ゴールド・ラッシュ

@Temma_Fusegawa

第1話

「ようやく、仕事開始か……」

 時刻は21時30分を回ったところだった。橋塚海斗は嫌味も込めて、敢えて周りに聞こえるような音量の呟きを漏らした。通常なら21時過ぎから仕事を始められるというのに、今回は前週に出店していた業者の撤退が遅く、結局30分も待たされる羽目になってしまったのだった。

 横浜に本店を構えるヨコマルヤデパートは、レストランフロアを除いて21時に閉店する。もちろん、ヨコマルヤに出店している業者は、閉店後から締め作業を行って帰ることになるから、基本的には朝番・夜番の二交代制がとられている。

 だが、デパートに出店しているのは固定の業者だけではない。期間限定で店を開ける業者もある。いわゆる「ポップアップストア」というやつだが、専門用語では「催事業者」と呼ばれる。海斗が勤める野菜工房(株)もまた、デパートの催事出店を主な事業とする零細企業だった。

「じゃあ、下に降りて台車をとってきてくれ。俺は、ここでマネージャーと販売台が来るのを待っているから」

 父に指示を受けて、彼は地下3階へと歩き出す。本音を言えば、ヨコマルヤの地下にはあまり降りたくないのだが、社長がそういうのだから仕方がなかった。

 働く側にとってのデパートは、きれいごとだけではない。閉店時刻になっても一向に出ていかない客。コロコロと指示が変わるマネージャー。ショーケースに立ち並ぶ商品たちは、客の方ばかりを向いており、我々従業員を相手にしない。むしろ、万一ショーケースに傷でもつけようものならば、賠償請求が来てしまうのだから、デパート勤めの従業員たちは、扱う商品よりも価値が低いと言えるかもしれない。

 バックヤードスペースはさらに過酷な空間である。人間一人がやっと通れるかという隘路に、所狭しと並べられた商品ストックたち。そして、行きかう人間と台車。仮に左右の商品棚に引っ掛けたら、雪崩が起きて賠償。台車とぶつかっても、賠償。人身事故はいわずもがな。従業員たちは、客の要求と上司の理不尽にイラついて、いつも余裕がない。特にヨコマルヤの地下は迷路のように入り組んでおり、一度曲がる順番を間違えただけで、まったく違うフロアに出てしまう。不器用な海斗にとって、この作業は目隠しでイライラ棒をさせられるような不快感があった。

「すいませーん!台車通りまーす!」

 一人で台車を転がすのだから、声を張り上げなくてはいけない。左右に積まれた何かのビンをひっかけないように、何度も小まめに切り返す。直線通路なのに、思うように進めない。せめてもう一人スタッフがいれば、前後を挟むように人員を配置できるため、業務用の大型台車でも楽々運べるようになるのだが、自社にそんな余裕がないことは痛いほど知っている。とはいえ「せめて、母が生きていれば」。そう思わずにはいられなかった。

 

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