論が無効であることが確定している。新約に影響づけられて、神の赦しの教義に拘泥するあまり、応報思想を退けることに腐心する注釈者には、ぜんぜん気づかれないことだが、因果応報が公正に実現せられるならば、それは一種の法則であるから、その実現は、神の意志から独立している(このように言うのは、実は正しくないが、ここでは議論のためにそのように仮定する)。もし神が公正さを意志するとすれば、神の呪いや赦しなどは考えられないであろう。不正を擁護することは、不正に加担することであり、正しさを捻じ曲げてまで神の行いを擁護することは、力ある者におべっかを使うように、ただ神に気に入られんがためにする邪な、徹頭徹尾利己的な動機に基づく行いだと、知らなければならない。人々が善を意志するのも、それを神が意志するが故の追従だとすれば、かれの行いは、その本心から出たことではなかったのである。
幸福に値するのは、正真正銘の、善のための行いである。そして、公正さ(正義)とは、善と幸福を結び付けるものに他ならない。これが規範的な因果応報論であって、この眼差しから見れば、通常考えられているのは、神の義に値しない者たちによる、神の恩寵の詐取以外の何物でもない。厳粛な、冷徹さのうちに、正義は成り立つものだと知らない。多くの人々がそのようであったので、遅かれ早かれ、多くの人々が歩む道が、真の正しい道だと錯覚されるに至った。われわれはキリスト教の注釈家には、多くを期待しないであろう。かれらは、規範的な因果応報論を、ペラギウス主義として異端視するからである。
第13章4節から19節にかけての議論は、非常に重要である。二つの偽りがある。まず、因果応報など存在しないということ。そして、存在しないにもかかわらず、存在するかのように、嘘をついて、神をひいきすることである。前者は神の不義であり、後者は人間の不義である。ヨブの怒りは、双方に向かうが、ここでは議論の相手である人間の不義の糾弾が際立っている。嘘をついてありもしない因果応報を謳いあげて神を賛美することは、神の怒りを買うだろうとヨブは言う。それでも神を信じることが、ヨブの義なのである。
注釈者の読みは、わたしと同じである。ただし、以下のように。「神の場合には人に助けてもらう必要など全然ない。しかも不純な動機で神のために何かをすることは冒涜この上もないことであり、神はこれを怒り悲しみたもう。神はほんとうに真実な方だからである」(68頁)。ここには「善のために」という発想がない。「善のために」とは、(そのような観念がこの時代にあったのかは疑わしいが、)純粋に他者のためにということである。人と人との関係が欠落している。のみならず、人が純粋に神のために何かしないなら、神は人のために何もしないだろうというのは、常識的な意味でも、純粋な利他的態度ではない。救済は、神との契約、仏教でいうところの縁を、前提するからである。
注釈者は、神が人のために何もしないなら、人は神のために何もしないというのは、利己的だと論難するが、逆のことは、まったく考えない。神の上に立つものは何もないのであるから、神が善の理念に服従しているとは、教条主義の頭では、考えられないからである。しかし、もしそうであるとすれば、神が善を意志しないことはありえないということが、なぜまさにそうであるかを説明することは、できないように思われる。(人間が神に対して何かよきことをなすことができるかという問いは、非常に鋭いけれども、)神への服従が、救済の必要条件だと考えるのは、ある種の互恵性を前提しており、したがって(神の側の)利己性を前提するのだと言わなければならない。これは、神の心の狭さを暴露しているに等しい。自分にひれ伏さない者に施しをしない人は、義人とは言えないからである。
第14章14節以下は、輪廻説への言及ともとれるが、はっきりしない(自分の子孫への転生を考える、特殊なタイプの輪廻説が念頭に置かれているように見える)。あるいは、父の罪を子や孫が引き継ぐということであろうか。※
※ 関根訳では、「14:14 人は死んでも生きるのだろうか」。条件文として読むのは不可能としている。注釈者によると、(新約の)「復活の信仰」と結び付けたい人たちがいるようである。注釈者は、輪廻説と結び付けたくはないようだが、死後の生は、明らかに輪廻説の一形態であると言わなければならない。「死んでも生きる」というのは、端的に矛盾だからである。注釈者が論理的な矛盾を犯してまで固執しようとする見解は、わたしには意味が解らない。「服役」は、関根訳では「賦役」で、ヨブの現在の不幸のことを指すとしている。
第15章14節でのエリパズの主張は、第4章のエリパズの議論と重なるところがある。『すべての人間は死ぬ』ということに人間の不義の証拠を見出したように、ここでは『すべての人間は女から生まれる』ということに、人間の不義の根源を見る。背景には倫理的にかなりひどい女性蔑視がある。(ここから、人間は生まれつき悪性を孕むという思想が展開していったとしても、わたしは驚かない。)
