第3話 悔悟
林崎はマットレスを俺に貸すと言って譲ってくれたが、眠れる訳が無かった。
町が寝静まる中。ただひたすらにサイレンの音に怯えていたのだから。遠くから聞こえる度にここへ近付いてくるんじゃないかと心臓が跳ね上がり、嫌な汗が滲み。結果的にそんな心配は
「榛村さん。卵焼きとスクランブルエッグ、どっちがいいですか?」
目の前のテーブルにトーストとコーヒー、そしてサラダと卵料理が一緒に乗った皿が並べられる。林崎の言葉通り、片方はそれなりに綺麗な形の卵焼きで、もう片方はスクランブルエッグだった。
「……どっちでも。というより、食欲無いから構わなくていい」
「だめですよー、ちゃんと食べなきゃ。榛村さんただでさえ顔色悪いですし」
なんて言いつつ、トーストにマーガリンを塗り始める林崎。それから短く息を吐き、じゃあ僕卵焼き食べますねとその皿を自身の傍に寄せた。
「あ。食欲無いならスープとかは? インスタントですけどコーンポタージュならありますよ」
人懐っこい笑顔に、俺はただ首を横に振る。まだ湯気が立っている朝食を見ているだけで、吐き気が込み上げかけた。
改めて、思う。俺はここで何をしているんだと。別に逃げる、なんて荒っぽい真似なんてしなくとも、適当な理由を付けて去れば良いだけの話なのに。
「あの、榛村さん好きな料理ってありますか? 簡単なものなら作るんで、どうにか食べてください。僕の実家、定食屋なんでクオリティにはそこそこ自信ありますし」
きっとこの青年には仄暗い過去なんてほとんど一切無いのだろう。ごく一般的な両親の元で育ち、定食屋の手伝いをしながら警察を目指し。大学でも程よくサボりながらも周囲から信頼され、暖かい人達に囲まれているはずだ。
俺とは、正反対。思わず乾いた笑いが漏れた時、だった。
不意に玄関のドアを叩く音が響き、全身の筋肉が硬直する。しかしながら家主である林崎はごく自然に「はいはーい」とか言いながら立ち上がり、その方へ歩いて行く。
まさか、まさか。警察……?
だとしたら、どうする。今から逃げるなんて不可能だ。いっそ林崎を人質に取るか。例えそういった愚かな行動を起こしたところで、自分の罪が重なるだけなのは分かっているのに。
だが、俺が固まっている間に無情にも扉が開けられる。
「あぁ、
「おはよう圭ちゃん。ぬか漬けのお裾分けだよぉ」
「いつもすみません……この間貰った浅漬けもまだ食べきれてないのに」
「おやそうなのかい? でも丁度良かった、今回のはまだ少し漬けが足りてないからさ」
角度的に僅かにしか顔が見えないが、訪問者は老婆だった。安堵と共に冷や汗が頬を伝っていく。
と、そこで老婆はふとこちらを見やった。
「圭ちゃんの友達かい? 兄ちゃんも良かったら食べてねぇ」
俺に対し、
「上の階に住んでいるおばあさんなんです。何かと僕を気遣ってくれるんですよ」
ドアの鍵を閉め、一度タッパーの蓋を開ける林崎。大根ときゅうりだ~とか言いながら上機嫌で容器を冷蔵庫に仕舞い込んだ。
「榛村さんは漬物好きですか? 篠原さんの漬けた野菜、いつもすっごい美味しいんで今夜でも食べましょうよ」
今の俺に食事をする気力など無い。ましてや他人の作ったものなら、
「……お前、講義は? 休みか?」
「今日は午後からなんで、その前に買い物行って来ようかなって。大学の後はジムのつもりですし」
「へぇ……」
チャンス、だ。ここを出て行く、チャンス。
別に監禁されている訳でも無いのだから、簡単だ。
「あ、買い物一緒に行きませんか?」
「遠慮する」
「ですよね、あはは」
行く当てなんかは無い。金もほとんど持っていない。けれど、この町からは離れた方が良いだろう。
