『無量寿経』の徳論の形而上学への注(2018/06/19)

   序


本稿は、『冥府』プロトコルとして、浄土三部経のひとつ『無量寿経』の三毒段と五悪段と呼ばれる個所を集中的に注解したものである。伝統的な因果応報による往生が説かれ、それゆえに親鸞がまったく顧みなかった箇所としても知られる。



注解


「何故、努力して善をなそうとしないのか。(出離の)道を念ずれば、(仏国土は)自然に、(そこには人間の)上下なく、どこまでも伸びひろがって限界がない。各々よろしく努力精進して自らこの(仏国土に生まれることを)求めてみるがよい」(97頁 ※強調は筆者。以下、引用はすべて岩波文庫から)


善をなす動機として、善行の報いとしての幸福が、また悪をなさない動機として、悪行の報いとしての不幸が考えられている、ということが重要である。これらの報いが「自然に」現れてくることは、現象世界の一貫した法則として考えられていることを示唆している。それは、法則であるがゆえに、神の意志からも独立した形而上学的原理として思考されていなければならない。「すべてが自然の力のままに牽かれて行くのだ」(98頁)。原因たる善根があれば、あとは障碍なく自動的にそこに生まれることを意味している※。


※ ところが、この「自然の力」は、他力を意味すると通常解釈されている。救いと報いをわれわれは区別するが、経典では、この区別は、他力と自力という異なる解脱プロセスとして現れる。後者は、善に向けた努力の報いとしてあるものであり、これを他力という範疇に含めるのは、納得がいかないことである。


「しかるに、道を実行することもなく、徳に向かって進むこともしない」(98頁)


積極的に善をなすことによって、人は道を選ぶのだということが重要である。仏教における〈迷いの世界〉が決定論的であることを否定する人は、因果によって規定された世界と自由意志の相克を知らない。選択とは自由意志の問題であり、解脱とは、ある意味では、その人が自体的に背負っている、因果的‐決定論的な〈宿命〉からの解脱なのである。自由意思によって開発された原因(善根)によって、決められた道から外れて、道を、新たな道を歩むことは、自分という存在の歴史から見れば、自分を無化することである。


のであり、のだ。善と悪とはその報いを異にし、わざわいと幸福とは別々の所で、あらかじめ厳然と(来るべき人)を待っているのであり、人はひとりでそこに趣くのだ。遠く離れた別々の所に行くのであるから、」(100頁)


「もはや見ることはできない」とは、「(愛する者との)別離」だとする解釈は、文脈的に飛躍しすぎている。「遠く離れた別々の所に行く」のは、善と悪のことであるから、これをただちに「(愛する者との)別離」と捉えるわけにはいかない。真実には、悪が善(如来)から遠く離れて行って、「もはや善(如来)を見ることはできず」、また遠く離れて行けばいくほど、「善(如来)と再会することは難しい」と語られているのである。これは、『観無量寿経』における観仏という主題と密接な関係がある。


「如来との再会」という神秘的な主題は、文字通りの意味でそれが目的なのではなく、道徳的含意をもつのだということが認識されなければならない。如来とは、善の化身であり、その報いとしての幸福を担保する、正義としての、善の守護者である。したがって、真実には、「もはや見ることができない」のは、規定された道とは道のことであり、そうやって別の道に行った、自分のことなのである。人間はひとつの道しか行くことができないから、行った後では、別の道をもはや見ることができない。人間にとっては、人間とはいまここの存在であるから、道は与えられるものとしてはひとつであり、したがって道はただひとつのものとして現れる。それは存在の前提であるというよりは、存在そのものであって、端的に言えば、である。別々の道とそこでのは、一方から他方を見れば、様相上の実在として次元的に隔絶しているのであるから、別の道に行った自分はもはや見ることができない。このような行論はむろん近代の精神を読み込みすぎているが、仏道を歩むとは本来、有徳者であることを志すことでなければならない。悪しき生まれのものほどそのことが難しいことは、論じるまでもなく明らかなことである。


「世間の人は、ということを信じない。人が死ねばまた生まれるということ、ということを信じない」(100頁)


