八月の空

クロノヒョウ

平和の使者






 幽霊が怖い、虫が怖い、雷が怖いというように、人にはそれぞれ何かしら怖いものがあると思う。

 これを言うといつも不思議がられるのだが、俺が怖いと思っているものは「影」だった。

 建物の影はそれほどではないのだが、一番怖いのは人の影だ。なぜか小さい頃から自分の影を直視することができなかった。見ると影に吸い込まれそうな、影に襲われそうな、そんな感覚が身体中に押し寄せてきては胸が苦しくなるのだ。

 だからといって困るようなことはなかった。小学校の頃の学校帰りにいきなり「影を踏まれたら負け」なんて遊びが始まると俺は必死になって逃げ帰っていた。困ったことといえばそれくらいだったろうか。

 そのうち怖くなくなるだろうと思っていたのだが残念ながらそうはならなかった。中学生、高校生になると人の影に対する恐怖心は少しずつだがさらに大きくなっていった。全校集会や体育の時間の影だらけの校庭。体育館などの建物の中は平気なのだが、お日様の下の影はきついものがあった。太陽が照りつける中、影を見ないようにと俺は青い空ばかり見上げていた。


 高校生になったばかりの頃、学校に行くこと以外の晴れた日には外に出ないと心に決めた。家で音楽ばかり聴いていた。J-POPに飽きると洋楽を聴き始めた。洋楽のポップスを古いものから順に聴き始めた。オールディーズと呼ばれるもの、ブルースと呼ばれるもの、R&B、それからロックンロールとくればエルビス・プレスリーにビートルズ。英語は大の苦手だったが、気になった曲はネットでその歌詞の意味を調べたりして洋楽ポップスの世界にどっぷりと浸かっていった。そしてまさか、同じクラスに同じように洋楽が好きな奴がいるとは思いもよらなかった。牧田くんと意気投合して洋楽の話をしながらバンドでもやろうかと冗談まじりに盛り上がっていた。盛り上がっていると同じく音楽好きが集まってきて四人になり、おもしろいほどとんとん拍子に本当にバンドを結成することになった。俺がボーカルで牧田くんがギター。安藤くんがベースで森くんがドラムだ。

 まずはそれぞれの好きな洋楽をコピーしてみようということになり、俺は大好きだったマイケル・ジャクソンの「Heal The World」という曲を提案した。曲もそうなのだけど、その歌詞に心を打たれたのだ。世界を良くしよう、僕のため、君のため、子どもたちのために、という歌詞がとにかく好きだった。そしてベースの安藤くんが提案した曲がCCRの「雨を見たかい」という曲だった。もちろん知っている曲だったし好きな曲でもあったけれど、歌詞の意味を考えたことはなかった。そこで俺はすぐにこの歌詞の意味を調べてみた。その時の衝撃は今でもよく覚えている。直訳すると、晴れた日に降る雨を見たことがあるかい、という意味なのだけれど、この晴れた日の雨とはナパーム弾のことだと解釈されていることもあるそうだった。ベトナム戦争で使われたミサイルで、諸説あるみたいだけれども、この曲は反戦歌といわれているらしかった。このことを知った上で曲を聴いてみると涙が止まらなかった。明るい歌だとばかり思っていたのにこんなにつらい歌だったなんて。

 そんな時だった。世界のどこかで戦争が始まったというニュースが流れたのは。

 その日の夜、俺は夢を見た。すごく恐ろしい夢だった。

 俺はまだ子どもで、どこかわからないが田舎にいるようだった。背の高いビルなんてなくて、木造の一軒家が並ぶのどかな場所にいた。家の庭のような場所で砂遊びをしているようだった。すると突然激しいサイレンが町中に響き渡った。慌てて走り出す大人たち。大人たちは皆頭に頭巾のようなものをかぶっていて農作業をする時のような格好をしていた。場面が変わると辺りは真っ暗になっていた。そしてキーンという耳鳴りがして耳が痛かった。目を凝らした。暗いのは黒い煙のようだった。煙が薄くなってくると辺りに人がたくさん倒れているのが見えてきた。泣き声やうめき声が聴こえた。そして倒れた人たちは皆ケガをして血を流していた。まるで地獄絵図だった。

