第73話 兆し

 そんな頃、佐藤秘書が真藤家を訪ねた。

「御無沙汰しています」

佐藤が深々と頭を下げた。

「せっかく来て下さったのに申し訳ないんですが、誰とも会わないんですよ」

美悠紀の母が先に釘を刺す。

「私はあの時の自分を恥じています」

佐藤は切り出した。

「野球部の部長代理という役職でしたが、ビジネスライクにやっているつもりでした。それがだんだん高校野球の魅力に取り付かれて。甲子園で優勝するのが夢になった」

「高校野球ってそう言うものですよ。私の夫、美悠紀の父も甲子園で名を馳せましたし、私自身甲子園に夢中でした。美悠紀もそうだったと思いますよ」

 美悠紀の母が話す。

「いえ。美悠紀さんたちの野球は部活なんです。高校生活をより豊かにする、学業とは別の何かを得るための部活なんです」

 美悠紀の母は驚いたように目を見張った。

「私はあの時、泣き崩れる美悠紀さんを立ち上がらせようと、そして甲子園で投げさせようとした・・・まさに批判される勝利至上主義です。勝つことだけが目的じゃないのに。美悠紀さんにはそれ以上のことが起きたのに。そんなこと私にだって分かっていたのに・・・」

 佐藤はそう言って目を潤ませた。

「そんなに自分を責めないでください。それに、それこそ甲子園の魔力なんじゃないですか? 見失っちゃうんですよ」

「ありがとうございます。でも、その結果美悠紀さんはまだ・・・」

 佐藤はそう言って奥の部屋の方、美悠紀がいるはずの方を見た。

「大丈夫ですよ。美悠紀はもう直ぐ立ち直ります。青木君とはきっといいお付き合いだったんでしょう。受け止めるのに時間が掛かってるだけで、問題ありません」

 美悠紀の母は言ったが、佐藤には3ヶ月という時間が普通には思えなかった。

「私もそうでしたから。夫、真藤浩次郎を事故で亡くした時。茫然自失でしたよ、随分長い間。でも私には美悠紀がいた。歩き出さないわけにはいかなかった」

「でも美悠紀さんには・・・」

何もないと佐藤は言おうとしたが、それを遮るように美悠紀の母は断言した。

「野球がありますから。美悠紀には父から受け継いだ野球が。そして美悠紀の野球はチームのお友だちや他校のライバルたち、そして何より青木君とも繋がっていますから。歩き出さないわけにはいかないんです」

 佐藤は思わず涙を溢れさせた。

 

 美悠紀は夢を見た。

 スパン、スパンとテンポのいい心地よい音が響いている。そこは明寺球場だ。美悠紀はそこで誰か分からない若者たちと野球の練習をしていた。

 やがて試合が始まる。マウンドに立つ美悠紀。バッターは? 健太さん!?

 明寺球場は大観衆で埋まっている。応援の歓声が上がる。

 美悠紀に緊張が走った。青木健太はドラフト1位の呼び声高い左の強打者だ。

 さあ、何を投げる?

 美悠紀はキャッチャーをじっと見る。栞? ホームベース後ろに座るのは栞だった。

「何を投げる!?」

 栞の声が聞こえた。美悠紀は緊張からワクワクへ気持ちが変わっていくのをはっきりと感じた。

 今度は対戦する敵陣ベンチを見る。ベンチの前でバットを振るのは浅葱匡子だった。

 他に田中キャプテンと詩織ちゃんもいる。その横には仁藤慧少年が座っていた。なんでもありだな。

 そして美悠紀は守るバックを見る。ファーストには佳恵がいた。セカンドはお父さんが市議会議員のみずえだ。ショートストップはリトルリーグ出身の花蓮。サードにはブラジルハーフの百合子がいる。

 外野からも声が掛かる。神谷さん、三井さん、それと全然野球を知らなかった蓉子。私も全然知らなかったのよ。

 するとバッターボックスの青木健太があおった。

「さあ、来い!」

 きっと健太を睨む美悠紀。ワインドアップから腕を後方へ延ばす。ちらと見上げた空が星空なのは驚きだった。

 ナイターか・・・ダイヤモンドには心地よい夜風が吹いている。

 美悠紀は渾身の力でボールを投げる。シュートだ。

 これを健太が鋭いスイングで豪快にはじき返した。

「うわあ!」

 ボールの行方を振り返る美悠紀。外野の三井がボールを追って走り出す。

 いつの間にか3塁ランナーがいて、ホームに突っ込んでくる。

 美悠紀はキャッチャーのカバーに走った。

 三井からバックホームのボールが返って来る。

 美悠紀はハアハア息を弾ませながら顔を綻ばせた。

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