形而上学的法則への信頼(コミットメント)が奨励されている。だが、ここには周知の緊張がある。「(他の者への)善を実行するから(自分の)善(=幸福)が得られ、(道徳の)道を実行するから(極楽世界への)道が得られる」。自分の幸福への願いが善をなすことの根本動機だとすれば、どうして最初から自分の善を求めて行動してはいけないのかという疑問には、答えられない。ここでは、極楽世界でのより大きな善(=幸福)によって、現世の幸福追求の断念が正当化されているのである。これはかなり不味い議論である。純粋な善意は、みずからの(極楽世界への)道を断念してまで、衆生救済の道に進むという菩薩行によって担保されている。だがこれは、衆生の歩む道では。それゆえ、『無量寿経』の徳論の形而上学は、派生的最高善に関するカントの議論と同じジレンマに陥っている。※


※ 自分の利益を慮らない者だけが、形而上学的法則によって、利益を享受することができるという思想は、奇妙にねじれた、おそらくは変装した利己主義である。善き人が不幸であるという事態に、正しき人、正義は耐えることができない(例えば、ヨブ)。善行の報いは、現実的には不在である。だから、非現実的な果報は、通常、現実とは別次元の生(来世)へと配分される。だが本来、それをあてにして善き人になるのではダメなのである。


カントとのちがいは、仏教は、利他行の意図の純粋性を担保するためでは、まったくもってそうではなく、仏教のもつ元来世界否定的な傾向によって、来世の幸福による過度の埋め合わせへと動機づけられているということである※。大乗のオプティミスト・ラディカライゼーションによって、仏教はインド古来の思想へと還ってきてしまっている。これは思想的なオリジナリティの喪失であるが、大乗の特性として、固定的な存在論的階級ではなく、平等主義的な救済思想としてそうなのだということは、銘記しておかなければならない。


※ 来世でのより大きな善(=幸福)ではなく、現世での小さな善(=幸福)で満足しようとする人々にとっては、形而上学的法則へのコミットメントは、無力である。完全なる無神論者は世間では稀であるにしても、結局のところあるかどうかわからないより大きな善に頼って、人は生きていくことができない。現実主義の根本は、利己主義を容認することである。自分がやったことに責任を持つ覚悟のある人に文句をつける権利は、誰にもない。



仏国土における菩薩の特徴づけ(§1)


『無量寿経』の徳論は、〈無私、平等〉として特徴づけられる。その他、智慧、不動心など、理想化された特徴のほかに、「無所有(むしょう)」にまで高まった〈執着心がないこと〉が際立っている。これは、先に述べた派生的最高善のジレンマ、私が〈利他主義のパラドックス〉と呼ぶところの緊張を反映している。自らの利益を願わないことが本質的である。他に施しをするのは、彼らが溢れんばかりに満ち足りているではなく、それが本来の彼らの望みだからである。物質的に豊かであるかどうかは、純粋な善行たる菩薩行には、まったく関係がない。願望の充足は、他者のためになることをすることだと厳密に規定されている。「智慧の光と、白く純白で清らかな善い心」(95頁)しか持たないからである。


要するに、善行の報いとして得られた幸福は、自身の欲求の充足とはもはやみなされ。欲望はすでに捨て去っているのであり、これが純粋な善意志を体現するところの菩薩の本質的規定であるからである。それゆえ、そこには抑制された平安があるばかりである。


以上の、仏国土における菩薩の特徴づけは、理想化されているかぎりにおいて、現実世界の理想的な人格像として規定されている。このことは、どんなに強調してもしすぎるということはない。私の考えでは、かの国土に生まれ出た人が、このような卓越した人格を具えるのは、生まれ変わってそのようであるというよりむしろ、現世にあってそのようでということなのである。さもなければ、かの幸いな仏国土は、多くの信者にとって、身に余る幸福以外の何ものでもない。相応しくない恩恵に浴しているのであって、これは、善行の報いの不在と同じく、正義の目から見れば、甚だしく不正なことである。純粋な善行の報いとして、人々はそこに赴くのだということ。これが、かの仏国土に生まれるための、厳格な条件であると認識されなければならない


しかし、現実にはそうなっていないのである。『観無量寿経』における称名念仏による悪人の成仏が、浄土教の本質であると規定されたことによって、善行のではなく、主意主義的なが強調されたことは、浄土教の甚だしい堕落であると見なければならない。



