プロトコルとしての『法華経』への批判的注解(2018/05/31)
総注
『法華経』は周知のメタ構造によって、それが説くところを幾重にもわたる布でくるんで、見えにくくしている。その覆いを取ると、この経が言わんとするところは、
(1)真実にはひとつの乗り物があるということ、
(2)如来としての仏陀の寿命は永遠であること、
この二点を数えるのみである。いずれも旧来の経典が説くところと異なる教えであるから、その正当化として、この経は、如来は教えを説く際に、
(3)巧みな方法(方便)を用いるということ、
このことを戦略的に説いた。それは衆生救済という目的を達成するための戦略であって、如来は、(1’)衆生救済のために、(2’)現世に留まって、(3)巧みな方法で教えを説くと考えるのである。
『法華経』の構成は、以下のようである。*は注解を省いたもの。
第 1: 序品(じょほん)*
第 2: 方便品(ほうべんぼん)
第 3: 譬喩品(ひゆほん)
第 4: 信解品(しんげほん)
第 5: 薬草喩品(やくそうゆほん)
第 6: 授記品(じゅきほん)*
第 7: 化城喩品(けじょうゆほん)
第 8: 五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
第 9: 授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
第 10: 法師品(ほっしほん)
第 11: 見宝塔品(けんほうとうほん)
第 12: 提婆達多品(だいばだったほん)
第 13: 勧持品(かんじほん)
第 14: 安楽行品(あんらくぎょうほん)
第 15: 従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
第 16: 如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)
第 17: 分別功徳品(ふんべつくどくほん)
第 18: 随喜功徳品(ずいきくどくほん)
第 19: 法師功徳品(ほっしくどくほん)*
第 20: 常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
第 21: 如来神力品(にょらいじんりきほん)
第 22: 嘱累品(ぞくるいほん)
第 23: 薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
第 24: 妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
第 25: 観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)
第 26: 陀羅尼品(だらにほん)*
第 27: 妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)*
第 28: 普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)*
注解
真実には大乗というひとつの乗り物があるだけだが、仏は「方便」として三つの乗り物があるかのように教えを説いたとされるのは、理解しがたい。
「方便」とは、批判的な読みでは、小乗から大乗への教義の発展を本質論的に正当化する議論であることは明らかであるが、内在的な解釈においても、仏はどうして当初からダイレクトに大乗の教説を展開しなかったのかという問題は残るであろう。
仏教が小乗という段階を経たうえで大乗へと展開してきたことが、教義の内実として本質的なことであるということが詳しく述べられなければならない。しかし、そのためのアイデアが『法華経』に見出されるかどうかは、疑わしい。
「方便品」では、方便の動機を首尾よく理由づける議論は展開されていない。如来の知恵は偉大であってその意図するところは凡人には理解しがたいとして、理由づけを神秘のヴェールの奥に押し隠してしまっている。これにより、理由へのアクセスを企てることは、何か不遜な企てであるかのような印象を読むものに抱かせ、批判を封殺する狙いがあるように見える。
「譬喩品」では、方便の正当性を強調するために、目的が正当であれば真実とは異なることを言っても人は嘘をつくことにはならないという、明らかにまずい議論が展開される※1。意図が善良であれば、行いに文句をつけることは邪道であるかのような印象を読むものに抱かせるであろう。このような仕方で道徳に訴える論証は、詭弁と言わなければならない※2。