「じゃ、僕は行って来るので食べる気になったら手付けてくださいね。どうしても駄目なら置いといてくれて大丈夫ですから」
最低限の荷物を持って部屋を後にした林崎。やはり何を考えているのかが分からない。
一人になり、鳥のさえずりだけが外から響く室内を改めて見回す。
キッチンの方を見て、再びマットレス周辺に視線を向ける。そこでふと、違和感を覚えた。が、その正体までは掴めない。いや、むしろ自分の脳が考えるのを拒否している気がする。
どうせこれ以上関わってはいけないのだ。余計な思考は振り払わなければ。
あいつが出て行ってから何分ほど経ったかは定かじゃないが、もう良いだろう。書き置きくらいは残すべきかとも思ったが、見たところペンやメモ帳なども見て分かる範囲には無い。
「……」
腰を上げ、気配を消しながら玄関を出る。鍵をどうするか迷ったが、それこそ場所なんて知る訳が無い。心の中で謝り、出来ればあいつが帰って来るまで何事も起きないでくれと祈りながら、俺はその場を立ち去った。
現在の時刻は午前七時五十分過ぎ。小学生や中学生たちの登校の時間だ。
楽しそうな甲高いはしゃぎ声とランドセルが賑やかに揺れている音。たまに五月蠅く感じたりもするが、これ程までに平和な朝を感じられる物は他に存在しないと思う。
だが、今の俺にとっては足取り重くしていく
路地を出た所で自販機が目に入り、周囲を何気なく見回しながら前に立つ。ここであまりにも挙動不審な行動は控えなければいけない。財布から小銭を出し、ミネラルウォータ―を買う。一口だけ飲むつもりが一気に半分ほど飲み干した。自分で思っているよりも喉が渇いていたらしい。当然、だ。
──これからどうするか。
出頭、するべきだろう。頭では分かっている。
道路を挟む形で自販機の前には公園がある。そして、交番も近くに設置されていた。
今の季節、夏が終わって少し寒くなってきたくらいなのに嫌な脂汗が噴き出て来る。怖い。怖くて堪らない。
出頭して、その先俺や、俺の周囲はどうなるのだろうか。幸い、と表現して良いのか分からないが親は幼い頃に亡くした。けれども代わりに育ててくれた祖父母が居る。優しくて暖かいあの人たちに
一体、祖父母はどんな末路を辿るのだろう。祖父母だけじゃない。俺の友人や、職場はどうなるのか。それに──。
だが、気持ちとは裏腹に足は交番へ向いていた。しかし。
早朝で人気が少ない道とはいえ、当然車は通る。クラクションこそ鳴らされなかったものの、耳をつんざく様なタイヤのスキール音のおかげで我に返った。反射的にその方を見れば、運転席の初老の女性は戸惑った顔。助手席には青年が迷惑そうな視線をこちらに向けている。
「あ……」
慌てて公園へと走り寄り、振り返って頭を下げた。間も無く車は去って行き、思わず頭を抱えるしかない。
何を、やっているんだ。
横目で交番を
ため息を吐き、公園内の時計を確認する。本来ならとっくに出勤している時間だが、職場の人たちはどう思っているだろう。生まれて初めて無断欠勤をしてしまったが、もはや小さい事だ。
一先ず、公園内に入ってベンチに腰を下ろす。力無くペットボトルを振れば、中身の水がちゃぷちゃぷと揺れる。
まだまだ朝日が眩しく、穏やかな時の中で目を伏せて、思う。
罪を犯してしまった俺が、最後に出来る事をしなければ、と。
「……絶対に、守るから。俺が、絶対」
ぽつりと呟くが、俺の言葉を聞く人は居ない。
霞月 星海 @hoshi-umi31
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