義務倫理学的局面の徳論への回収(§2)


「真心こめて〈幸あるところ〉という世界に生まれたいと願う者は、智慧をもって明らかに〔道理〕に達し、徳の優れた者となるであろう。、経典に説かれる戒律に随い、他人に遅れをとるような人間になるようなことがあってはならない」(103頁)


善を欲し、悪を離れることを欲することが、「心の欲するままになる」というところまで、いかなければならない。このことと、「努力し精進すること」とのあいだには、微妙な緊張関係がある。当為とは、義務が命じるところのものと、自らが欲するところのものとの構成的な距離に基づくものだからである。カントは「いやいやながら」と言った。彼は義務の遂行において、煩悩(傾向性)をことではなく、ことを考えているからである。これに対して、「徳の優れた者」は、ところのものと(意欲する)ところのものが厳密に一致する。有徳者は、端的に、彼がすべきことをみずから意志し、実行に移すのである。


「諸仏国土の神々や人間たちは自然に善をなして、大きな悪事は決して犯さない。(それ故、かれらを)覚りに導くことは容易なのだ」(105頁)


『無量寿経』においては、仏国土に生まれること=覚りを得ること、ではない。阿弥陀仏の仏国土も含め、諸々の仏国土は、この世と地続きであり、仏国土での生は、おそらく人間の生の一部ないし延長上にあるものと考えられているのである。


「〔…〕かの仏国土では、なんとなく自然に皆が、さまざまな善を実行していて、毛筋ほどの悪もそこにはないのだ。この仏国土〔=この世〕で十日十夜の間善を実行すれば、他方の諸仏国土において千年間善を実行するよりもその方がすぐれているのだ」(120頁)


なぜかくも卓越した人格を具えるのかについては、前節で述べたので、ここでは繰り返さない。注目に値するのは、努力して、「いやいやながら」やった善行のほうが高く評価できると考えられていることである。義務の障害となる欲求(煩悩)が不在である場合には、賞賛に値するところの当為の努力も消え失せる。要するに、何も無いことになるのである。



善行が解脱の必然的な構成要件であることの証明(§3)


「大いなる道」(104頁)は、解脱への道である。「求道者の道」(105頁)をこれと同一視することによって、解脱は必然的に道徳論的な性質のものとなるであろう。これが大乗の本来もつ偉大な特性である。「慈悲の徳」(104頁)は直接には如来を特徴づける徳であるが、これが求道者の、したがって大乗の信徒の、本来的に持つべき徳であるということ。


「マイトレーヤよ、知れ。そなたは無数劫の昔から求道者の道を実行して、生ける者どもを救おうと願って来た。〔…〕そなたは今、自ら、生老病死の苦痛を厭うて離れるべきだ」(105頁)


『法華経』への注解で明らかにしたように、大乗仏教は、易行による解脱の正当化として、はるか前世の長きにわたる善根の積み重ねを仮定する。それによって、解脱のいわば最後の段階にあるものとして、すみやかな解脱が可能となっているわけであるが、このいかがわしい省略と、これが最初から無いと考えることは、まったく別のことなのだと知らなければならない。易行を直接に如来の慈悲に基づけて正当化することは、大乗の本質をまったく理解していないことなのである。


「人が自己を完成し、ひいては※、はっきりと願いを立てて、一生の間の苦しい努力はたちまちのうちに過ぎて、寿、快い楽しみは限りなく、永遠の覚りの徳と一つになり、生死の(繰り返し)の根本を永久に抜き去り、貪欲と憎悪と迷いの苦しみに悩まされることはないであろう。〔…〕」(105頁以下)


※「転相拯済」の訳(211頁)。漢文書き下しでは、「うたた拯済し」と読む。「ますます(次々と)救済し」の意であろうか。この読みは素人目に見てもおかしい。救いが相互的なのは教学的にはおかしいので、「相」を無視して読んでいるのである。現代語訳は「互いに」の意味でとっている。