※1 嘘とはたんに真実と異なることを言うことではなく、邪な目的のために真実と異なることを言うことだと規定している。(だから、「嘘も方便」というのは、実は不正確な言い回しである。)しかし、意図さえ善ければよいということになると、あらゆる禁忌が有名無実化してしまう。『法華経』はそのための非常にまずい先例をつくったことになろう。
※2 私見では、日本人の嘘をつくことに対する心理的なハードルの低さは、法華経の道徳的議論の影響を被っている。しかしながら、真実と異なることを言うことは、それ自体としては、罰せられるべき悪い行いであり、誰も間違ったことを真実だと言い立てる権利など持たないのである。
「信解品」では、声聞たちの意向は下劣であるとして、その修行を便所掃除に喩えている。声聞も仏になりうるという如来の発言を受けて、声聞は、自分たちは求めもしなかったのに、如来の蔵が得られたということが強調される。このことを強調する意図は、必ずしも明確ではないから、少し詳しく考察されなければならない。
1.ひとつには、自分たちの求めではなく、仏の巧みな手段による導きでそうなったのだと強調することで、仏の知恵の偉大さをたたえ、方便を擁護していると解釈できる。
2.同時にこれは、小乗から大乗への移行における仏陀の神格化を象徴する物語であり、それまで汚らしい恰好をして弟子に便所掃除をさせていた釈迦が、実は大金持ちであり、弟子は彼の実子であったことを証明しようとしていると見られる。
1について:「人間は仏になりうる」という可能性がこれまで隠蔽されてきたことに異議を申し立てる権利があったのは、当初の釈迦の教えに従って修行してきた声聞たちである。批判的な視点から見れば、仏の弟子たちへの段階的な教えの開示は、遅れて展開してきた大乗の教義に対する、小乗の側からの保守的抵抗運動に対して、絶対的な権威たる釈迦の口から彼らの不満を静めるための巧みな方法であったと理解できる。この試みが成功して以後、仏教では、証明とはでっちあげることだと考えられるようになってしまった。(むろん、証明とはでっちあげることではないし、弟子たちが「便所掃除」から始めなければならなかった理由は、依然としてよくわからないことである。)
2について:『批判』でも書いたように、より優れた果報によって「嘘」を埋め合わせようとする戦略は、どう考えてもうまくいっていない。真実にはすぐれた偉大な教えであるところのものを、劣ったものに見せかけて、小さな餌で釣ろうとするわけのわからない事態に陥ってしまっている。段階的に小さな目標から大きな目標に進むというように描ければよかったのであるが、そうはなっておらず、むしろ反対に、解脱は当初より容易なものとなっているのであるから、埋め合わせは不完全なものとならざるを得ないのである。※
※ いま私が問題にしているのは、便所掃除を取るか、金持ちの息子として裕福な暮らしを取るか、選択に迫られたときに後者を取るのは、当然の選択のように見えることである。それについて、経典には、次の二つの観点が見出される。1.いきなり金持ちの息子だと言われても、根っからの貧乏人は信じることができない。2.便所掃除から始めたほうが、財産の良い管理人になりうる。1は、自分を騙そうとしているのではないかと訝って、信じようとしないということであるが、これと似たような教示が『創世記』におけるヨセフと兄弟たちの物語に見出される。当時は厳格な階級社会であって、自分の身に余るものを取ることは、罪と考えられていたことに注意を払う必要がある。
「薬草喩品」では、雨水の喩えによって、如来の教えの本質的な同一性が強調される。個の素質と環境に応じて差異が生じてくるという議論であるが、これは決定論を誘発しかねない議論であり、そこからの跳ね返りとして、むしろ一乗の教説のほうが弟子たちを安心させるための方便であるかのようにすら聞こえる。父権温情主義と不可知論を基礎としているために、もはや何が正しい教えなのかよくわからなくなってしまっているのである。※
※「薬草喩品」の後半部(鳩摩羅什訳で欠けている部分)は、他の部分と明らかに趣が異なる。記述は明快ではあるが、その分深みがなく、不用意に単純化された議論が目立つ。
「化城喩品」では、声聞と独覚の二乗は真実の悟りに至る休憩地であるという正当化がなされている。それらは、あまりに遠い目標に意志がくじけぬようにするための小さな目標であるかのようであるが、この比喩についての記述はあまりに短く、かつ内実に乏しい※。前世の因縁についての物語は、悟りへの道があまりにも遠いことを示唆するために挿入されたものかもしれないが、この強調は衆生の救済とのバランスが取れないように思われる。