神は聖なる者も義としないというテーゼは、本書で繰り返し出て来るが、あるいはこれは、サタンを念頭に置いているのかもしれない。詳しいことは不明だが、聖と邪、善と悪は、重なり合うが同一のカテゴリーではないことだけは、確かである。
第16章11節以下のヨブの発言には、おそらくだが、因果応報という報いがないと、悪が世に蔓延るという前提がある。ヨブも、正しい人であるから、因果応報は存在してしかるべきだと考えている。だが、それは現に存在しない、という彼の確信に忠実なのである。すでに強調したように、これが彼の義なのである。※
※ このことは非常に重要であるので、わかりやすく整理しておく。まず、ヨブが敵視するのは、(1)因果応報が(ヨブの言うように)存在しないならば、人は正しくあれない(あるはずがない)という信念であり、(2)因果応報は現にあるのだから、不幸な人が正しき人であるわけがない、とする(ヨブの不幸という)結果から原因(=ヨブの邪さ)への推論である。そこで前提されているのは、(2')因果応報は現にあるということ、そして(1')報いがなければ人は正しくあれない、ということである。ヨブはこの二つの前提に同時に反対する。報いがなければ正しくあれないようでは、ダメなのだ! たとえ報いがなくても、人は正しくあらなければならない、とヨブは考える。究極的に言えば、ヨブの義とは、因果応報があろうがなかろうが、神の前に正しき人であるべきだ、ということなのである。(そして、あるべきものとしての因果応報は、この義に報いることなのである。ただしこれは、ヨブの主張というよりは、カントの主張である。)
だから、ヨブは「わたしの祈りは清い」(第16章17節)と言う。おそらくカントは、ここにヨブの純粋実践理性を見た※。ここでのヨブの祈りは、義人(正しき人)は救われるべきだ、それを実現する因果応報はあってしかるべきだ、という神への提言ともとれるからである。これは、通常の祈りではない。(ただし、そのようにとらなくてもよい。ここでのヨブの「清い」祈りは、自分は清く正しいので、報われるべきだ、という祈りとしても解釈できるからである。)
※ 近代以降の視点から見ると、ヨブの義は、神を信じ従うというより、たんに善い人であろうとすることであるように見える。しかし、ユダヤの律法主義においては、神の戒律に従うことと、善良であることのあいだには、たぶん区別がないのである。
神と人の仲介者として「天」を考えるのは(第16章19節)、人を裁く者としての神に対する不信がヨブの中にあるからである。ここでは「天」は、純粋に客観的な第三者として要請されている。ここにヨブの首尾一貫しない態度がある。ヨブは、友人たちに因果応報はないと主張する。だが、もしそうだとすれば、公正な観察者として「天」を要請する理由は、ないことになろう。しかし、それなしには、人間は正しくは生きられないとヨブは考えるのである。この相反する考えのあいだの動揺は、ヨブから多くを学んだカントにも引き継がれている。※
※ ヨブが因果応報の在・不在をめぐって揺れ動いているのに対して、カントは善行とは純粋な善意にのみ基づく行いだとすることで、この葛藤を理論的には解決している。しかし、同時にカントは、この意味での(純粋な)善行の報いは、存在すべきものと考えている。彼が考えているのは、神を信じる者には、その報いはあってしかるべきだということなのである。これは驚くべき見解であるが、同時に、カントをヨブと同じ動揺に連れ戻してしまう。ただあるべきだと思念された報いには力はないし、それが真実にはあるのだとされたら、行為の意図からそれを排除するのは困難である。このパラドックスについては、『メシア』プロトコル(プロトコルB所収)でさらに詳しく論じる。
第20章でのゾパルの議論は、「悪しき人」と「神を信じない者」とが、交換概念であるかのようである。また、もしそうでないとしても、ヨブが苦難に直面しているからには、彼は(道徳的に)「悪しき人」にちがいないとする決めつけがある。これはひどい議論である。
第21章でのヨブの議論には、悪人のほうが得をして、繁栄を享受するという合理的な前提がある。おそらくここでは、ヨブは、因果応報が存在しないことを、悪の繁栄という(仮定的な)事実によって証明しようとしている。この議論は、一見したところ、悪に荷担するように見えることからして、危うい。しかし、これに続くところでは、人が正しくあるためには、その子孫でなく、その本人に罪の報いがあるようにしなければならないと言われる。
第22章のエリパズの議論は、非常に混乱していて、わたしには意味がまったく解らない。※