他人を救うとは、他人に善を為すことである。善を与え、また善を与えられるという菩薩行の互恵的局面は、しばしば不当に無視されてきている。菩薩が神格化されてしまったことによって、善(救い)は一方的に与えられるものとなってしまったのである。それだけではない。これまでも書いてきたように、救いの主意主義的局面が強調されたことによって、結縁ということが、徒に重視されるようになってしまった。これは、本来不必要なことであって、なぜなら、仏と縁を結ばなくとも、善根を積み重ねて行けば、まさにそのことが原因となって、道徳的-形而上学的法則にしたがって、必然的に幸いなる生へと導かれるからである※。真実には、この幸いなる生へと、そのひとは自分で導いたのであり、他の誰かの恣意的な決断によって、そこに導かれるのではない。道徳と、その報いとしての幸福、また両者を結び付けるところの正義(法)とは、人間や神々、そして如来という存在をも、自立的な、それ自体として存在するところのだからである。


※ 仏教では、因果律を重視するとさかんに強調されるわりに、そのことを本気で信じている人は、ほとんどいない。道徳的-形而上学的な因果法則への介入は、いかなる場合にも、不正であるが、このことがぜんぜん認識されていないからである。年忌法要に見られるような、道徳的な収賄が平然と行われており、閻魔の袖の下に金銭をさしこむことによって免罪が可能になると本気で信じているのである。これはきわめて頭の悪いことであるというよりは、単純に性質の悪いことである。反対に、仏と縁を結ぶことが解脱の必要条件であるということから、善い人であっても、仏を信じなければ、報いとしての幸福なる生に浴することができないなどということが考えられている。というより、それさえあれば万事が解決するかのような口ぶりであり、わけのわからないことだが、あとは寛大なる仏の慈悲によって、善人も悪人も一緒くたにされて、仏にからめとられ、仏国土に救い取られるであろうなどと馬鹿なことを大真面目に考えている。ありえないことを本気で考えているのであり、ありそうでないことが真実であるとうそぶき、自分たちが絶対に正しいと根拠もなく確信して、立派なことはほとんど何もせず、死後は〈ほとけ〉になって、安楽な生活を夢見ているのは、ひどくおめでたい話であるが、一方では、それがただの夢にすぎないと気づかせて絶望へと転落させることは、ひどく無慈悲な、まちがった行いだと思われよう。しかし他方では、そのようにして彼らは、心理的な安定を得て、自分たちの無為に安住しているのであり、それこそがまさに諸悪の根源であると認識されなければならないのであるから、やはり不正なことは不正なことであるとはっきり指摘できる意志の強さを仏教徒はもたなければならない。


もし以上のようでないとしたら、どうしてこの箇所で道徳に関する因果応報を詳細に説いているのか、私にはわからない。実際、本節(第38節)の大部分は、サンスクリット本にその記述を欠き、したがって著者が相違しているわけであるが、思想的には一歩も二歩も抜きん出ており、趣旨も明らかに異なり※、またとりわけ『観無量寿経』における教説とは、明確な対抗関係にある。原始仏教とも、また後代の支配的な浄土教とも、重大な意味で質的に異なる思想であり、私の考えでは、大乗仏教の完成形がここに示されている。


※ 本経の聞き手は、もっぱらアーナンダであるが、この箇所だけ突然に聴き手が、求道者マイトレーヤ(弥勒菩薩)に変更されていることに注目せよ。このことからただちに、大乗の信徒=菩薩と考えるわけにはいかないが、少なくとも道徳論的教説が、求道者(菩薩)の心得を述べた箇所においてのみ出てきていることは、理由のないことではない。



五悪段への注解(§4)


「わたしは生ける者どもを教化して、五つの悪を捨てさせ、五つの現在の罪報と未来の悪法から離れさせ、かれらのこころをおさえつけて、五つの善を保持し、それによって、福徳や、完成や、長寿や、永遠の安らぎに到達できるようにしてやりたいのだ」(107頁)


「五悪段」は、現世での幸福追求を悪として規定する議論である。「五悪」とは、教義学的には、「殺生」、「偸盗」、「邪淫」、「妄語」、「飲酒」の五悪を述べたものとして単純化して理解されるが(これは浄土宗の見方であり、真宗では、仁・義・礼・信・智の五常に背くことであると解する)、しかし実態としてはもっと幅のある議論であり、利己主義の傍若無人さが悪として糾弾されていることが見逃されてはならない。※