※「化城喩品」の記述の大部分は、仏陀と弟子の前世での因縁についての記述であるが、前世の物語と化城の比喩とのあいだには、直接の関連がない。全体として繰り返しが多く、混乱した印象がある。
「五百弟子授記品」では、声聞を小さな知恵、貧乏な暮らしと呼ぶが、これは「信解品」における便所掃除の比喩の主題と強い連関があり、この二つの比喩はともに仏陀ではなく、弟子の口から語られた比喩であるという点も共通している※1。 ここに見られるのは、大乗が小乗を切り捨てるのではなく、包摂しようと努力したことから生じる種々の問題であり、『法華経』はこれらをもっぱら仮想された前世での因縁によって解決しようとしている※2。
※1 衣服に縫い込まれていた宝石の比喩は、直接的には、前世において仏陀によって成熟させられた善根の喩えであり、「薬草喩品」における議論を補うものとも見られるが、偈ではその果報を五種の快楽として清貧を否定、「平安の境地は最高の安楽である」としている。このようなオプティミスト・ラディカライゼーションは、鳩摩羅什訳には反映されていない。彼が意図して反映しなかった可能性もあるし、原本の記述が異なることも考えられうるが、いずれにせよ、宝石の比喩は、「信解品」と同様、方便の正当化としては、やはりうまくいっていないのであって、最初から宝石が自分の手元にあることを気づかせないようにしたことにどういう意図があるのかは、ここでも依然としてわからないままなのである。
※2 仏の真意は実はこれこれだったということと、おまえの前世では実はこれこれのことがあったということは、パラレルであり、仏陀の神格化と同時に、弟子たちの神格化もまた生じているということが、重要である。
「法師品」では、『法華経』を聴いて一偈一句でも読誦したり、書写したりするだけで、その功徳として成仏しうると説かれており、一見したところでは、解脱のハードルが著しく下がっている。しかし、私の見るところでは、功徳は前世での因縁によって裏付けられたものである。その認識根拠については、記述がやや曖昧であるが、『法華経』の教えにふれる機会を持つことが、前世での因縁や請願によって生じると考えられているのである。※
※ 岩波文庫の翻訳者はここに至って、第九章までと『法華経』の説き方が明瞭に異なっているとしているが、私にはそのように考えるべき証拠となる記述は見当たらない。菩薩の特権的な地位については、第一章から記述は一貫しているし、一乗を語る上で前世での因縁を要請する仕方も、声聞の成仏を語る場合と異ならない。授記対象が声聞から菩薩に移行したので、記述に唐突な変化があるように見えるだけであろう。違和感を覚えるとすれば、これまで強調してきたような、声聞の冷遇がここにきて露呈するからである。菩薩の優遇に対する埋め合わせは、明らかにうまくいっていない。このこともまた、前世での因縁の差異を仮定することで技術的に解決できないわけではない。声聞を将来の菩薩であると見ることができるからである。しかし、それで批判者を説得できるかどうかは、また別の問題である。
解脱へのハードルを下げるとなれば、保守層からの反発はもはや避けられないであろう。解脱と同時に堕獄もまた容易になっていることが注目されるべきである。否定者に対して戦闘的とも言える厳しい態度を取るのは、『法華経』が厳しい戦いをくぐり抜けて市民権を得たことを示唆している。その戦いでいかなる武器が用いられたのかという問いに対する答えこそ、この経が仏の「巧みな知恵」と呼ぶところのものの真実にして実体なのであり、そうであるがゆえに、我々はこの経の背後に、現に生きて働く偉大な力を見るのである。
