動く手首を送る
神谷カラス
小さい頃に砂場で遊んでいると、ふとした瞬間に自分の左手に違和感を感じたことがあった。何で僕の手はこういう形をしているんだろう。もちろん、指の長さや太さなどの細かい違いはあるけれど、別に親兄弟、他の子、先生たちなどと違う形をしているわけではない。しかし、自分の手首から上、指先まで見ていると、何だか不思議な気分になって、なぜこんな形で、ちょっと醜い、不細工な手なんだろうと思っていた。多少の気味悪ささえ感じていた。
成長していく中で、時々そういう事を感じていたが、そのような違和感も薄れ、大人になり、仕事に就くようになると、「あぁ、あれは幼き日の幻影、ゲシュタルト崩壊のような現象、勘違いだったのだ」と思うようになった。それから数年、もうそのことについて考えるようなことはなくなっていた。
僕が体を壊し、休職したのは今年の6月に入ってからのことだった。別段若くもなく、年寄りでもない。僕の感覚ではそうだったのだが、周囲の反応を見ると、若いのに残念だとか、働き盛りなのに、という声が聞こえた。私はそういう声を耳にすると、体調を崩す前に、病院に行く前に休ませてくれればいいのにと思っていた。思うだけでなく、休ませてほしいといったのだが、職場の忙しさを盾にやんわりと断られているようだった。こういうのも全体主義の一つなのだろうか。今の流行りでいえば同調圧力か。どうでもいい。今は休もうと思った。一か月、長ければ三か月は休むことができる。病状次第では実家に帰ろうと思っていた。今の仕事を辞めて、別の仕事をするのもいいかもしれない。父や母は何というだろうか。別に昔から僕に特別の関心を寄せている人たちではないから、とやかくはいわないだろうし、僕への愛情が無いわけでもないから、色々と許してくれるだろう。とにかく眠ろう、僕は布団へもぐりこんだ。
7月の半ば、風邪をひいた。動くのが怠かったので、一日中眠っていた。とりあえず塩分補給のタブレットと麦茶の2lペットボトルを枕元において過ごしていた。時計を見ると深夜2時ごろになっており、もう真っ暗になっていた。昼間も基本的にカーテンを開けていないので暗いのだが、電子機器の小さい明かり以外はもうなにも見えないくらいだった。喉が渇いたので、ペットボトルを右手で取った。しかし、もう中身は空だった。僕は起き上がろうと左手を支えにした。しかし、僕のその意識だか無意識だかの期待ははずれ、倒れこんだ。
一体何が起こったのかわからなかった。眩暈のようなものかと思ったが、そういうわけでもなく、風邪も治ったのか、意識ははっきりしている。僕は右手を支えに立ち上がり、灯りを点けた。テーブルの上で何かが動く気配がしたのでそちらへ目をやった。
手首が、僕の左手首が動いていた。
そこで私は本当に眩暈で倒れそうになった。しかし、何とかこらえて自分の左手のあった部分を見ると、モザイクをかけられたように黒い靄がかかっていた。触れる勇気がなかった。僕は僕の左手だった部分の様子を窺うことにした。
どうも彼(ここからは便宜上、彼ということにする)は、冷蔵庫を開けたい様子だった。テーブルから30センチほどしか離れていないが、左手だけではどうしようもない距離ではある。僕は憐れな気持ちになって、彼に近づいた。
彼は僕に気が付き、震えた。テーブルの上に積まれた資料の影に隠れてしまった。僕は冷蔵庫を彼に見えるように大きく開けた。何かが欲しかったのだろう。しばらくすると、その意図に気が付いたのか、彼は姿を現し、恐る恐る人差し指で指さした。どうも麦茶が欲しかったらしい。僕はコップを取り出し、麦茶を注いで彼に差し出した。すると、彼は僕の方を指さした。どうも僕に飲ませたかったらしい。
そこで僕は初めて笑ったと思う。彼もそれに気が付いて少し体を震わせた。心なしか血色もよかった。
風邪から回復した僕は空腹をおさえるためにすぐに素麺をゆで始めた。この部屋を借りてから初めて二人分の用意をした。どうすれば食べやすいのかわからなかったので、シチュー用の白い耐熱皿に麺をいれて、ショウガと乾燥ネギを混ぜためんつゆをかけて彼の目の前に出した。僕が自分の分の準備を終え、席に着いてから彼は食べ始めた。僕より余程礼儀正しく集団生活に慣れているように見えた。彼の食事の仕方を描写しようかどうか迷ったのだが、やめておこうと思う。我々の想像の域を出るものではないし、各人の想像にお任せしよう。他人の食事の仕方を無闇に描写するのは彼に悪い気がした。
食事を終えて一息ついた後、少し手持ち無沙汰になったので、僕はオセロを取り出した。できるのかどうかわからなかったが、何となく挑戦したくなった。彼は嬉々として僕と遊んでくれた。知性は私よりも高く、私は三戦して二敗した。
僕は急に眠たくなって、微睡んだような気がする。風邪で消耗した体力がまだ完全に回復していないのもあったし、不思議な安心感が僕を包んでいたのだろう。彼の方はと言えば、特に動くこともなくテレビ(通販番組)を見ているようだった。
意識が一瞬途切れ、気が付いた時にはテレビは消えていた。そして彼もテーブルから消えていた。僕はあわてて彼を探す。すると、布団の上にちょこんとのっているのが見えた。僕は安心したが、どうも様子が変である。どこか清澄で神聖な雰囲気が漂っている。いつの間にかカーテンが開いていた。僕が近づくと、彼も僕の方を向いた。
ぺこり、と器用に手全体を動かして礼をしたように見えた。
その瞬間、青白い光が部屋全体を包み込んだ。彼はいなくなっていた。
たぶん、幻想だったのだろう。
僕は翌日の昼食に、また素麺をゆでながら思った。疲れが、夢幻を見せた。幸せな夢だったから、夢占いを探っても吉兆に違いない。一人テーブルに座り、箸を手に取ろうとした瞬間、彼を思い出した。
「ありがとう」
僕は二つの掌を合わせた。しばらくするとぬくもりと安心を感じた。人類の多くはこうやって祈ったのだろう。何を祈ろうか、世界平和か。いや、まずは体力の回復か。南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ‥‥‥‥。
知っている呪文を幾つか唱えた後、目の前の少し伸びた素麺を見た。
「いただきます」
合掌をほどいて、僕はいつもよりも楽しく食事を始めた。
動く手首を送る 神谷カラス @kamiya78
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