※ なお、善をなすことと悪をなさないことは、事柄としては別であり、社会的には、善の奨励よりも、悪の抹殺がより差し迫った問題である。善(自身の幸福を含む)を志すかどうかは、結局はその人の問題である。その人がどうなろうと知ったことではないが、自分が害を受けることは、黙って見ていることができない。悪は抹殺されるべきものなのである。なお、「平安」をかきみだすのは、悪ばかりだというわけではない。不相応な作善は、時として悪と同等に対等な関係を障害してしまう。対等な人間間で、善をなすということは、本来、互恵性を。前提するのであって、目的とするのではない。したがって互恵的利他主義は、利他主義ではないのである。互恵性は、自体的に最初からあるものとして、行動の前提なのである。そうでなければ、一方的に利益を受けることは、利益ではなく負担となってしまうであろう。世間でも、もらったものだけ返すのが、礼儀であり、義理であると理解されているから、あまりに高価なものをもらうと、嬉しさよりも、当惑が先行する。


第1.他者に危害を加えることへの戒め


「第一の悪とは、神々たちや人間たちから地に這う虫に至るまで皆、さまざまな悪事をなそうとしている。。強いものは弱いものを征服し、互いに争い、傷つけ、殺し合い、互いに相手を呑みこもうとする」(107頁)


第一の悪とは、他者に危害を加えることである※。西洋の倫理学では、無危害ないし他者危害の原則として知られる。「殺生」は、その中の最悪のものとして、スペクトラムの極限に位置づけられるにすぎない。ホッブズと同様に、人間の自然状態ないし初期状態を、「万人の万人に対する闘争状態」にあると考えられている。ただし、ここでは人間社会においてそうなのであり、正しい法が社会に通用・支配していないという意味である。


※ 教学的には、第一悪は「不殺生」、ないし「仁」の戒を破ることと規定されるが、本稿は伝統的な解釈には従わない。


「人がもしこの中において、一心に心を制し、身を正しくし、行いを正しくして、ひとり、さまざまな善をなして、さまざまな悪をなさなかったならば、ひとりその人のみは脱れることを得て、福徳や、完成や、天上の生や、永遠の安らぎを得ることであろう。これが第一の大善である」(108頁)


最後に説かれる文句は、以下の第二~第五悪においても、おおむね同様である。第一悪では、他者に危害を加えることが悪として規定されたから、「第一の大善」はこの悪から離れることに関係している。ただし、その善の内実は、必ずしも明確ではない。悪をなさないことは、積極的な行いではなく、したがってそれ自体は善行ではないからである。浄土真宗は、第一の善を「仁」(思いやり、慈しみの心)と規定している。むろん儒教の影響を被った解釈であり、西洋倫理学的には、無危害の原則と善行(慈善・仁恵)の原則は、別の倫理原則であるが、危害を与えるかわりに、恩恵を与えると考えて、同一スペクトラムの両極として悪と善を具体的に規定しているのである。


第2.物に執着すること、他者の信を欺くことへの戒め


「第二の悪とは、世間の人々、父子や兄弟や家族や夫婦がすべて、法律に従わず、であり、好色であり、高慢であり、放縦であって、各々快楽を求め、行動し、互いに騙し合い、心と口がうらはらであって言葉に誠実さがなく、へつらいの言葉を口にするばかりで誠実な心はなく、言葉たくみに媚びへつらい、賢者を嫉み、をそしり、人を陥れようとする」(108頁)


教学的には、「不偸盗」、ないし「義」の戒を破ることと規定される第二悪。私は当該スペクトラムを物への執着として、そのひとつの最悪が窃盗であると解する。「富裕でありながら物惜しみして与えようとしない」こともまた、この悪に属する。根本にあるのは物への執着であるが、他者の信を利用して不当に利益を得ることが本文では前面に出てきており、かような他者の道具化は、それ自体として別個に悪として規定されるべきであるから、「物に執着すること、他者の信を欺くことへの戒め」とした。後者の最悪として、本文では君主への裏切りが例示されている。第二の大善を「義」と規定するのは、それへの反例であって、物への執着という観点が適切に反映されていない。第二の善は、物への執着という悪から離れることに関係している。具体的には、物を盗むかわりに、物を分け与えることだと考えられよう。そうすると、第一の善と見分けがつかなくなるが、第一の善では与えるという行為が考えられていて、それは柔和さを含む、他者に対する肯定的態度に基づく行い全般であるが、第二の善では、与えられる物の側に、とりわけ物質面での利益に焦点が充てられる。いずれにせよ、西洋倫理学的には、慈善(charity)として一括しうるものであり、仏教の側でこれに対応する概念は、布施である。※