「法師品」における菩薩の特徴づけについて簡単に整理しておく。菩薩が一乗思想における中心的存在であり、解脱に最も近い存在として優遇されていることは、これまで書いてきたとおりであるが、ここではそうした自利の面ではなく、菩薩の利他的性格に焦点を当てたい。菩薩の原則的な優遇は、彼の前世での因縁ないし誓願によるものであり、そのようなものとして正当化される。後者は大慈悲とも呼ばれ、衆生救済の意思として本質的に利他的である。なぜならば、本当は解脱できたところを他者の救済のためにあえて現世に留まっているということが、誓願の本質であり、また彼がここにいる意味だからである。このような利他的な性質を帯びることにより、つまり道徳的な議論を介することで、初めて、合理的な仕方で、声聞や独覚に対する菩薩の優位を証明することができる。その正当化は厳密に言って、宗教的真理には依存しておらず、したがって菩薩という存在は、合理的な倫理学の視点からも模範と見做しうるような道徳的範型なのである。ここに、神秘的な能力によって自然の「法則」にアクセスしうる権限が付け加わることにより、地上に道徳の国が出現する。それは現実に欠けた面をおぎなうことによって成立する理念としての仮想的世界である。このような道徳的な完全無欠さが、菩薩をして地上の救世主あらしめ、したがって人々の信仰の対象となるのであるが、そうすることで、菩薩は誰でもない者、決して近づくことのできない理念的存在者として規定されてしまうのである。
「見宝塔品」では、仏陀の入滅後に『法華経』の教えを説くことがいかに難しいかということが、途方もない比喩によって強調されている。これは、「法師品」で見た、解脱のハードルの法外な低さを否定するための議論なのであろうが、明らかにうまくいっていない※。ところで、本章では、過去に入滅したはずの如来が生きて塔に座している様子が語られており、ここにすでに般涅槃(入滅)の捉え方が変化しているのを見てとることができる。
※「見宝塔品」においても『法華経』の写経や詠唱がなぜ難事であるとされるのかには、理由づけがまったく与えられておらず、それとはまったく関係のない事業と比較して難しいと断言されるのみである。この経の信奉者への致命的な迫害があるとすれば、むろん話は別であるが、そのような状況にないところでは、なぜそうであるのか理解に苦しむだけのドグマになってしまっている。
「提婆達多品」では、はっきりしない点が多いが、仏陀はそこで声聞と独覚のさとりを提婆達多に帰しているように私には思われる。この章の後半部は、提婆達多とは関係のない竜王の娘の話であり、竜王の娘の速やかな解脱をめぐって、理知的な疑念が生じている※1。前章と同様、「法師品」で見た、解脱のハードルの法外な低さがここでも問題となっているのであり、竜王の娘の変成男子をもって解脱の動かぬ証拠とし、批判を沈黙させている※2。
※1 プラジュニャー・クータ(智積菩薩)とシャーリ・プトラ(舎利弗)が竜王の娘の解脱に異議を唱えている。前者は「理知の頂」という意味であり、後者は釈迦弟子中、知恵第一と呼ばれる者である。他方、マンジュ=シュリー(文殊菩薩)は竜王の娘を擁護する側のようであるが、彼もまた仏教における智慧の象徴である。
※2 むろんこのような仕方でもって何かが証明されたとみることはできない。女人五障の説と変成男子は、信仰的には問題になることであるが、後者に関して言えば、第一義的には声聞・独覚に対する菩薩の優位を決定づける証拠として要請された説話内事実であるから、それ自体にさほど重要な意味があるとは思われない。
「勧持品」では、女人成仏と『法華経』の教えを広めることに対する不屈の誓願について語られている。前者は、悟りを開くのに男と女の区別がないことを意味する。後者では、間接的に、善人と悪人の区別がないことが示唆されている。しかし、悪人の成仏と、悪人が悪人であるところの所以である前世での善根の乏しさは、両立しない。そもそもすべての人の成仏は、たんなる題目であり、真剣には考えられていないように私には思われる。※
※ 鳩摩羅什は『汝等は皆、これ仏なり』という文を誹謗者から信者への軽口と捉えているようにも見える。要するに、『誰でも彼でも仏になれるというのは、おかしいよ? おまえたちは幸せ者だ。たいした修行もしないのに、仏になれるなどと愚かにも信じているのだから』という皮肉であり、解脱のハードルの低さに焦点が充てられていると彼は見ている。現代の訳者とは異なり、鳩摩羅什は、悪人に対して『汝等は皆、これ仏なり』と説くことが、いかなる緊張を孕むのかということを正確に理解していた。一乗思想の正当化として前世での因縁を持ち出したことで、解脱の成否に関する決定論的な見方が出てきてしまっているのである。『法華経』を受け入れるかどうかが、解脱の成否の認識根拠であり、また善人と悪人を峻別する唯一の基準であるという単純化した見方が支配的である。彼らには、自分たちが世の道徳的退廃の一因であるとは、思っても見ないことだろう。これが深淵な仏の知恵だというのか? 彼らは自ら進んで敵を作り出し、敵意をむき出しにするが、この敵意は、自分たちの心の中にある薄暗い感情の反映である。本来、自分たちに向かうはずの罪悪感を、彼らは外に向けるのであり、その源は、彼らがあまりにも何もしないで大きすぎる利益を取ることに根差しているのである。利他というものは、狭い次元に閉じ込められてしまい、自分たちが救いを求めるように、他の人達も自分たちの救いを求めるよう彼らが促すことが、彼らにとっての利他であり、他者の救済の意味するところである。これがすべてなのだとすれば、大乗仏教は『法華経』が成立した最初の時点からすでに道徳的に堕落してしまっていると見なければならない。
