第2話 生起

「おい津崎つざき! 例の資料出しとけって言っただろ!」

恰幅の良い男性の怒号と机を叩く音が激しく響き渡る。朝から何をそんなにイラついてるんだか。頼むから周りの空気を読めっての。……なんて本音をぶちまけられたら楽なんだろうな、とか考える事すらもう面倒だ。

「す、すみません! こ、これなんですけど……」

「はぁ? もう取ってきたからいらねえよ。ったくこれだから女は――」

 ポン、と男性の肩に手を置きながら笑顔を張り付ける。この人は仮にも上司だからだ。

「まぁまぁ西野にしのさん。その辺にしとかないとパワハラやらセクハラで左遷させんとかされちゃいますよー? 次の異動に響いたら本庁に行けなくなっちゃうかも」

「っ……及川……」

 明らかに不快そうな顔になる上司。この人こんなんでよくこの仕事やってんな。

「津崎には俺がよーく言っときますんで。あ、そういや小向こむかいさんが呼んでましたよ」

「そうか……じゃあ後は頼む」

「へーい」

 渋々、といった感じでようやく目の上のたんこぶが去って行く。と同時、ため息を吐きながら振り返った。華奢きゃしゃな体形にそぐわない程の大量の紙束を抱えた津崎が苦い顔でこちらを見る。

「はぁ……ありがとうございます、及川おいかわ先輩」

「別にお前を助けたわけじゃねえっての。あの人この署内で一番声でかいから単純に耳障りなんだよ」

 津崎がここに配属されてからまだ一ヶ月も経っていない。それなのに西野さんから目を付けられているのにはいくつか理由があったりする。

 まず、元からあの人に毛嫌いされていた俺のバディになってしまった事。それから津崎が一応キャリア組である事。後、西野さんが奥さんと長めの喧嘩中だから、といったところか。恐らく他にも原因はあるんだろうけど。

 津崎の額を軽く小突きながら、抱えられている紙束に視線を落とした。

「で? なんだよそれ」

「えっと、西野さんに一昨日から頼まれてた過去の事件の資料です」

「一昨日ってお前……いや、俺が聞きたいのはそこじゃない。何の事件だって聞いてんの。お前そういう所が余計な反感買うんだと思うぞ」

「うっ……私だって分かってますよ……。刑事としての察する能力がいちじるしく足りてないことくらい」

「ハイハイ分かった分かった。もう良いから貸してくんない? それ」

 再びため息を吐きながら、束の一番上を手に取る。

「――『鶴見区マンション内駐車場殺人事件』……ってこれ十年前の事件じゃねえか。ホシも捕まって服役中だってのに、なんでまた」

「さ、さぁ? 頼まれた時ちょうど私が暇してる様に見えたのか、いきなり言われたので理由までは分からないです」

「ふーん……」

 鶴見区マンション内駐車場殺人事件。その字の如く、鶴見区の某マンションの駐車場にて会社員の男性が刺殺された事件だ。

 凶器は家庭用の包丁で、被害者が仕事から帰宅し、車を降りて少し携帯を見ていた所、後ろから背中を数か所刺された。救急隊や警察が駆け付けた頃には男性は失血死しており、かたわらには血まみれの包丁を両手で持ったまま力無く泣きじゃくる女性の姿があり、その女性を容疑者としてその場で逮捕。

 女性は男性の妻であり、動機は男性の不倫からによる復讐、というシンプルなものだった。

 ただ、この事件にはいくつか不可解な点があったらしい。

「確かガイシャの不倫相手ってのが結局誰だったのか一切分からなかったんだよな」

「え? そういう事件なんですか、これ」

「お前なぁ。目も通してないのかよ」

「い、いやー……そんな時間無かったっていうか……」

 主に西野さんのおかげで、と続くセリフに思わず天を仰ぐ。前々からあの面倒なパワハラ・セクハラ祭り男からこの後輩への当たりが日に日に強くなっているのは充分に分かっているが、それとこれとはまた別問題だ。

「……まぁ良いけど、概要だけでも読んどけ。この資料を欲しがった、ってことは直近で似たような事件が起きたんだろうよ。西野さん、色々厄介だけどその手の人脈とか情報網は半端無いしな」

