第74話 黄昏のボールパーク
滅多に外出もしていない美悠紀だったが、今日は外へ出てみようと思った。
あの石碑を見てこよう。美悠紀はそう思い立つ。理由は明白だ。今朝方見た夢のせい。明寺ボールパークは魅力的な場所だった。それを伝えるのがあの石碑なんだ。
朝から降っていた
だから美悠紀は電車に乗った。総合運動公園までは二駅。駅前からのバスには乗らず、球場までの10分ほどを歩いて行く。
平日の運動公園は静かだ。体育館にはママさんバレーの練習に何人か集まっているようだが、野球場は人がいない。
小砂利の遊歩道を歩いて行く。
ザク、ザク。ザク、ザク。
美悠紀の砂利を踏む音が辺りに響いた。
別れ道に着くと美悠紀は野球場の方へ向かう。直ぐに野球場の正前に出た。
「変わってない・・・」
そう思うが、変わるわけもないと思い直す。でも随分と久し振りな気がした。
石碑も変わらずにあった。
「この一試合に全てを」
そうだね。記憶に刻まれた試合は全てそうだった。
美悠紀はあらためてこの石碑に込められた試合に思いを馳せる。
30年も前の明寺球場で、小さな偶然から組まれた一試合。その練習試合が多くの人たちの人生に少なからず影響を与えた。
野球が皆の気持ちを繋いで、石碑が出来ることになったんだ。
美悠紀は楽しそうに野球をする父の姿を思い浮かべた。しばらく石碑の前で空想に
「いらっしゃいませ」
閑散とした店の従業員が出迎えた。
「あの、今日は卵サンドありますか?」
「はい。ご用意できますよ」
美悠紀は卵サンドとオレンジジュースの食券を買って席に着く。
いつか健太さんと座った席。あの時は卵サンドを食べ損ねてしまった。売り切れだったんだっけ。食べられていたら良かったのに。
もうふたりで卵サンドを食べることは出来ない。いや、どんなものでもふたりで食べることは出来ないんだ。
そう思うだけで、また美悠紀は涙を抑えられなかった。
美悠紀は閉店近くまで空想の世界を
帰ろう。家に。他に行くところもない。美悠紀は運動公園の小径を歩き出した。
スパン!
スパン!
音が聞こえてきた。キャッチボールの音だ。
スパン!
スパン!
小気味のいい音。またお父さんがキャッチボールをしてるんだろうか。
でも今日はキャッチボールの音だけで、楽しそうな掛け声は聞こえてこない。
美悠紀は再び野球場へ、石碑のある場所へ足を向けた。
果たしてキャッチボールをしているふたりがいた。顔は判然としないが、それはやはりお父さんと青木洋一さんに思えた。
キャッチボールをするふたりの手前にひとり若者が立っている。キャッチボールの様子を見守っている。
その若者が後ろを振り向いた。にこっと、とびきりの笑顔で美悠紀に笑いかける。
「健太さん・・・」
また美悠紀が涙を溢れさせる。
「美悠紀さん、そんな顔いつまでもしてちゃだめだよ」
健太が言った。
「だって、健太さんが・・・」
「僕は幸福だった。野球があったことが幸せだった。そして美悠紀さんと出会ったことが幸せだったよ」
「そんな・・・そんなこと・・・」
「だから美悠紀さんも野球しようよ。おっと、でも美悠紀さんが野球をする場所はここじゃないでしょ」
健太が言う。美悠紀が答える前に夜の訪れとともに幻影は消えていった。
いい天気だ。今日は暖かく、風もない。秋の陽射しを浴びて
河川敷。足下に気を付けながら土手を降りていく。
「おせえよ」
栞が言った。
「ごめんね、だいぶ待たせちゃったね」
「お帰り。美悠紀」
「うん」
スパン!
スパン!
「それにしても、今更ここか?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
スパン!
スパン!
「またここから始めようと思ってさ」
「ここから始める?」
「だって、神谷さんと三井さん、春には卒業でしょ」
「そうだけど」
スパン!
スパン!
「2人が辞めちゃうと、打線がガタガタだね」
「まあ、そうだな」
スパン!
スパン!
「それ以前にさ。人数足りなくなっちゃうじゃない」
「確かにな」
「また新入部員探すとこから始めないと」
「ああ、そうか。大変だな」
スパン!
スパン!
女子ふたりのキャッチボールの音が秋の河原にいつまでも鳴り響いていた。
(ゲームセット)
黄昏のボールパーク 元之介 @rT9DgXb_32
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