「安楽行品」では、これまで見てきたような『法華経』の戦闘的性格は鳴りを潜めるが、その根底には巧妙に偽装した排除の論理が横たわっている。戦わずして勝つ唯一の方法は、敵に憐みの目を向けて、自制心をもって、安全な救いの圏域の内部に留まることである。あまりにも高潔で、要求の高い戒律の記述は、畏敬の念を呼び覚まし、批判を沈黙させる。
「従地涌出品」と「如来寿量品」は、仏陀の入滅が方便であることを説話内事実によって証明する試みである。この事実は、受け入れるしかないものであり、偽装された断言であることは、誰もが見抜くところであろう。その意図するところは、私の考えでは、一乗思想の正当化にあり、声聞・独覚に対する菩薩の優位を決定づけることにある。
そのために、『法華経』は両者の善根の差異を仮定する※。 これは注文の多い仮定である。なぜなら、菩薩が前世で計り知れないほど長きにわたる修行を行って善根を積むためには、そこにすでに仏陀が存在して彼を教え導いていたと考えなければならず、そのためには、仏陀の永遠の寿命を要請しなければならない。元来、仏陀は輪廻を超越した存在であるとされてきたことから、入滅は実は嘘のことだとしなければならなかったのである。
※ 声聞、独覚、菩薩の三者を、悟りに至る段階と捉えうるような記述が「従地涌出品」に、声聞は、前世での善根に乏しい者であると明言したに等しい記述が「如来寿量品」にある。
大乗仏教の信徒は、すべて菩薩と呼ばれてしかるべきであるが、現状ではそうなっていないのは、次のような齟齬から起こってきたものである。一方で、前世での測り知れないほど長きにわたる修行と将来における修行を経て、菩薩は仏となり如来となるとされることと、他方で、『法華経』を読誦したり写経したりするだけでも成仏できるという教えとは、明らかに両立しない。ここに成仏をたんなる題目となすような曖昧な点が存するのである。結局のところ「ただちに仏になる」という確約は、信じることができず、実際には解脱は目標としてはあまりに遠すぎて、実践の現実的な動機とはなりえていないのである。
時間を超越したものとして描かれる仏陀と、将来仏であるところの、同じく時間を超越したものとしての菩薩の姿は、われわれ普通の人間の姿からあまりに乖離してしまっている。両者の神格化は不可避なことであって、人間はもはや大乗の信徒であっても自らを菩薩と同格とみなすことはできない。それは現実の彼岸にある理念的存在にまで高まってしまっており、範型的存在として、実践の目標ではあるが実際には到達することのできない理論的要請(理念体)と化してしまっているのである。
「分別功徳品」では、仏の寿命が無限であるとの教えを聞いて、一瞬でも信じた者には、無限の福徳があると説かれる※。これは信じがたい説であるが、おそらく考えられているのは、『愚かな者は一瞬でもその教えを信じることはない、厳しい修行を積んだ者だけが教えを信じることができる』ということであろう。もしそうでないとすれば、本章で述べられていることは、あまりに下品である。
※ またもや声聞・独覚の行う修行と対比されて、この経に帰依することの途方もない功徳が強調されるのであるが、注意すべき点は、ここでは、読経や写経などの実践ではなく、内面の信仰そのものが重視されているということである。第一義的に重要なのは信心であり、それに加えて、具体的な実践を行う者により多くの功徳があることは否定されない。ここでもまたやはり前世での因縁に訴えて、信心の第一義性が基礎づけられているように私には見える。『僧侶に布施をする必要はない、なぜなら彼らはすでに(過去に)そのようなことをしたからだ』というような仕方で。
「随喜功徳品」では、この経に帰依することの福徳が述べられており、基本となる趣旨は前章と同じであるが、ここでは教えを広めること(布教)の意図がより強く前面に出てきているように思われる。教えを聴くようにただ一人の人間にでも勧めれば、その人は将来にわたって種々の福徳が得られると説かれる※1。ここには自利と利他の交差が見られる※2。
