満月の約束

藍沢 理

満月の約束

 蝉の鳴き声が夏の空気を震わせる中、俺は古びたお寺の石段を一段ずつ上っていく。夏休み初日、とてつもない蒸し暑さで頭がぼんやりとしている。そんな中、毎年恒例の墓参りのため、親父と一緒に線香を買いに来ていた。


(はぁ……なんでこんな古臭い風習やらなきゃいけないんだよ)


 心の中でぼやく。俺みたいなスマホでゲームをしながら現代を生きる高校生には、先祖を敬うなんて概念が馴染まない。我ながら冷たいとは思う。けれど、それを口に出すと親父に怒られるのは目に見えていた。だから、不満を胸の奥に押し込めて、ただ黙々と階段を上る。


 石段を上り切ったところで、ふと視界の端に動くものが見えた。そこへ目をやると、三毛猫が俺をじっと見つめていた。その瞳は、妙に人間臭くて気味が悪い。まるで俺の心を覗き込む望遠鏡のような、そんな鋭い眼差し。思わず身震いした。


「おい、どうした?」


 後ろから親父の声に振り向く。


「いや、何でもないよ」


 前を向くと、猫は霧の中に溶けるように消えていた。まるで幻だったかのように。不思議な違和感が胸の奥に残る。


 首を振って階段を登り切り、線香を買うために案内所へ向かった。あの猫の目が、どこか懐かしいような気がしたのは、きっと気のせいだろう。でも、その違和感は簡単には消えなかった。


 帰り道、親父が何か話しかけてきたが、俺の頭の中はあの猫のことでいっぱいで、生返事ばかりしていた。そんな俺を見て、親父は少し寂しそうな顔をした。


「健太、おまえももう少しでいいから、町のことに関心を持ってくれたらなぁ」


 こんな田舎町に興味は無い。俺は東京の大学へ進学し、そのまま東京で就職する。


 けれど、親父の言葉が、心に刺さる小さな棘のように痛んだ。素直に応えることができない。変な意地を張っているのは分かっている。代わりに、ため息をつくことしかできなかった。親父との距離が、少しずつ広がっていく気がして、胸が締め付けられた。


 *


 その夜、俺は再び猫と出会った。


 満月の光が銀の帯のように窓から差し込む中、ベッドで横になっていると、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえてきた。カーテンを開けると、壁の上に例の三毛猫が座っていた。その姿は、月明かりを浴びたシルエットとなり、水彩画のように輪郭がぼやけて見えた。


 俺の部屋は一階だ。窓を開けると、猫はスッと部屋に入ってきた。そして驚いたことに、月の光を浴びた猫の姿が徐々に変化し始めた。毛が星屑のように輝きながら消え、体が伸び、そして……。


「びっくりした?」


 俺の目の前に立っていたのは、俺と同い年くらいの少女だった。長い黒髪を月の光に輝かせ、猫のような瞳で俺を見つめている。白いブラウス姿。その服どこから出てきた。などと余計なことを考えつつ、その姿は、まるで絵画のように美しかった。


 突然の出来事に、言葉を失った。目の前で起こっている光景が、現実とは思えない。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。これは夢なのか、それとも現実なのか、判断がつかない。


「……お前、何者だ?」


 声が震えているのが自分でも分かった。


「あたしはミケ。健太くんのお手伝いに来たの」


 俺の名前を知っていることに驚いたが、それ以上に目の前で起こっていることが信じられなかった。部屋の空気が急に重力を帯びたように、ねっとりと重くなる。


「お手伝い? 何のことだ?」


 俺の言葉にミケは不思議そうに首を傾げた。その仕草があまりにも人間らしくて、戸惑う。


「健太くんは、子どもの頃の大切なことを忘れかけているでしょう? 思い出すお手伝いをするの」


 その言葉に困惑した。子どもの頃? 大切なこと? 忘れてる? 俺には何のことだかさっぱり分からない。でも、ミケの真剣な眼差しに、妙な説得力を感じた。


「分からないなら、一緒に探してみない?」


 ミケはそう言うと、俺の手を取った。


 その瞬間、世界が万華鏡のように歪み始めた。目の前の景色が渦を巻き、強烈なGを感じる。意識が飛びそうになるのを我慢しつつ、ジェットコースターに乗っているように感じる。でも、不思議と怖くはなかった。ミケの手が、俺をしっかりと支えているような気がしたから。


