『般若経』の批判的読解に基づく「空」の教説に寄せた補遺(2018/06/04)

生じたり滅したりするのは、そのように見えるだけだ。浄・不浄もまた、人間がそのように見るだけであり、そのものとしてあるわけではない。


現象論的な視点から見れば、この主張は正しい。ただし、そのことがただちに実体の否定を意味するという考えは、私には納得がいかない。


現象論は、元来、実体が存在しないとする立場でもなく、実体が存在するとする立場でもない。存在するとも、存在しないとも、いずれともしない立場が、現象論である。それにもかかわらず、この立場が、実体の存在の肯否と結びつくと、次のようなアンチノミーが生じる。


1.実体は存在するのであるから、生じたり滅したりする(ように見える)のは現象であり、実体的なものは、(永遠の存在であるがゆえに)生じることも滅することもない。


2.実体は存在しないのであるから、生じたり滅したりする(ように見える)のは現象であり、実体的なものは、(そもそも)生じることも(ないがゆえに)滅することもない。


いわゆる無生法忍の教説が、実体を肯定する側にも、否定する側にもあらわれてくるのは※、以上の理由に拠るのである。現象論の立場は、表面の言葉を変えずに、一字一句変えずに、実体を認めない立場から、実体を認める立場へと移行することができる。


※ 古代ギリシャの哲学者パルメニデスは、実体を側で、般若経とそっくり同じ議論を展開する。「どのようにして存在者が亡びることができよう、また発生することができよう。それがならば、し、未来にあるだろうというなら、やはりからである。こうして生成は消え、消滅はやむ」(ヒルシュベルガー『西洋哲学史 I 古代』67頁より引用)


空の教説は、生・滅、浄・不浄という術語を、思考しているという点が、肝要である。したがって、実体的なものに関するこの教説を、現象論的な視点と混同してはならない。そのようにすれば、どのみちただ理解不能なものとなるだけであろう。


現象論的な視点では、生・滅、浄・不浄について語りうるだけでなく、そのようなものとして。そのように見えるだけで、現象としても存在しないというのは、混乱した主張である。そのようにところのものが、現象論の対象であり、存在だからである。


、空の教説は、存在・非存在(無)という術語も、実体的なものとして思考している※。存在の否定に見えるものは、真実には、の否定であることに留意せよ。般若経が示す難解さは、実体的なものとして思考された術語で現象論を記述していることに起因する。


※ もっとわかりやすく言えば、「ある」ということばで考えられているのは、〈不生不滅の仕方で在る〉ということなのである。驚くべきことであるが、このことがわかっていない(存在と実体の区別がついていない)仏教哲学者は、意外と多い。ヒルシュベルガーはこれを存在という概念についての「原初的アルカイックな」捉え方だとしている。


近代以降の精神には、もはや当然視しうることであるが、実体的なものが存在する証拠は、現象世界には。実体的な性質がそこにということは、現象という概念規定からして、ほとんど定義的に真である。つまりこれは論証される真理ではない。


以上が、空の教説について述べられるべきであること、というよりそれが述べていることそのもの、である。われわれは述べられたことを超えて先に進みがちであるがゆえに、道に迷うのだということを知るべきである。


、空の教説は、現象論であり、現象(仏教では「色」と呼ばれるもの)とは何かについて解き明かすものであり、現象と実体の区別についての教説。それを超えて、実体的なものについて積極的に述べたものは、もはや空の教説ではなく、合理的論証を超えたものである。


真実の存在について述べたものは、実体形而上学であって、実体の否定の教説だとしてもそうである。現象的存在が真実在ではないと述べることと、真実在の無について述べることは、同じことではない。なぜなら、前者は現象論であり、後者は実体形而上学に関する主張だからである。


現象が実体ではないという真理から、真実在としての実体が存在しないということは、帰結しない。現象世界には真実在が存在しないということと、そもそも真実在など無いのだとすることは、まったく別の立場からする主張である。※


※ 真実在としての実体が存在しないという実体形而上学的主張を受け入れたうえで、現実世界における現象をどのように説明するかは、以上で述べたこととはまったく別の話である。実体(現象学的な言い方では「物自体」)を仮定しない場合、例えば、主観において(つまり頭の中の出来事として)夢と現実をどう区別するかが、大きな問題となる。これは、かなり常軌を逸した企てに見えるが、そのためのおそらく最良の道は、竜樹がしているように、現象の斉一性と整合性(広い意味での因果性)に訴えることであろう。現実では、夢と違って、死んだ人が蘇ったり、私がまったく別の人物になったりすることはない。ただし、これは経験的主張である。


現象論は、徹底した考究においてほとんど不可避的に、懐疑論ないし不可知論に行きつく。空(非存在)の教説は、確信にまで高まった疑いであり、したがって世界否定的である。


     *


以上に述べたことを受けて、『般若心経』をアレンジすると、次のようである。


「この世に存在するものは、5つのことから、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、口で味わって、心で感じたことから、成っているよ? けどこれらは、真実に存在するものではないよ? 真実に存在するものを、実体と言って、目で見たり、耳で聞いたりするものを、現象と言うよ? 現象から成っているこの世界に、真実に存在するもの(実体)はないよ?この教えを、空の教えと言うよ?


 真実に存在するものについて、あれこれ言うことはできないよ? 真実に存在するものは、見ることができないし、聞くことができないものだよ? 真実に存在するものは、……。真実に存在するのではないもの(現象)に、心とらわれて、追い求めたり、悲しんだりすることは、無意味だよ? この世に存在するわたしも、あなたも、真実に存在するものではないよ? それに気づいて、真実でないものから目をそむけることを、涅槃と言うよ?


 見ることができないものは、無いのといっしょだよ? この世に真実のものなんて何もないよ? この世にあるものはすべて、空だよ? これがこの世にある、ただひとつの真実のことだよ? 真実のものはないという真実だよ? ほかのことは、すべて真実ではないよ? だから、真実のことは、これですべて言いつくされた。」

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