※1 ただし鳩摩羅什訳ではそのようではない。福徳はあくまで勧められて法華経を聴いた側にもたらされると彼は解している。経では順次に教えを伝え聴いて、五十番目の人を例にとって福徳を述べているが、その意図するところはかなり曖昧である。伝言という仕方で教えをぼんやりと伝え聴いてもその功徳は失われないことを強調したかったようにも見え、聴くように勧めること自体に福徳があるかどうかは、実のところ確かなことではない。
※2 例えば、法華経を一瞬でも聴くだけでもかなりの功徳があるから、集まりに行くように人々を説得することはその人のためになることである、というような仕方で。折伏と呼ばれる熾烈な勧誘の背後には、自身の善根の積み重ねという自利の目当てが存している。
また、本章では、声聞・独覚が行う修行と並べて、他者に現世利益をもたらすという通常の意味での「利他」と引き比べて、『法華経』を聴くことの福徳が称揚されている。これにどういう意図があるのかは、厳密には不明だが、批判的な視点から深読みすれば、利他行(菩薩行)の内実を『法華経』の教えによる悟りの促しに限定する狙いがあると見られる。このことの是非は、さしあたって本稿では問題にしないが、『法華経』を聴くことの福徳の内実として、本章は現世利益的内容に言及しており、このことは、普通の人間が努力して行う(通常の意味での)利他行などは、『法華経』によってもたらされる現世での福徳には比べるべくもないと言わんとしているともとれる。要するに、現世利益そのものを切り捨てているわけではなく、むしろそれを介して、この経の偉大さを宣揚しているのである。
「分別功徳品」、「随喜功徳品」、「法師功徳品」は、いわゆる流通分(るずうぶん)の端緒として、法華経信仰の功徳を述べ、この経の布教に資することを目的とするのは明らかであるが、内容的に見て、あまりにも「楽」の教説に傾きすぎている。そこで語られている功徳の内容は、おおむね現世利益的であり、有利な者として生まれ変わることを肯定する向きがあることに対しては、護教的立場からも異論が生じてこないはずがない。下記に述べる展開を理解するためには、ここで述べたことをしっかり頭に留めておく必要があろう。
「常不軽菩薩品」では、冒頭で法華経の教えを誹謗する者たちへの呪いの言葉が語られている。誹謗者は無間地獄に堕ちると断言すること、本章の意図するところは、本来それ以上でもそれ以下でもないようにも見えるが、前章からの流れの中で、つまり法華経の流布というコンテキストにおいてこの言葉が語られているという点がおそらく重要である。※
※ 本章の聞き手は、マハー=スターマ=プラープタ(得大勢・大勢至菩薩)であり、彼は極楽世界の知恵第一の菩薩で、阿弥陀仏の弟子とされる。概して経典では、教えに関して理知的な疑いが生じてきそうな場合に、知恵第一と称される仏弟子や菩薩が聞き役として登場してくる傾向がある。
敵意むき出しの人間の言葉など、人は信じることはできない。悪もまた正しい言葉でもって近づいてくるのであって、まずは肯定的な面を述べて自分を受け入れさせて、信じる気にさせようとするところから始めるのが、促しの常套手段である。教えを信じなければ地獄に堕ちるなどという脅しは、批判の封殺を意図するというより、変装した罵詈雑言以外の何ものでもないと知るべきである。むろん法華経の著者はこのことを如実に心得ていた。
「常に軽んじられたが自らは誰も軽んじなかった男」の物語は、一見したところでは趣旨が不明であり、著しく難解な様相を呈している点で、他の取るに足らない物語や成功していないまずい比喩から際立っている。その男は、実は仏の化身であるとされることから、この物語に何らかの重要な意味が込められていることは疑えない。大きく分けて、二種の解釈の余地があり、いずれも法華経の教えを広めようとする際の問題点に関わっている。
1.法華経を広める者たちの受難を予想と、そこで彼らが取るべき態度
2.だが真実には、信者の不遜を戒める物語
1について:この物語には、菩薩行の批判者からの疑義として、『仏でもないのに、さとりを開くであろうという予言(授記)を授けるなんて不遜だ』という趣旨の発言が出てくる。この疑義は、『その男は実は仏の化身であった』という仕方で解決されている。というより、その解決を意図してこの形式が要請されたと見ることができるのであるが、いずれにせよこの「常に軽んじられる男」が法華経の流布という使命を背負う大乗の信者を代示していることは明らかである。「わたしは、あなたがたを軽蔑しない」という彼の発言の意図は、戦ってはならぬ、ただ淡々と教えを説くのみとの「安楽行品」の趣旨を反映すれば、比較的容易に理解される。具体的には次のようである。
