mudai

理性

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 ふとした時、深い絶望や無力感、無能感が湧いてくることがある。

 それは大抵一人の時にやってきて、僕の心に泥を塗って帰っていく。世界で一番汚れた僕の心は静かに沈んでもう二度と戻ってこれないような気持ちになる。

 でも、次の日になれば、なぜあの時僕は死にたくなっていたのか分からなくなる。この絶望から逃げるには寝るのが最適解なんだ。

 他にも逃避行する方法はある。酒、タバコ、薬だ。彼らが僕の身体の中に入ってくると、すうっと頭が軽くなって、そのまま心も軽くなる。時にはなんだか楽しくなることだってある。

 あとひとつは、誰かと過ごすことだ。誰かと過ごすと僕が絶望を感じていることを忘れることができる。

 いや、忘れるんじゃない。人前だと違う自分が出てくるからだと思う。つまり、絶望を抱いていない陽気な僕が出てくるからその間は死にたいなんて思わないんだ。

 しかし、誰かと知り合いでなければ、このようにして絶望から逃げ出すことはできないのだ。

 孤独というのはそれだけ僕を苦しめるのだ。どこぞの誰かが、人は一人でだって生きていけるなんていうけれど、孤独であればこの深い絶望から連れ出してくれる人はいないんだ。残るのは無機物が与える一時的な救いしかない。



   ***



 僕は帰宅すると、真っ先に制服を脱ぎ捨てる。

 締め付けられた身体は一気に解放され、息苦しさはなくなる。Tシャツと短パン姿で部屋の真ん中で大きく息を吸うと、やっと本当の自分が姿を現す。

 扉がノックされる音が聞こえると、そこにはお母さんが立っていた。

 「ちょ、あんたね!またそんな恰好して!もっと、、、」

 「なに?」

 お母さんが文句を言い終える前に用件を尋ねる。遮られたことに一瞬不満げな顔をしながらお母さんは用件を話した。

 「お母さん今から買い物いくけど、来る?ドラックストアいくよ」

 「あー、わかったちょっと待ってて」


 やっと自由になれたのにまた着替えて外に行かないといけないのか。めんどくさい、けどしょうがない。




 ドラックストアでお母さんが話しかけてくる。

 「あんた、今月はもう来た?」

 「んーん」

 「ああそう」

 「ん」

 スマホを見ながら答える僕。年頃の僕はこんな会話が嫌なんだ。ほんとは買い物についてくるのも嫌だったけど、しょうがない。ドラッグストアにいくんだもん。そりゃついていくしかないじゃない。

 

 ドラッグストアのレジには大学生くらいの女性がアルバイトとして働いていた。

 陶器のように白い肌、艶やかな髪は後ろでまとめられていて、耳にかけていた髪が落ちてくると彼女はすかさず耳にかけなおす。そのしぐさが何とも色っぽくて、僕はつい見とれてしまう。

 彼女のはっきりとした目が僕を捉える。彼女は僕と目が合うと軽く微笑む。

 とってもきれいな女性だったな。そう思いながら助手席に乗り込んだ。




 僕はお風呂が嫌いだ。鏡で自分を見ると自己嫌悪に陥るからだ。

 なんでこんな身体なんだ。もっと大きくなりたいのに、もっとごつごつしたいのに、、、

 本当の自分に対して、現実を叩き付けられているみたいで心が苦しくなる。やっぱり本当の自分として生きていくことなんかできないんだ。

 お風呂に入るたび暗い気持ちになる。それを明るくしてくれるのが、みゆの存在だった。

 僕たちは毎日のように電話をした。いつも遅くまで電話をしては他愛もない話で盛り上がった。となりのクラスのカップルが別れたとか、〇〇ちゃんが誰かの悪口をいってるとか、親がうるさいとか。


 みゆとはクラスも同じだった。いつも僕たちは一緒にいた。だからこそ、僕は自分の気持ちに気づいているけれど伝えられずにいた。

 僕の思いを彼女に伝えることによって、僕たちの関係が壊れてしまうんじゃないか。それならまだしも、そのことがみんなに伝わって、家族にも伝わって、周りの僕を見る目が変わってしまうんじゃないか。