 目が覚めると俺は涙を流して泣いていた。まだ怖さを感じていた。幸せだった日々が一変して悪夢となったのだ。恐ろしさで布団の中で震えていたのを覚えている。

 これを機に俺は似たような夢を何度も見るようになっていた。時には燃え盛る町の中を逃げまわっていたり、体にやけどをおっていたり、炎で熱くて喉が乾いてたまらなかったり。そしてそれはどれも幸せな日々が一変して起こる惨劇であり恐怖であり、目を覚ますと俺はいつも泣いていた。夢を見るのは決まってテレビやネットで戦争のニュースを目にした日だということにも気づいた。だから俺は自然とニュースを見ないように目を背けるようになっていた。


 偶然とはいえ、俺が提案した曲も安藤くんが提案した曲も平和への願いが込められた曲だったということもあって、俺たちはバンド名を「平和の使者」と名づけた。そしてボブ・マーリーの「ONE LOVE」だったりボブ・ディランの「風に吹かれて」などの反戦や平和への願いが込められた歌だといわれている曲をコピーしてライヴをするようになっていった。

 高校を卒業すると俺たち四人はそれぞれ大学に進学したり就職したりと別の道を歩き出したが、お互いに時間を作って「平和の使者」だけは続けていた。俺は相変わらず影が怖いということもあって大学には行かず、オンライン作業の多い職場に就職した。晴れた日に外に出る時は必ずまっすぐ前か、空を見ながら歩いていた。青い空はいつ見ても綺麗だった。空を見るとあの「雨を見たかい」の歌詞が頭の中をよぎる。もしも今、この綺麗な空から雨が降るようにミサイルが降ってきたらと考えると、影が怖いのと同じように恐怖が襲ってきて胸が苦しくなった。何度もみたあの夢のような惨劇は見たくない。逃げ回る人々、泣き叫ぶ人々、焼けるような熱さと苦しみ。真っ暗になるほどの黒い煙と黒い空。空は青くないといけないのだ。俺たちがこの綺麗な空を守らなければならないのだ。みんなのため、子どもたちのために。

 そんなことを思いながら過ごしていたある日、牧田くんが「そろそろ俺たちもオリジナルソングを作って売り出そうぜ」と言いだした。四人とも大賛成だった。楽器ができない俺が必然的に歌詞を考えることになった。テーマは当然平和への願いだ。だが歌詞なんて書いたことも考えたこともないからどうすればいいのかわからなかった。「ただ素直に思ってることを書けばいいんじゃないの」と笑顔で言ったのは牧田くんだった。それからは仕事の合間をぬっては常に思ったことをメモする日々だった。


 戦争はよくない。人を傷つけるのはよくない。どうして人と人とが争わなければならないのか。争ったところで何も残らない。残るのは傷ついた心と体だけ。この建物や美しい景色を壊してまでやらなければいけないことなんて何もない。人々の、子どもたちの笑顔を奪う権利は誰にもない。戦争はただ全てを破壊するだけの恐ろしいものなのだ。この綺麗な青い空までも破壊してしまうのだ。


 季節が夏になった今、小学生以来会っていなかった祖母が亡くなったとの知らせをうけ、俺は母と二人で祖母の家に行くことになった。九州のその地方では自宅にお坊さんが来てお葬式をするとのことだった。久しぶりに集まった親戚たちと挨拶を交わしお経を聞いたあとは食事会だ。話題は一番若い俺に集中した。「大きくなったな」「今何をしているの」「彼女は」などのお決まりの質問攻めにあっていた。