※ 現代社会でも、一部の人々の間には、慈善行為に対する根強い反感が認められる。そのひとつのパターンとしては、「彼らは、本当は他人のためを思って慈善事業を行っているのではない。彼らはとどのつまり、他人から褒められたり、立派な人間だと思われたりしたいだけなのだ。彼らはおのれの自尊心を満たすために、他人のためと称して、自分のために行うのである。要するに、彼らは自分の利益のために慈善事業を行うのであり、彼らは他人から尊敬されたいという利己心に突き動かされているだけなのだ」。これは意地の悪い意見であるが、反論としては強力であり論駁が難しいことから、世間の怠惰な輩が無為に安住するための言い訳としてすこぶる役立っている。実際、この種のイメージの改善が、世俗的な慈善事業を推進する主たる原動力となっており、宗教的な動機づけが存する場合には、その根底に『自分が救われたい』という願望が存することは、にわかには否定しがたい。だが、帰結主義的な立場から、「少なくとも彼らが他人のためになることをしていることは事実であり、何もしない人よりはマシだ」という至極まっとうな意見が出されれば、無為に安住する人々は、偏屈な利己主義の殻に閉じこもってやりすごすしかない。恐らく善行の量を最大化するための最良の道は、利己主義をむやみに攻撃しないことなのである。仏典でこの問題をどう扱われるかというと、菩薩行は厳格な純粋利他行であるので、帰結主義の誘惑には屈していない。例えば『法華経』の序品で、マイトレーヤ(弥勒菩薩)が前世でヤシャス=カーマという名の菩薩であったとき、「人から尊敬されることを冀い、名声を博することを望んでいた」とマンジュ=シュリー(文殊菩薩)から諌められる場面がある。いかに偉大な神通力をもって、多くの衆生を救済したとしても、意図の純粋さを欠けば失格だと考えている。これは最初からそうなのであって、もしそうでなければ、私は仏教をカントと比較はしなかったであろう。そして『無量寿経』ではこうした菩薩行の根本が同時に実践倫理の原則なのである。


第3.家庭や社会の和を乱すことへの戒め


「第三の悪とは(次のようなことである)。この天地の間にけれども、かれらが生きられる年数はそんなに長いものではない。上は賢者や、資産者や、身分の尊い人や、富豪から、下は貧窮者や、賤しい者や、能力の低劣な者や、愚者に至るまでの(多くの)人々の中に悪い人がいて、常に邪悪な心を懐いている。ただを思うばかりで、胸の中は煩いで一杯になっている」(111頁)


教学的には、「不邪淫」、ないし「礼」の戒を破ることと規定される第三悪。本段の善悪のスペクトルは明確ではないが、性に関する愛欲が述べられている点が特徴的である。家庭や世間での和を乱すことを悪として特徴づけているようでもある。このことは必ずしも明確ではないが、家庭の不和の最悪のものとして、不倫が、社会の不和の最悪のものとして、マフィアのごとき悪党が考えられている。したがって本段の善を「礼」とするよりは、和(つまり助け合い、相互扶助)とするほうが適切であるように私には思われる。


第4.悪を助長することへの戒め


「「第四の悪とは(次のようである)。世間の人々は、善をなそうとは思わず、。かれらは二枚舌をつかい、悪口を言い、心とはうらはらなことを言い、お世辞を言う。人を中傷し、奪い、戦い、。善人を憎み、嫉妬し、賢者や智者を傷つける。(両親の傍らにいながら)夫婦だけの快楽を貪って、両親にをつくさない。かれらは、友人に対するがなく、誠実さは得られないのだ」(112頁)