「あなたがたを軽んじて、馬鹿な頭だと思って、こう言えば食いつくだろうと、見え透いた甘言を申しているのではありません。わたくしは真実を申し上げているまでです。わたくしは、断じてあなたがたを軽んじてなどいません。むしろあなたがたを心配して、心より同情して、あなたがたのためを思って、申していることなのです。」
これが善意を装った脅しと言うべきかはともかく、この解釈では、冒頭における堕獄への注記は、利他行の実践への根本動機を明示するために置かれたものと理解される。ただし、布教に当たって、『お願いだから信じてくれ』という言葉だけでは、どうしても通用しない。重要なのは、お互いの信頼関係の構築だからである。だがそれでは、法華経の流布は信者の狭い交友関係を超えて広がっていくことはできないであろう。実際この物語では、人々は男を信じられなかったのであって、そのせいで一度地獄に堕ちてしまっているのである。これは布教が失敗したということであり、この明らかな失敗すら「成功」にすり替えるような解釈は、まともな頭では考えられないように私には思われる。要するにこの解釈では、すべての衆生の救済は、真剣には考えられていないことになるのである。※
※ 純粋な善意の言葉を人は信じることができない。古代の文学では、しばしば近代以上に人間に備わった強力な利己的な性質が顔をのぞかせるのであって、純粋な善意に基づく陰ながらの行いは、仏陀が人望のない男に化体したというのもこれの一種であるが、無益な空振りに終わるのが常である。
2について:だが真実には、信者の不遜を戒める物語であるとも解釈することができる。地獄に堕ちるという呪いの言葉は、あまりに強力であって、それを武器としてふりかざすことを禁じる意図があるのかもしれない。仮に堕獄への恐怖を煽って人々を脅迫するようになれば、仏教はその時点でまともな宗教であることをやめたと断じて差し支えあるまい。偉大なる仏に帰依する者は、自己を過度に矮小化することによって、かえって人間の軽蔑へと容易に陥ってしまうのである。
仏の化身たる男が「わたしは、あなたがたを軽蔑しない」と大声を上げた意図は、まさにこのようであって、痛いところを突かれたと思って、聞かれもしないのに、不必要な言い訳で自己を取り繕い、真実には自分に言い聞かせるところの悲痛な叫びは、本当は他人を心から軽蔑していることからくる良心の咎である。人々は身を引き締めて、おのれの魂と真剣に向き合い、そうした後にはじめて、純粋な利他心に還ってくることができる。この必要なプロセスを抜きにして、おこがましくも救済者をきどるのは、軽口を叩かれても致し方ないことだと知らなければならない。現在の菩薩であり、また菩薩であることを意志する者は、かつて仏陀を軽蔑し、そのことで地獄に堕とされたことを知っている者でなければならない。物語はこのことを人々に追体験させるために、法華経の布教と似たような状況を仮想し、仏の弟子である信者を裏切りと破滅へと突き進むよう仕向けるのである。
「如来神力品」では、神通力を目の当たりにした人々が、如来に帰依する様が語られる。如来が現に存在しない時には、どのみちこういうことは起こりえない。仏が入滅した後に、いかにしてこの経典を護持するかということに力点が置かれるのは、このためである。
「嘱累品」では、仏陀が信者たちに『法華経』を教え広めるよう命じる様子が描かれる。※
※ なお、本章の配置は、サンスクリット語原典で一番最後に置かれる章が、漢訳でここに挿入されたことに拠っている。如来の寿命の永遠性についての教説は、元来、プラブータ=ラトナ如来(多宝如来)に即して語られるものであり、見宝塔品‐従地涌出品‐如来寿量品‐如来神力品‐嘱累品が物語の基本軸を構成している。
なおこの機に注記しておくが、『法華経』の叙述には、以下に述べるようなパラドックスが生じてしまっている。
1.法華経はテキストの中でそのように言及されるものとしては、いかなるものであるか、はっきりしないということ。これは『法華経』の再三再四の自己言及によるものである。本書とは別に法華経(正しい教えの白蓮)という経典が物語では想定されているようにも見えるが、叙述のまずさによってメタ構造が生じてしまっているだけとも考えられる。※