 僕らしく生きて、僕の本当の気持ちを叫びたい。そういう思いは強い。日常生活の中で感じる不快感が自分の気持ちの大きさを物語っている。ときには監視カメラで見張られた檻の中、ときにはガムテープで口を塞がれたような、ときには制服のお化けに取りつかれて縛られているような、、、さまざまな形の不快感として僕の生きずらさは現れる。


 僕は学校、家、あらゆる場所で「らしく」いようとした。それは僕らしさとはかけ離れていて、みんなが求める「らしさ」というやつだ。

 なぜ僕らしさを出さないのかだって?僕らしさを出すことでどれほどの弊害があるのか予測できないからだ。また、その責任を負うことを僕ができるとは思えない。僕が僕らしくいることで誰かが傷ついてしまうのではないだろか。少なくともお母さんとみゆは僕に失望するだろう。そうして僕は僕を傷つけることになるだろう。そう考えると、らしく生きるより「らしく」生きているほうがいいに決まってる。

 そんなことを考えていると僕らしさというのはなんだろうと思う。本当の僕ってなんだ?僕が憧れる芸能人やインフルエンサーに近づくことが僕らしくいるということだろうか。それとも鏡に映る醜い僕が僕らしい姿ということだろうか。はたまたみんなの前の僕が僕本来の姿なんだろうか。

 どんなに髪型を変えて、洋服で着飾っても僕は僕のままだ。

 これからどんなに時間が経っても僕は僕らしさに近づけない。

 きっと僕の中にこうありたいという僕は確かに存在するんだ。でも、そうなることができないとわかっているからこそ僕らしさがわからなくなって、「らしく」いることが僕らしいという風に思っているんだ。




 太陽が沈んで暗く長い夜がくると僕の心も深く暗い沼の中に沈んでいく。

 まるで重くなった稲穂が首を垂れるように、身体から力が抜けて心がしんなりと垂れいく。

 そんな気持ちになることは珍しくない。部屋の明かりでは照らしきれない僕の闇が僕を包んで離さなくなる。どうしようもなく卑屈になったり、絶望に駆られて死にたくなったりする。

 この気持ちに抗おうなんて思ってはだめだ。闇に身を任せて静かに眠りにつくのを待てば望んでもない明日が来て、憂鬱は月と一緒にいなくなる。

 

 どうやら今日はそうもいかないらしい。目を閉じても瞼の裏にある暗闇が僕の意識を掴んで離さない。


 みゆが言った「男らしい人と付き合いたい」という言葉か。

 お母さんが言う「もっと女の子みたいな振る舞いをしなさい」という言葉か。

 先生が言う「同性を好きになることは恥ずかしいじゃないんだよ」という無責任な言葉か。

 ネットで「百合」というコンテンツが軽率に消費されているからか。

 活動家と名乗る人たちがわざわざ声高に人権を叫ぶからか。

 私には欲しかったものがなくて、欲しくなかったものがあるからか。


 ちがう!ちがうけど、どれもそうだ!


 どれも女としての僕を否が応に感じさせてくるけど、そんなのはいいんだ。そんなのはまだ十数年しか生きてない僕でも世の中なんてそんなもんだと受け入れてきたことだ。




 覚醒したままだった僕が御手洗にいくと、僕の目下には見慣れた朱殷しゅあんが。


 ああ、そうか。僕は私から逃れることなんかできないんだ。



   ***



 酒もタバコも薬もやった。それでもこの絶望から逃れられなかった。もちろん睡眠なんて満足にできたことなんてここ何年もない。

 現在、私は一人だ。一人だけど生きている。どこぞの誰かが言った、人は一人でも生きていけるという言葉はあっていたかもしれない。だけどわかったことがある。 

 孤独とは、一人であることではなかった。一人ぼっちだと自覚した時から私は孤独なんだ。

 私の周りにはたくさんの人がいる。家族、友達、会社の人達、隣人、スーパーの定員さん、いつもすれ違うおばあちゃん、窓から見える学校の子供たち。

 それでも私の心は渇いている。一人残されたこの部屋で私は孤独に生きている。

 

 ももを液体が伝う感覚がある。触って確かめるとそれは見慣れた朱殷だ。

 久しぶりのそいつは私が私であることを思い出させようとしているのだろうか。




 浴槽から見る朱い私のアイデンティティは広がって、排水口に吸い込まれていく。


 ああ、やっと僕は私から解放されるんだ。長かったなあ。

 

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