※ 「人は神を益する(喜ばせる)ことはできない、たとえ正しい人であっても」という議論に、いったいどういう含意があるのか。これに続く箇所では、神を信じないことより、ヨブの(仮定された)悪行を主に糾弾している。議論がどうつながっているのか、わからない。ひとつの仮定としては、先のヨブの議論を、悪を擁護するものと(誤って)解釈した結果、因果応報が存在しなければ悪がはびこるだろうという主張を行った可能性がある。ただし、ここには、因果応報が実現しないのは、「濃い雲」が人々を覆って、神がかれらの行動を見ることができないからだ、という(仮定された)反論が前提としてあるが、ヨブはこのような主張はしていない。一言でいえば、わけがわからない。何か(欠損とか編集の不備とかの)原因があって、議論がひどく混乱したように見える。
第24章12節以下のヨブの議論は、因果応報が現に存在しないので、悪人が堂々と悪事を行うことができるという議論である。さらに深く読めば、因果応報が現に存在しないのに、存在しているかのように装うことは、間接的に悪事に荷担する仕業である、傷ついた者は、ほうっておけばよい、(かれらが悪人であれば、自業自得だし、善人であれば、神はこれを救うだろう、いやむしろ、)かれらが傷ついた者であるのは、かれらが悪を働いた報いであるに決まっているのだから、等々。
「女から生まれた者は清くありえない」という発言は、第15章のエリパズの議論にあった。たぶんヨブの義人としてのおごりを諌めるためのものであったが、第25章での議論の趣旨は、それにもかかわらず、神の恩恵は現にある、それは、神の恩恵が無限であり、それに浴さない者はないからだ(そもそも神の恩恵に値する人間などいない)、ということだと思われる。だとすれば、実質的に因果応報を解体する議論であるが。ここで考えられているのは、例えば、恵みの雨である。
「大洪水は、善人も悪人も流し去る」(第27章20節)というヨブの議論は、その弱点を突くものである。それは、恵みの雨が、善人の畑にも、悪人の畑にも等しく降るようなものである。要は、神の施しと天罰に、法則性などないという議論である。
これはきわめて重要なことであるが、因果応報を無邪気に信じるのは、多かれ少なかれ、満ち足りた人たちである。本当に困窮している人達は、(むろん正しき人であればの話だが)神の救いが存在しないということを、身をもって知っている。満ち足りた人達は、かれらの幸運を神に帰すことができる。そして、苦難にあえぐ人たちの不運を、かれらの(仮定された)悪業に帰して、嘲笑うのである。
「正義」(第29章14節)とは、善と悪、福と過を、結び付けるものである。つまり、因果応報の実現が、真の正義なのであって、厳密な意味で正義と呼ばれうるものは、これ以外にはない。
第31章では、不義なる者に災難がくだるならば、文句はない。そして、自分が不義なる者だとすれば、自業自得として、自分も文句は言わないという趣旨のことが言われている。(ヨブも、因果応報が存在してしかるべきだと考えるのである。これは、理想の問題であって、現に存在するかどうかは、事実の問題である。)
問題の本質は、正しき人であるヨブに、どうして災難が及んだかということであって、それ以外のことではない。これは理想ではなく、事実の問題であるから、現に(ヨブが正しき人であったなら)義人に災難が及んだことは、因果応報が現に存在することを仮定し続けるかぎりは、説明のつかないことである。
物語的には、ここに二つの道がある。ひとつは、因果応報の法則は、存在すべきであるが、現に存在しないと結論付けること。もうひとつは、ヨブを窮地から救うことにより、「義人の苦難」という主題を無力化すること。
『ヨブ記』の作者は、後者の道を選んだ。だがその前に、わたしには余計に見える議論がある。
ラム族のブズ人、バラケルの子エリフは、怒れる若者であり、三人が沈黙したのを見て、居丈高に持論を展開する。それによると、ヨブが神を責めるのは、彼が神の言葉を理解しないからである。※
※ 神の知恵・はからいは偉大すぎて、人間には理解できないという趣旨の議論は、古今東西を問わず、神学では普遍的に見られる。なお、以下のエリフの議論は、第22章のエリパズの(非常に混乱した)議論と部分的に重なるところがある。これをどう評価すべきかは、本注解では未決定の問題としておく。
エリフは若者らしい理想論を展開するが、総じて断言的で、議論に説得力がないように見える。全能者である神は、悪しきこと、不義をひとつも行うはずがない(第34章10節)。これはもっともな意見だが、だとすればなぜ、正しき人が不幸になるようなことがあるのか。(全能者であれば、それが一見したところの不義であることを、人間にもわかる言葉で伝えることができるように思われる。神がそれをしないのはなぜか。)
エリフが言うように、正しき人に報い、これを救っても、神の側に一つの利益もないことは、確かなことである(第35章7節)。これがもし、先の疑問に対する答えとなっているとすれば、エリフには「神から人間への愛」という思想が決定的に抜け落ちているように思われる。人間がどうなろうと、神は痛くもかゆくもないのだから、人間を救う理由など神にはこれっぽっちもない(神はその意の赴くままにすべてをなすのだ)という趣旨だとすれば、これはひどい議論である。※