「でも私に出番なんて無さそうなんじゃないかなー、なんて」

 やる気があるのか無いのか。そういう態度とか雰囲気が一層あの人を刺激するんだぞ、というセリフはどうにか喉の奥へ流し込む。

 異動前に他の同僚から聞いていた話では津崎は幼い頃から警官をこころざし、厳しい訓練や試験を乗り越え、交番勤務を経て捜査一課へやってきた。つまりはそれなりにエリートであるはずなのだが、出会ってから基本的にはこんな調子だった。

 正直こいつのポテンシャルとかをいまいち図りあぐねているのが現状だったりする。どうしたもんか、なんて思いながら改めて資料にもう一度目を通そうとした時。

「及川、津崎!」

 不意に大声で名前を呼ばれた。出入り口の方を見れば真剣な面持ちの先輩警官。

「殺しだ。すぐ現場へ向かってくれ」

 その言葉に、俺たちは互いの顔を見合わせることも無く最低限の荷物を手に取り、警察署を後にする。



 現場は見るからに古い木造のアパートだった。看板には【ほがらか荘】と書かれている。既に捜査線も張られ、少しばかり野次馬が集まっていた。

「お疲れ様です」

 若いスーツの男と、中年の鑑識官が敬礼をしつつ声を掛けてきた。当然ながら、二人とも同僚だ。

「状況は?」

「被害者の身元はまだ洗っている最中ですが、三十代半ばくらいの男性で後ろから頭を何かで殴られた模様。死後七~九時間、といった感じですね」

「……身元洗ってる、って事はその手の荷物は現場に無かったのか?」

「はい。現場の部屋を借りていた人物は割れたんですが、被害者と同一人物かどうかまではまだ……」

「は? どういう事だよ」

「それが……」

 言葉に詰まる若い男。どうやらこの事件、何かがおかしいらしい。階段を上がろうとした手前で、男の方が別の捜査員に呼び止められた。

 まぁ現場を見てみない事には始まらないだろう。アパート全体を確認しながら二階へ着くと、廊下には複数の警官が見張りであったり他の部屋の住民へ聞き込みをしている。

 玄関先に立っていた警官と敬礼し合い、中に入る。すると、得も言えぬ変な光景が広がっていた。

 何も、無い。

 間取りは1Kで、玄関に入れば部屋の全貌は明らかだ。居間には遺体があり、その周辺を多数の捜査員がそれぞれ指紋を取ったりしている。

 が、この部屋には――何も無い。家具や家電が。ただ、遺体だけが、あるだけ。

「うわぁ……確かに変な状況ですね、これ」

「って居たのか津崎」

「居ましたよ! ずっと後ろに!」

 小さなメモ帳を片手にむくれる津崎を他所よそに、改めて周囲を見回して思考を巡らせる。先ほどの若い同僚が言っていた意味が断片的ながら理解出来た。

 このまるで生活感の無い部屋。これでは被害者がここで暮らしていた人物とは断定出来ないのも無理は無いだろう。というよりも、本当に誰かが住んでいたのかも怪しい。

「まさかヤさん絡みだったりしねえよなぁ」

「そうなったら三森みもりさん達と合同捜査とかになるかもですね。及川さんの苦手な」

「お前、言霊ことだまって知ってるか? 縁起でも無い事言うなっての」

「先に不穏な発言したのは及川さんじゃないですか」

 なんて津崎との言い合いはどうだって良いのだ。

狭い室内でまだ捜査員が遺体の周囲を調べている事もあり、確認を取ってからキッチンを見始めた。収納スペースを開けても、やはり調理器具や洗剤などは見当たらない。埃は溜まっているが、何とも綺麗なものだ。

「なんというか……アレですね。前の契約者が出て行った後、次の借り手が無くて部屋は綺麗だけど掃除がされてない、みたいな」

 何となしに呟かれた津崎のセリフ。言われてみれば確かにそうだ。

 俺は記録員に尋ねた。

「ここの大家は? 調べは付いてんのか」

「あぁ、えっと……他の住人に聞いたところ、どうやら隣町に住んでる老人の様です。脚が悪いらしくて月に一度か二度ほど挨拶に来るとか。基本的に契約に関しては管理会社が行っているそうです」