「そういえばカズくん、影が怖いって言ってたの、あれはもうなくなった?」

 突然母の姉であるユキエ伯母さんにそう聞かれた。

「ああ、ううん、まだ怖い」

「そっか」

「影が怖いからって外に出なくなってね。今はバンドなんかやってるのよ」

 母が笑いながら皆の前でそう言っていた。

「影が怖いだって?」

 驚いたような顔で俺を見てそう言ったのは、ほとんど会ったこともなかった祖母の弟だという大叔父さんだった。

「うん」

「他には? 影が怖いだけか?」

 前のめりになりながら聞かれた俺は少し考えてから言った。

「特に人の影がダメで、影を見ると吸い込まれそうで胸が苦しくなって。あとは、戦争のニュースとかを見ると必ず怖い夢を見るんだけど」

 俺は何度も見ていたあの恐ろしい夢の内容を話して聞かせた。

「だから戦争は怖いなって思って、反戦とか平和を願う歌を歌ってる」

「ふむ」

 長いテーブルを囲んでいた十数人の人たちが静かになり、俺と大叔父さんは注目されていた。

「もしかするとお前さんは前世の記憶があるのかもしれんな」

「は? 前世!?」

 突拍子もない言葉に俺も皆もきょとんとしていた。

「あるいは原爆にあった者の記憶がのりうつっているのかもしれん」

「原爆?」

「わしらは小さい頃原爆にあった。忘れもしない、八月九日だ」

「うん、聞いたことはあるけど」

「大勢が亡くなった。奇跡的に命をとりとめた者も皆、死ぬまで放射能に苦しめられた」

「放射能?」

「被ばくだよ。被ばくすると体に様々な影響がでる恐ろしいものだ」

「え、じゃあ、お婆ちゃんも大叔父さんも?」

 大叔父さんは首を横に振っていた。

「わしらが小さい頃に住んでいた家は原爆が落とされた場所から少し離れたところにあったからな。だが遠く離れていても、あの大きなきのこ雲がよく見えたよ。今でも目に焼きついとるさ。空が真っ暗になって、それはそれは恐ろしかった。幸い被ばくはまぬがれたが苦しむ人々をたくさん見てきたよ」

 大叔父さんの表情は、少し怒っているようにも見えた。

「そうなんだ」

「わしが出会った被ばく者の中にはずっと体調が悪かったり体に大きなやけどの痕がある者もいた。彼らは皆口を閉ざしていた。皆、あの時のことを思い出したくないんだと言っていた。だがその中にも自ら講演会をしたりと原爆の恐ろしさを伝えている者もいた。小学校、中学校をまわって当時の写真を見せたり話を聞かせたりしてな。そうやって戦争の恐ろしさを世の中に伝えなければならないと言っていた。自分も家族や仲間、大切な人を失ったから、だからもう二度と、決して同じことを繰り返さないためにってね」

「うん」

「ねえおじいさん、その原爆にあった人の記憶がカズくんに、って言いたいの?」

 ユキエ伯母さんが大叔父さんに聞いていた。

「ああ、影が怖いと言っただろう? 恐ろしい話だ。原爆の中心部にいた者たちはどうなったと思う? 一瞬にして燃えつきて、影となってしまったんだ。地面に影のように黒くなって焼きついたんだよ」

 この時、きっとここにいた皆が頭の中で想像していたに違いない。落とされた原子爆弾。立ち上るきのこ雲。迫りくる爆風と炎。そして跡形もなく何もかも焼きつくされ、残ったのは人の形をした黒い影を。

「この地で育った者たちはそんなことは皆知っておる。学校で原爆についての授業があるからな。いろいろな話を聞いたり、原爆や戦争に関する惨劇のビデオを観たりもする。八月九日は登校日で、学校に行って皆で黙祷して亡くなった人たちを弔っている。だがどうだ。他の地方では登校日でもないし学校でも授業でも教えてもらわんだろう。あっても年に一回がいいところか。本当に戦争や原爆の恐ろしさを伝えなければならないのは何も知らない者たちへなのにだ。カズよ、わしが言いたいことがわかるか?」

 俺は真剣な表情の大叔父さんの目を見つめて大きくうなずいた。

「さあ、もうほら、きっとお婆ちゃんもあの世でそんな話はそれくらいにって思ってるだろうからさ。あ、ユキエ姉さん、ビールどんどん持ってきて」

「あ、うん」

 母が話を終わらせると、黙って静かに聞いていた皆の表情もゆるみはじめていた。

 夜遅くまで宴会のような食事会は続いた。皆が帰るのを見送ったあと、ユキエ伯母さんと母と俺の三人で残って片付けを済ませた。へとへとになりながら風呂に入ると母が布団を準備してくれていた。俺は布団に飛び込みそのまま意識を失うように眠りにおちていた。

 久しぶりにぐっすり眠った感覚があった。それもそのはず、朝目を覚ましてから時計を見ると十一時前だった。起きて部屋を出ると縁側に日がさしていた。思わず俺はその縁側に座ってあぐらをかいた。昨日はそれどころではなかったが、あらためて見る祖母の家が、この平屋の木造の家が懐かしくて嬉しくなった。縁側から見える、さえぎるものもない広い空は綺麗に晴れわたっていて気持ちよかった。