※ この経がなぜ「正しい教えの白蓮」という題を持つのかということも、依然として不明確なままである。ひとつの仮説として、もともとこの題を持つテキストが他にあり、それを元に成立したのが現在の『法華経』であると見ることができる。
2.シャーキヤ=ムニ如来の寿命の永遠性に関する教説は、この物語では先取り的な主題であるということ。法華経の仏陀は存命中なのであるから、彼の入滅が事実であるかどうかを問題にすることは、物事の順序から言っておかしい。だからこそプラブータ=ラトナ如来という別の如来を登場させて、さしあたっては彼の入滅について問題にしているのである。
「薬王菩薩本事品」では、「肉体を捨てる」という供養について語られている。具体的には、腕や足などを燃やすことであり、焼身自殺が最良の供養であると説かれ、その途方もない功徳が述べられる。このような狂った行いを教学がどのように処理するのか、私は知らない。基本的には、仏典において火焔は、煩悩の火であると解釈してよい。しかるに本章が如来の供養としての人身供犠について述べたものであることを否定するのは困難である。※
※ 本章は、記述がすべて散文である点で異質である。アミターユス如来(阿弥陀如来)への言及、また臆面のない現世利益の教示、比喩の操作の仕方など、これまでの大部分の章とは明らかに趣が異なる。聴き手の名前を不必要に連呼するのも煩わしく、説き方も情がない。本章の教説を指して、本章の仏陀は、「病に患って苦しみ悩む者たちに対する薬のようなものとなる」と述べていて、まさかとは思うが、病苦からの解放として焼身自殺を勧めるものではあるまいか。そこまで言わずとも、死こそ最良の薬だと述べたものであるように私には見える。本章の聴き手にして教えを委託されたナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャは「星宿の王者(月)によって神通力を発揮した者」という意味であるらしい。古代において月は狂気の象徴であることも、洒落としてはあまりに下品である。
「妙音菩薩品」の趣旨は、私にはよくわからない。老若男女、貴賤の別を問わず、法華経を教える資格があることを示したものか。※
※ この話の中で、ガドガダ=スヴァラ(妙音菩薩)が「プラブータ=ラトナ如来の遺骨を拝みたい」と言っているのは、奇妙である。後者は普通に発言もしている。この物語は非常に混乱していて、また混乱が作為的である。なお、本章もすべて散文であり、また儒教の影響が垣間見える。後代の付加と考えて差し支えない。
「観世音菩薩普門品」では、本菩薩を崇め敬うことによる現世利益について説かれる。このこと自体は、法華経とは何ら関係がない。「巧妙な手段(方便)」という語が一度だけ出ていて、その意味するところは、先の妙音菩薩同様、その人に応じて様々な姿で教えを説くことであると解せられる※1。ただしその姿を自分と重ね合わせるのは、不可能である※2。
※1 本章には韻文も付属するが、この記述が見られるのは散文の部分だけである。韻文では、アヴァローキテーシュヴァラ(観世音ないし観自在菩薩)は、すべての国土に身を現わすとするのみで、様々に姿を変えるとは説かない。
※2 人知れず行われたところの善行が、後に人々の知るところとなったとき、『かの人は観音さまの化身であったに違いない』とするのは、後代の説話によく見られる形式である。純粋な善意によって動くことは、人間としては、信じられないことであって、まさにそうであるがゆえに、純粋な利他行は、人間から見れば完全に受動的なものである。これがいわゆる「他力」の形式であり、原型であって、利他行は専門的な仕事として、一般の人々の生活とは切り離された領域に隔離されてしまう。要するに、偉大なる恩恵を受けているという意識は、自分では積極的には何もしないような、道徳的な無為を帰結するのである。というより、多くの人には、他者に善行を施すような物質的・精神的余裕は存在しないのであって、そのゆえに要求の高い道徳論は、彼らの良心を徒に掻きむしるだけのものとなってしまう。理想を現実から切り離すことによって、理想と現実のバランスを取っているのであり、真実に経が語るような現世利益がもたらされるかどうかは、本質的ではない。
補注
信者を災厄や悪漢から守護する呪文(陀羅尼)は、「陀羅尼品」と「普賢菩薩勧発品」に見られるが、実態としては、法華経の流布を障害する事象や、法華経の教えを誹謗する者への呪いであると知るべきである。
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