 *


 目を開けると、見知らぬ場所に立っていた。古びた木造の家の中。そこかしこに古い年代物の品々が置かれている。壁には、色あせた家族写真。よく見ると、その中に見覚えのある顔があった。たぶん若い頃のひいじいちゃんだ。それに彼が抱いている三毛猫は……。


「ここは……」


「健太くんのひいおじいちゃんの家よ。でも、ここは六十年以上前なの」


 ミケの声に振り返ると、彼女は猫の姿に戻っていた。写真の三毛猫と同じ姿。状況が理解できずに、頭が混乱する。しかし、ミケがいるという事実が、なぜか心強かった。


 突然、部屋の外から賑やかな声が聞こえてきた。窓から覗くと、浴衣姿の人々が提灯を持って歩いている。夏祭りの様子だった。その光景は、俺の知っている世界とはかけ離れていて、まるでセピア色の映画を見ているようだった。


「これが、この町に伝わる夏祭りなの。でも、今はもう行われていないでしょ?」


 確かに俺の知っている限り、この田舎町で夏祭りなんて行われていない。子どものときにはやっていたが、いつの間にか中止になっていた。深く考えたことは無かったけれど、なぜだろう? そう思った瞬間、また世界が歪み始めた。二度目だ。今度は、さっきほどの戸惑いはなかった。


 *


 気がつくと、俺は自分の部屋に戻っていた。ミケも人間の姿に戻っている。月の光が窓から差し込み、彼女は幻想的な雰囲気をまとっていた。


「いまのは……夢?」


「夢じゃないわ。あたしの記憶と健太くんの中にある記憶の欠片を辿ったの」


 ミケの言葉に混乱する。俺の中にある記憶? でも、俺は生まれる前の出来事を見たはずだ。つまり、ミケの記憶と混じったものを見せられたのか? 一体どういうことなんだろう。頭の中が疑問で一杯になる。


「どういうこと? さっぱり分かんねえ」


 ミケは答える代わりに、俺の目をじっと見つめた。その瞳に吸い込まれそうになる。


「ひい婆ちゃんに会いに行ってみない? きっと、何か分かるはずよ」


 俺の中で、好奇心と躊躇が綱引きをしていた。近所とはいえ真夜中にひい婆ちゃんの家に行くなんて、普通じゃない。でも、今の状況は全て普通じゃない。結局、俺はミケの後について家を出た。


 真夜中の街を歩きながら、今の状況が現実なのか、それとも夢なのか、区別がつかなくなっていた。街灯の光が、いつもより幻想的に見える。ミケの後ろ姿が、月明かりに照らされてぼんやりと光っているように見えた。


 *


 勝手知ったるひい婆ちゃんの家。鍵は持っている。ひい婆ちゃんを起こさないようにこっそり中に入る。ミケは玄関に立たせ、俺は台所でどうしようかと思案する。


 ――スッ


 ふすまが開くと、そこにはひい婆ちゃんが立っていた。深夜にこっそり入って、なおかつ起こしてしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「あら、智くん。久しぶりね」


 ひい婆ちゃんは俺のことを、亡くなったひいおじいちゃんの名前で呼んだ。認知症が進んでいるひい婆ちゃんは、時々現実と過去を混同することがある。でも今回は、何か違う気がした。