教学的には、「不妄語」、ないし「信」の戒を破ることと規定される第四悪。本段の善悪のスペクトラムも、まったくもって明確ではないが、第三悪で述べたことが悪の側から特徴づけられているようにも見える。善をなさないことは悪ではないが、善をなさなくてもよいと他人をそそのかしたり、悪の道に誘い込もうとしたりすることは、たとえ自分では直接、悪事を働かなかったとしても、悪である。和とはポジティブな結合であるが、存在しないほうがよい、ネガティヴな同調もあると知らなければならない。ところでどうしてこの段が教学的には「不妄語」をもっぱら説いたものとされるのか。「妄語」という要素は第二悪でも出てきていたし、ここでも格別際立っているわけではない。どうして本段の戒が「信」とされるのかも理由が不明である。むしろこちらを「礼」と規定したほうがよい。


第5.道徳的な無為、あるいは怠惰であることへの戒め


「第五の悪とは(次のようである)。世間の人々はうろつき、身を修めたり、仕事をしたりするということを、家族や親族たちが飢えや寒さに苦しんだりするようになる」(114頁)


教学的には、「不飲酒」ないし「智」の戒を破ることと規定される第五悪。本段を「不飲酒」を説いたものとするのは、かなり強引な解釈であろう。放蕩息子を例にとっているので、内容はかなり儒教道徳の色彩を帯びているが、本質的には、道徳的な無為、怠惰であることが、第五悪の内容である。とはいえ、無為はそれ自体としては、悪ではない。無為を肯定するために、社会秩序や共通道徳を拒絶するようになると、第四悪と同様に、悪と呼ばれうるようになるのである。本段で教学が「智」の戒を引き合いに出しているのは、理由のないことではない。怠惰であるがゆえに、またそれに輪をかけて本性上無智な者は、善悪について小手先の弁証法をなまじ展開するくらいなら、いっそのこと何も考えない方がマシである。常識にケチをつけようとするならば、それ相応の用意がないと、ただの破壊行為に堕するからであり、またここでは現に自分の利益に沿った仕方で勝手な考えをでっち上げるのであるから、邪なのである。ただし、智者であっても行動が伴わなければ、道徳的な怠惰を帰結してしまう。だから本段のスペクトラム上にある善の理念は、(善への)努力(「精進」)であり、具体的には、勤勉さとか真面目さ、篤実さといった事柄である。


「かれらは古の聖人たちや〈目ざめた人〉たちの説いた、道を実行すれば人格の完成に至り得るということを信ぜず、死んで後に魂はさらに次の生をうけることを信ぜず、〔…〕」(同上)


以上に述べられたことを形式的に総括すれば、以下のようである。


悪の五つの局面

1.悪行を積むこと。

2.悪の原因:物に執着すること。

3.善の紐帯の破壊(集団の和を乱すこと)。

4.悪の紐帯を形成すること。

5.善をなさないこと。


善の五つの局面

1.善行を積むこと。

2.悪の原因たる執着を絶って、物惜しみしないこと。

3.善の紐帯の尊重(和をもって尊しとすること)。

4.悪への誘いに乗らないこと。

5.善に向けた努力。



総括


ようにしなさい。〔…〕そなたたちはこの世において広く福徳の根を植えなさい。恩恵を布き、、道に違背せず、忍耐と、と、精神集中と、智慧とをもって、次々に教化し、徳を積み、」(119頁)


菩薩行が仏教の実践倫理であるということは、わかりきったことであるが、きわめて重要である。ところが後代の支配的な浄土教の諸派では、解脱と善行とを切り離して、別々のものとして考えられるようになった。善行は、立派なことであって、如来の意に適うものとして重要なものであるが、解脱や極楽往生のための必須の条件とはもはや考えられていない。これは、すでに何度も強調してきたように、解脱は与えられるものとしての救いであって、人々はみずから自分の身を救うのではなく、如来と菩薩の超越的な力によって救われるのだという考えが支配的となったからである。世俗的なものとしての道徳を毀損しないまでも、その効力を奪って弱体化させ、卓越した意義を否認するような教説は、断じて受け入れられない。救われたいという望みはつねに信仰の根底にあるし、またあってしかるべきであるが、それしかなくなってしまえば、宗教はただ人間の悩みを静める精神安定剤のごときものとなってしまうであろう。積極的に善を実行することが要であり、救いとはその先にあるものだと考えなければならない。それは善の報いとして、道徳的-形而上学的法則に従って、善に次いで〈自然に〉継起してくるものだと考えるべきなのである。

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