[設定] プロトコルA

芳野まもる

小説家というものが、通例いかに乱暴に文献を調査する生き物か、私は知っているので、もうちょっとまじめに、作業と向き合おうと私は考えた。何を読み、考えたかが重要である。最も重要な作業は、物を書く以前の段階に存在する。そこから、何を書くかが決まり、(書いた後で)自分が何を書いたかがわかる。創作はゼロからのスタートだと思っている人は、自分が何に影響づけられているか、たんに無自覚なだけであろう※1。


聖典類の注解であるが、私の見解は、伝統的な神学が述べる教説とは、著しく相違する場合が多々ある。それゆえ、信仰ある人が、自分の中にあるものを再確認したり、場合によっては強化したりするためには、私が書くものは、たぶん。私はそういう人たちに影響を与えたいと思っていないし、そういう人たちと議論したいとも思っていない。私はそういうことを目的にこの注解を書いたのではない。


もっぱら計画の一部として作成された文書だということは、あらかじめ断っておかなければならない。プロトコルAは、利他主義と因果応報説※2に定位した注解の試みであり、元来それ以上でもそれ以下でもない。私がこれまで書いてきたことは、すべてこのテーマをめぐっていたのである。



________


※1 日本人の思考に最も影響を与えたと思われる書物のひとつに『法華経』という書物がある。聖典類は――とりわけ仏教では、その信者ですら(!)——読まれるべきものとは考えられていない。だから、多くの人は自分が何によって規定されているのか、知らないまま大人になる。それゆえ、私がしていることは、ちょっと奇怪なことのように映るであろう。しかし、それ自体は、決しておかしいことではないのである。

※2 プロトコルA、及びBでは、「規範的な因果応報論」という言葉が繰り返し出てくる。それが意味するのは、に値するのは、なる者だけであり、そして、その結合を担保するもの(善と幸福を結び付けるもの)が、である、という主張である。これは、半分は私がカントから学んだものであるが、もう半分は、聖典との取り組みにおいて私がそこに見出した(発見した)ものである。正義という概念をこのような仕方で因果応報説の文脈で使用するのは、まったく普通ではない。この(善と幸福の)結合は、聖典では「神の国」(仏教では「仏国土」)に見出されるものであって、現実世界では存在しないものである。それをにすることが、われわれの政治的課題なのである。それが「神の国」をであると、私は解する。

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