「違うよ、ひい婆ちゃん。俺は健太だよ」


 ひい婆ちゃんは悲しそうな顔を浮かべる。その表情に、胸が痛んだ。


「そうだったわね。ごめんなさい。でも、あなたは本当に智によく似ているのよ」


 その瞬間、ひい婆ちゃんの目に涙が光った。


「智は、みんなのために……」


 言葉が途切れ、ひい婆ちゃんは部屋に戻っていった。何か大切なことを聞き逃したような気がして、もどかしさを感じた。智、つまりひいおじいちゃんは、一体何をしたんだろう? 疑問が次々と湧いてくる。


 台所を出ると、廊下でミケが待っていた。その姿が、廊下の闇にとけ込みそうで、少し不気味だった。


「何か分かった?」


「いや、全然。むしろ謎が増えた気がする」


 ミケは意味ありげな笑みを浮かべた。その笑顔に、俺は少し不安になる。


「じゃあ、次は地下室を見てみましょう」


「地下室? ひい婆ちゃんちにそんなものはないよ」


「あるのよ。ただ、誰も気づいていないだけ」


 そう言うと、ミケは俺の手を取り、家の中を歩き始めた。薄暗い廊下を進んでいくと、どこかで聞いたことのある祭りばやしが聞こえてきた。かすかだけど、確かに聞こえる。


「これは……」


 さっき見た夏祭りの時に聞こえていた祭りばやしだった。その音に導かれるように歩いていくと、今まで気づかなかった小さな扉が目に入った。古びた木の扉は、まるでそこにあること自体を忘れられていたかのようだった。


「ほら、開けてみて」


 ミケに促され、俺は恐る恐る扉を開けた。軋む音とともに開いた扉の向こうには、ほこりをかぶった階段が続いていた。暗闇の中に伸びるその階段を見て、俺は一瞬たじろぐ。でも、ミケの存在が俺に勇気を与えてくれた。


 埃っぽい地下室に降りていくと、そこには古い箪笥が一つ。月明かりが小窓から差し込み、箪笥の輪郭を浮かび上がらせている。引き出しを開けると、中から一冊の日記が出てきた。


「……」


 日記を開くと、そこにはひいおじいちゃん、智の文字が躍っていた。黄ばんだページからは、かすかに古い紙の匂いがした。その香りは、長い間封印されていた記憶の扉を開くかのようだった。


 *


 日記を読み進めるうちに、俺は驚くべき事実を知った。智は戦時中、この町の人々を守るために自らを犠牲にした。空襲の際、多くの人々を防空壕に誘導し、自身は最後まで町を見回っていたという。そして、彼の最期の願いは、戦争で途絶えてしまった夏祭りを復活させること。この祭りには、古来より町の人々の絆を深める力があるという。


