『創世記』を除くモーセ五書への注解 (2019/02/12)

●『出エジプト記』への注


[注解]


刑法は、「命には命」(21:23)、「目には目、歯には歯」(21:24)が基本。道徳というよりは、復讐の正義というべきか。


21:1-11 における奴隷の扱いの規定は、いくぶん利他的であるようにも見えるが、実際のところ、よくわからない。文句なしに、いくぶん利他的であるのは、貧しい者への憐みを、神が要求している点だが、施しではなく、貸し借りにとどまっており、聖典における善行の勧請としては、かなりケチな部類である。


正直さが『徳』として際立っているとも言えるが、刑罰の苛烈さを考えれば、裁判の公正さを担保することは、何より重要なことだったであろう。(主を前にした)公平さという点では、徹底しており、良くも悪くも、神は貧富の差によって人々を区別しない。


神に帰依することによる現世利益は、無病息災、子孫繁栄、敵の除去に言及している。現実主義的であり、死後の世界での報い、という発想は、無い。


総じて言えば、道徳論的には、見るべきところが乏しく、ほとんど魅力がないように思われる。


他者への施しへの興味が、まったくと言ってよいほどない(!)ただし、 刑法の「神話的な」基礎づけにしか関心が払われなかったために、善行に興味がないように見えてしまっている可能性は、まったくないわけではない。


「赦す神」と「罰する神」とのあいだに、概念的な緊張がある。赦されるべき人と罰されるべき人とを区別するための原則がない。神が人の罪を赦すかどうかは、個々の局面で、しばしば恣意的な印象を受ける。全体としては、荒ぶる神という印象が強い。


[分析]


1.戒めを守ることへの、神からの報いは、子孫繁栄を核とする現世利益である。来世や天国(ないし地獄)という発想はない。律法の遵守は、広い意味での自己利益によって支持されている。


2.道徳的戒めは、「父母を敬うこと」を除いて、積極的内容をもたない。「~するな」という禁止の戒が主であって、善行の勧請は、それに対する神の報いを含め、想定されていない。


[影響]


モーセの十戒の影響は、広く、カントの定言命法にまで及んでいる。


ただし、彼はもはや(禁を犯すことに対する)神の呪いを説かない。それに代えて、カントが(おそらくは不当に)持ち出すのは、功利主義的議論である。善行の勧請もまた、功利主義的論拠によって支持しうるが、彼はそれをするのをためらっている。


その理由は、おそらく次のようである。


善に向かうために、(道徳的な)善以外のものを持ち出すことは、動機の上で不純であるから、命法は定言的でなくなってしまう。悪を避けるために、(自身へ反照してくる)悪に訴えることは、動機の上で必ずしも不純とは言えない。


ただし、自身の幸福の毀損が主たる動機として考えられるようであれば、意志は純粋ではないであろう。


自分の幸せを第一とする幸福主義とは、利己主義のことであって、そこからは道徳も悪徳も帰結する。ストア的な義務論者にあっては、善に向かい、悪からは離れることが、第一義的に重要なのである。


律法が有効となる対象の圏域がどうなっているのかは、実践上、きわめて重要な問題である。「殺してはならない」の意味が、「X を殺してはならない。X は人間である」とすれば、われわれはこれを仏教・ジャイナ教における「不殺生」の戒と単純に同一視することはできない。


現代の道徳理論の水準に照らせば、「隣人」を対象として指定する戒律は、道徳規則と呼ぶには値しない。道徳規則に「隣人」という束縛変項は現れるべきではない。十戒は、部族内でのみ通用する社会的取り決めと解されるべきであるが、われわれはここに時代的な限界を見るべきであろう。


道徳的な派閥主義を聖書に基づけようとする試みは、断固として非難されるべきである。「汝、殺す無かれ」が、あらゆる人間を対象とする戒律として、厳格に守られたならば、戦争はアブラハム宗教によって正当化されなかったであろう。



●『レビ記』(抜粋)


「罪」は、戒律に違反した行いのことである。

「罰」は、罪を犯した者に(損害の補償とは別に)課せられるであろう。

「罪」の(つまりは戒律の)多様性に比して、「罰」の種類は、あまりにも少ないし、過酷である。罪(戒律)を犯した者は、追放か、さもなければ、死ななければならない。

「罪祭」と呼ばれる贖罪の儀式を行うことによって、罪は贖われるとされる。


善行の心構えは、『出エジプト記』と同様、きわめて貧困であると言わざるを得ない。金をやるのではなく、無利子で金を貸す、という点が、ケチである。



●『民数記』(抜粋)


「償い」と「贖い」 (第 5 章):罪を犯した人間は、相手方に償いをし(補償)、また、神に捧げ物をして、その罪を贖わなければならない(贖罪)。(さもなければ、罰を受けなければならない。)


「過失」と「故意」 (第 15 章):過失による罪は、罪祭(贖罪の儀式)によって、贖われる。故意に罪を犯す者は、民のうちから絶たれなければならない。


「逃れの町」 (第 35 章):あやまって(過失によって)人を殺した者は、逃れの町に逃れることができる。


モーセと民とのあいだの種々のやりとりを見ると、イスラエルの人々は、必ずしも神に従順ではないことがわかる。むしろ、彼らは、幾重にもわたって、神に不信を表明することで、呪われ、しばしば死に至っている。


神に従順だった者だけが、生き残るという筋書きである。最終的には、エジプトを出た者たちの中では、モーセと、カレブ、そしてヨシュアだけが生き残っている。



●『申命記』(抜粋)


「偶像崇拝の禁止」の論証

主たる神の姿を見たこともないのに、像が造れるわけがないという論理である。他の神々ならどうか? 神を見た者は死ぬのであるから、偶像を有する異教の神は、真実の神ではない(あるいは、端的に神ではない)と、考えるのであろう。


「主こそ神であって、ほかに神のないこと」の論証※

主なる神と、主の聖なる民との関係は、「愛し」、「誓いを守る」という関係である。主なる神からの愛は、「真実の」愛であったことを論証しているのである。関係が、妻と夫(主人)の関係に似るのは、たぶん理由のないことではない。愛を基調とするがゆえの、「ねたむ神」なのであろう。(主なる神を裏切り、異教の神々に身をゆだねることは、「姦淫」と揶揄される。)


※『申命記』の書き手は、強い意味で、神はひとりであることを断言するようにも見える。ここから一神教という強い想定が出てきたとしても、なんら不思議ではないが、わたしにはその捉え方は、まちがっているように思われる。世間に数多くの夫がいても、妻にとっては自分の夫がただひとりの夫であるように、ただひとりの神がいると主張するものである。よって、強い意味で、神はひとりであることを断言する仕方とは、異なると見なければならない。


道徳的な要求は、他のテキストに比して、高い、と言える。『申命記』は、奴隷の扱いに、たいへん心を砕いている。ただし、道徳(ないし倫理)は、あくまで仲間内のもので、敵には、何らのあわれみを示してはならない、とされる。


総じて、行いの正しさとは、適法性のことであって、判断に個人的良心の入り込む余地は、ほとんどないように思われる。(逆に言えば、律法に違反さえしなければ、何をしても咎められることはない。)



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