「おはよう」

 そのまま縁側に座っていると、母が来て俺の隣に座った。

「おはよう」

「怖い夢、見なかった? 昨日あんな話をしたから」

「うん、大丈夫だった。ねえ、母さんも知ってた? 原爆の話」

「もちろんよ。あのおじいちゃんが言ってたように、子どもの頃は学校の授業でいろいろと教えられたもの。たくさんの人が話しに来てくれてたし、写真もたくさん見たわ。原爆をモチーフにした映画とかアニメとか、ほら、あのアニメ映画の『火垂るの墓』なんかも授業で皆で一緒に観たのよ」

「へえ、そうなんだ」

「だから私たちはそれが普通だと思っていたの。なのに大学で上京して驚いたわよ。そんな授業ないって言うし、八月九日は登校日じゃないって言うし。そもそも長崎に原爆が落ちたことさえも知らないっていう人もいたのよ。ショックだったわお母さん」

「ふーん。確かに、俺もそんな授業受けてないし、かろうじて知ってたってくらいだもんな」

「でしょ?」

「うん。なんかおかしな話だね」

「ね。こうやって原爆のことなんて忘れられていくんだろうね。もう被ばく者もほとんどいないだろうしね」

「そっか。でも忘れられていくのも、それも世の中が平和だからっていうことなのかな」

「さあ、どうなんだろうね。戦争の恐ろしさを知ってもらって、二度と繰り返さないようにするのか、何も知らないままで忘れられていくのがいいのか。どっちだろうね」

 母がそう言った時、突然町中に大きなサイレンの音が響きわたった。

「わ、何これ?」

「今日は八月九日よ。十一時二分。原爆が落ちた時間に黙祷するの。ほら」

 目を閉じた母を見て俺もすぐに慌てて目を閉じた。

 何十年も前の今日のこの日の今この瞬間、たくさんの人たちが恐ろしい光景を目にした。真っ暗になった空、一瞬にして吹き飛んだ町。一瞬にして影となるまで燃えつきてしまった人たち。これは紛れもない事実なのだ。この事実を世の中が忘れてもいいのだろうか。いや、そんなはずがあるわけない。影になるまでここで、この地で幸せに生きていた人たちがたくさんいたんだ。知らないままでいてほしくない。戦争の恐ろしさを、悲しさを、もっとたくさんの人たちに伝えなければならないのではないだろうか。もしかすると大叔父さんは、影が怖いと言った俺にこう言いたかったのかもしれない。

 お前が戦争の恐ろしさを伝えろ、と。

「さあ、ご飯食べちゃって。帰るわよ」

 サイレンが止むと母が立ち上がった。

「ねえ母さん。俺にも原爆のこと、いろいろ教えて」

「え? いいわよ。あ、じゃあ帰りに原爆資料館に行ってみる? 写真とかもいっぱい見れるわよ」

 母はそう言いながら歩いていった。

「うん。行く」

 俺は立ち上がって体を伸ばしながら空を見上げた。

 この綺麗な空を守りたい。

 影が怖くても怖い夢を見ても、俺はもう目を背けてはいけないのだ。そんな気がしていた。原爆の恐ろしさを誰かが伝えなければならない。俺が伝えなくて誰が伝えるんだ。たった一人でもいい。戦争をおこさないために、争いがおきないように、自分の周りから少しずつでいい。俺には「平和の使者」というバンドがある。たまたま持ち寄った曲が反戦歌といわれているものだった。いや、たまたまではなかったのかもしれない。俺はこの原爆が落ちた地の人々の想いを背負って生まれてきたのかもしれない。影が怖いということがそれを意味しているのではないだろうか。だからバンドを通じて一人でも多くの人に伝えられるよう、これからもずっと歌い続けていこう。それがきっと、俺の運命さだめなのだと思うから。

 そう思っているとなんだかいい歌詞が書けそうな気になってきた。バンド名だけじゃなく、本当に「平和の使者」としてこの世の中を良くするために、みんなの、子どもたちの未来のために伝えていこう。

 今この瞬間、俺にとって原爆が落とされたこの八月という月がなにか特別なものになった気がしていた。夏真っ盛りの八月。夏休みもあって開放的で楽しいはずの季節。でもどこか切なくて哀しくて、涙が出そうになるほど胸が締めつけられて。

 そしてこの空がまるで子どもたちの笑顔のように元気いっぱいに輝いていて、こんなにも綺麗に青く晴れわたっていることにもまた、胸が締めつけられる想いだった。



           完







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