雨になる

各務あやめ

第1話

 雨の降る音が、する。

 人の足音も、無数に聴こえる。


 いつもの道だ。毎日、毎日通る道。

 数百メートル先の駅に向かって、何人も、何十人もの人の足が地面を叩いていく。傘を広げた分だけ狭くなった道路をすり抜けて、進んでいく。

 

 ただ地面を見て歩いていた。水たまりに足を踏み入れないように。


 交差点の前で、人の波が止まった。

 

 前を横切るトラックを見て、再び視線を下に向けると、地面に懐かしい顔があった。


 「久しぶりだね」


 アスファルトの溝に溜まった水の表面に、彼女の姿は映っていた。ぼんやりとしていて、よく見えない。けれど確かに、彼女はそこにいて、微笑んでいた。


 「どうしたの、そんな幽霊でも見たかのような顔して」


 ……いや、違うの?


 「会うのはいつぶりだっけ、とにかく元気そうで何よりだよ」


 私より、あなたの方がずっと元気そうだよ。


 ぱたぱた、ぱたぱたと雨が傘を打ちつける。地上に着いた雨は流れて、止まって、溜まっていく。

 

 水の出入りに合わせて、ゆらん、と彼女の姿も揺れる。一瞬だけ輪郭を崩してから、また元に戻る。


 「今日は天気が悪いねえ。でも、雨の音って私嫌いじゃないよ」


 水たまりの中で、彼女は笑う。


 「ねえ、昨日の夜、会いに行ったんだけど覚えてる?」


 何のことだろう。


 「えー、また覚えてないの? 参っちゃうね、これだからそっちの世界の人間は。どんな夢見たって、起きたらすぐに忘れちゃう。この薄情者」

 

 だったらもう一度、出てきてよ。夢でも幻でも何でもいいから。


 「えー、どうしよっかなあ」


 ぴしゃん、と目の前に大きめの革靴が下りてきた。濁った水が、彼女に向かって跳ねる。咄嗟に片足を出したら、靴に泥の斑点が付いた。


 「あーあ、靴汚れちゃったね」

 

 彼女が呟く。綺麗な水たまりは汚れた水を含んで肥大化していく。それに比例して、だんだんと彼女の姿も形が消えていく。


 前を走っていた車の気配がなくなった。再び足音が鳴り始める。


 私を、ひとりにしないで。


 キャッ、キャッ、と彼女は声を上げて笑った。私にそっくりな声でおかしそうに言う。


 「変なのー、きっとあなたは、ひとりじゃなくても孤独だったよ」


 行かないで。


 「自然のセツリっていうのは、守らなきゃね」


 びちゃ、という音と共に、彼女の姿は掻き消された。

 人の流れに押されて出た自分の右足が、水の表面に波紋を作っていた。


 あなたの声も、もう忘れてしまったんだよ。


 白に塗装されたラインを、何度も何度も越えていく。


 点々とできた水たまりには、傘の柄を持った手が一瞬見えるだけだった。目の端でそれを捉えては、そのまま通り過ぎていく。


 信号が赤に変わってしまう。取り囲む足の音が、速くなる。


 ふと、前を進む人のスーツに、小さな皺が寄っているのに気づいた。隣の学生が湿気で膨らんだ髪を、傘を持っていない方の手で、せわしなく梳いていた。それに気づけたから、今日はもうそれでいいと思った。


 雨は止まない。


 ただ、涙も汗も自然の流れに組み込まれて、再び空から降るのなら。いくらでも降っていればいいのだ。いくらでも。

 


 

 


 



 

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