※ ただし、「むなしい叫び」(第35章13説)とは、利益のみを念頭に置いて、神への信仰をないがしろにすることに対する警告とも読める。(もしそうだとすれば、わたしはこの議論に同意するであろう。これは、善行と報いの在り方に関する、脱神学的議論においても重要な論点だからである。)エリフは「待つべき」と言う。待てば、むなしい叫びでなければ、報いがあるということを彼は言わんとするのか。
第37章24節でエリフが言わんとするのは、ヨブは神を恐れず、自らを義と言い張り、誇ったので、神は彼を顧みられなかったということか。しかし、ヨブは決してそうだったのではあるまい。いまや神の意図が何かが重要なのであるが、物語の筋から言えば、サタンの求めに応じて、神は徒にヨブを試したのである。結果、ヨブは、本来受けなくてもよい苦難を受けた。それにもかかわらず、文句を言うなといってヨブを責めるのは、納得がいかないことである。
総じて、エリフの議論は、法則的なものとしての因果応報とは、まったく関連を持たない。神の全能性の外には、何も存在しないのであるから、報いは、端的に、神の行いとして存在する。つまり、かれを救うかどうかは、神の意志ひとつにかかっている。もしそうであれば、「義人の苦難」という主題は、議論するに値しない、無意味なものとなろう。ここにおいて、『ヨブ記』は、主意主義的な解決へと逃走し、「義人の苦難」に関する合理的な議論を放棄してしまっている。※
※ 神をこのような、暴君のごとき絶対者と考えるべきではない。神は善を意志する。全能者としての善意志が、地上に因果応報を法則としてもたらす。より正確には、人間には神の意志は法則として現れる(現象する)ということである。よって、救いと報いは、規範的な因果応報論では、究極的には同じものである。しかし、考えの浅い人には、このような主張は、汎神論と見分けがつかないようである(そのために、多くの智慧ある人たちが無神論のレッテルを張られ、抹殺された)。かれらは、神もまた、人間のごとき有限な人格として、表象しないと気がすまない。だから、救いと報いを区別することは、実際上、意味のあることである。
結局、神が人間をどうしようが、それは神が自由に決めることができるし、してもよいとされる(第41章11節)。神にとって人間は「わたしのもの」だからである。この発言は、神がヨブを徒に試した行いとパラレルと見るべきであろう。結論的には、『ヨブ記』は、納得のいく結末を提示するためには、物語の筋に無理があったと言わなければならない。
総注:プロトコルとしての『ヨブ記』のラディカル・リフォーメーション
ヨブの思想は、世界否定的-反宇宙的であり、冒頭の会話では、自死に助けを求めている。これは、元来の釈迦の教えと相似する。多かれ少なかれ、道徳に優先権がある神学では、因果応報(超越的法則)は、存在すべきであるが、現に存在していない、まさにそのことによって、現世の生は、苦に満ちた、厭うべきものと見られる。
1.神に対する義の報いとして、現世利益だけを考える思想は、行動に際して脆い。要求の高い戒律を有する宗教においては、なおさらである。モーセに率いられたイスラエルの人々が、何度も神に不敬をはたらくのは、故なきことではない。義人の破滅は、神による契約の反故としてしか、考えられないからである。
2.ここから、来世という別の(真実の)世界での「生」という思想が、遅かれ早かれ展開してくる。それは、「義人の苦難」という問題のひとつの解決でもある。つまり、問題の解決は来世へと先送りされて、超越的法則としての因果応報は、(おおむね)現世を因とし、来世を果とする超越的宇宙論によって実現されるのである。
わたしの考えでは、仏教とキリスト教(少なくとも、カトリックにおける)は、後に展開された、来世に対する態度において、ほとんど等しい。後者には「輪廻」という発想がないから比較は不可能であるという議論は、輪廻の概念についての無理解(ないし根本的に誤った見方)から発する。※
※ ただし、仏教にはキリスト教の意味での「地獄」はない。しかし、仏教の地獄の刑期は、あまりにも長いため、実質的には永遠とほぼ同義である。なお、オリエント的思想には、永遠という発想がないというより、永遠という概念への恐れと、そこからする禁忌がある。死を安らかな眠りとするヨブの思想には、明らかにオリエントの影響がある。
補遺:規範的な因果応報論からみた『ヨブ記』の問題点
平野 2006 は、42:7 におけるヨブの友人たちに対する神の怒りの解釈において、神がヨブを義とした理由を、彼が神に助けを求めたという事実(神と人との呼応関係)に求める。モーセ五書において、神はしばしば(求めに応じ)決断して、イスラエルの民を助けている。つまり、神は(ある程度まで)救済行為を任意に行うということである。つまり、因果応報は、厳密な法則ではない。おそらくは、世俗的な裁判との類推が存在しているのである。
[設定] プロトコルA 芳野まもる @yoshino_mamoru
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