 日記の最後のページには、こう書かれていた。


 ――我が子らよ。この町の絆を忘れないでくれ。僕は夏祭りの灯りが、再びこの町を照らす日を夢見ている。


 切なる思いが伝わってくる。胸が熱くなるのを感じた。今まで気にも留めていなかった家族の歴史、町の伝統。それらの大切さが、今になって痛いほど分かる。


 そして、自分の無関心さが恥ずかしくなった。


「これが、あたしがここにいる理由よ」


 ミケの言葉に、俺は彼女をじっと見つめた。そして、その瞳が智のものと同じだということに気がついた。写真で見た智の目と、ミケの目が重なる。


「お前は……いったい誰なんだ」


 その言葉にミケは笑みを浮かべる。その仕草に、人間離れした何かを感じ、背筋が凍る思いがした。


「あたしは、智の想いを受け継いだ者。健太くんに、大切なことを思い出してもらうために来たの」


 俺は日記を胸に抱きしめた。不思議なことに、恐怖は消えていた。代わりに、使命感のようなものが芽生えていた。それは小さな火種のように、俺の心の中で燃え始めていた。


「分かった。智の……ひいおじいちゃんの願いを、俺が叶えるよ」


 *


 それから俺は、高校の友達を巻き込んで夏祭りの復活に奔走した。最初は乗り気でない大人たちも、俺たちの熱意に押され、少しずつ協力してくれるようになった。


「健太、お前どうしたんだ? 急に町のことに熱心になって」


 親友の太一が不思議そうに聞いてきた。俺は少し考えてから答えた。


「なんていうか、大切なものに気づいたんだ。この町の歴史とか、みんなの絆とか」


 太一は首を傾げたが、「へえ」と言って笑顔を見せた。


「なら、俺も手伝うよ。結構面白そうじゃん」


 そうして仲間が少しずつ増えていった。町の古老たちからは、昔の祭りの様子を聞き出し、準備の手順を教わった。提灯の作り方、太鼓の叩き方、踊りの振り付け。すべてが新鮮で、どこか懐かしい。まるで眠っていた記憶が、一つずつ目覚めていくようだった。


 準備を進める中で、俺は町の人々の表情が少しずつ変わっていくのに気がついた。最初は無関心だった人々の目に、少しずつ光が戻ってきた。まるで、長い間忘れていた何かを思い出したかのように。その光は、かつての夏祭りの提灯の明かりのようだった。


 ある日、祭りの準備をしている時、ミケが現れた。


「順調そうね」


 俺は頷いて応じる。


「ああ、みんな協力してくれてる。でも、まだ課題はたくさんあるんだ」


 ミケは優しく微笑んだ。


「大丈夫。あなたならきっとできる」


 その言葉に勇気づけられた。同時に、ミケの姿が少し透けて見えたような気がして、不安になった。風に揺れる炎のように、その存在が儚く感じられた。


「ミケ、お前は……」


 言葉が途切れた。ミケは静かに頷いた。


「あたしの時間はもう長くないの。でも、祭りが復活するまでは、ここに留まるわ」


 その言葉に、俺は胸がぎゅっと締め付けられた。


 *


 そして、ついに祭りの日がやってきた。満月の夜。町は提灯の明かりで彩られ、太鼓の音が響き渡る。浴衣姿の人々が通りを埋め尽くし、屋台から胃袋を締め付ける香りが漂う。


 ひい婆ちゃんを車椅子に乗せて、俺は祭りの会場に向かった。すると、ひい婆ちゃんの目が輝きだした。その瞳は、長い眠りから覚めたかのようだった。


「あら、これは……」


 ひい婆ちゃんの記憶が、一瞬だけ鮮明に蘇ったようだった。


「智、見てごらん。みんな、楽しそうね」


 俺は返事をする代わりに、ひい婆ちゃんの手を握った。目に涙が浮かんでいるのを感じた。その涙は、時を超えた喜びの雫のようだった。


 祭りの最中、俺はミケを見つけた。人間の姿のミケは、しみじみとした表情で祭りを見つめている。


「ありがとう、健太くん。智の願いを叶えてくれて」


 ミケの体が、少しずつ透明になっていく。月の光に溶けていくようだった。


「もう、行っちゃうの?」


 俺の声が震えた。


「ええ。あたしの役目は終わったから」


 ミケは俺に優しく微笑みかけた。その笑顔は、どこか寂しげで、でも満足そうだった。まるで長い旅を終えた旅人のような表情。


「忘れないで。家族の絆、町の人々との繋がり。それらはね、目には見えないけれど、とっても大切なものなのよ」


 そう言うと、ミケの姿は月明かりの中に溶けていった。最後の瞬間、俺にはミケの姿が、ひいおじいちゃんの姿と重なって見えた気がした。


 俺は深呼吸をして、祭りの喧騒に身を委ねた。心の中で、ミケと交わした約束を噛みしめる。


 この不思議な体験は、きっと俺の人生を変えるだろう。怖いような、でも温かいような。そんな気持ちを抱きながら、俺は祭りの中、ひい婆ちゃんの車いすを押してゆく。


 頭上では満月が輝いている。その光は、かつてないほど優しく、町全体を包み込んでいた。まるで、智――――ひい爺ちゃんとミケが見守っているかのように。




=了=

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