「ならその管理会社は? 連絡は――」

「まだ営業時間じゃないから繋がらないみたいですよ。ほら」

 横からスマホの画面を差し出して来たのは津崎だった。

「……特定早いな」

「さっき入居者募集の看板ありましたよ? 気付きませんでした?」

 確かにその看板は目に入っていたが、正直管理会社の名前までは意識していなかった。こういう部分を見ると津崎も癖はあれど優秀なのだ。

「大家と管理会社に聞き込みの人員は?」

 記録員は確か、と言いながら、

「大家の方には有村ありむらさん達が向かいましたけど、管理会社は恐らくまだですね」

 と続ける。津崎と顔を合わせれば彼女は即座にスマホを操作し始めた。俺は鑑識などに声を掛け、改めて遺体を確認する。

 口頭では後ろから頭を殴られたらしい、という話だったが、遺体は仰向けだった。畳にも血は滲んでいる。

「頭以外に外傷は?」

「無いようです」

 という事は、後頭部への打撃が致命傷。にも関わらず、この遺体の周りはほとんど汚れていないばかりか、着衣の乱れも無し。恐らく立っていたのではなく座っている状態で殴られたと思うが、そうすると仰向けに倒れているのは不自然だ。

「……」

 例えば、この部屋に被害者含めて三人以上居た、としたらまだ説明が付くだろうか。一人は被害者と対面して何かを話していた。その時、被害者が別の人物から後方から殴られ、被害者と話をしていた人物が倒れて来た被害者を押し退けた。そう仮定すればこの状態になる、だろう。

 指紋やDNA等の結果は今すぐには出ない。

 と、そこで津崎がこちらへやって来て小さく頷く。

 俺たちは一先ずアパートを出る事にした。しかし、野次馬たちの脇を通り抜けた時。

 一人、この場にはそぐわない存在を見つけたのだ。淡いピンクのランドセルを背負った、八歳くらいの少女。不安げな顔で野次馬から少し離れた位置でアパートを見ていた。

「こんにちは、お嬢ちゃん」

 声をかけると少女はいぶかし気に俺を見る。ランドセルのベルトを握り込み、明らかに警戒されていた。そんなに怪しい顔してんのかな、俺。

「駄目ですよ及川さん。ここは私が」

 俺を押し退け、津崎がしゃがみ込んで改めて少女に声を掛ける。

「どうしたのかな君。早く学校に行かないと遅刻しちゃうんじゃない?」

 少女は俺と津崎を見比べて俯き、やがてアパートを指差す。それから、か細い声で呟いた。

「……ここに、おばあちゃん住んでるの。毎日おはようって言って、おばあちゃんからお守り貰ってるから……」

「お守り?」

 こく、と頷き、少女がランドセルを下ろす。中から取り出したのは動物の形をした折り紙たちだった。

「わぁ、かわいいね。毎朝おばあちゃんからこれを受け取ってるの?」

「うん……」

 少女は折り紙から津崎に視線を移し、泣きそうな表情で声を絞り出す。

「おばあちゃん、死んじゃった……?」

 警察や停まっている救急車を見てそう思ってしまったのだろう。すかさず俺は少女に警察手帳を見せた。

「おじさんとこのお姉さん、お巡りさんなんだ。おばあちゃんはどのお部屋に住んでるのかな」

「……一階の、端っこ」

「ありがとう。アパートで怖い事件が起きたんだけどね、君のおばあちゃんは大丈夫だよ。さっきおじさんの友達とお話ししてたから」

 半分は嘘だ。階段を上がっている際に確かに捜査員と玄関先で話している老婆は見た。だが、少女は端っこ、としか言っていない。それが右なのか左なのか分からない為、あの老婆が少女の身内とは特定出来ない。が、恐らく今回の現場での被害者はあの男性だけだろう。

「今は誰も入れないようにしているから、また学校終わりにおばあちゃんに会いにおいで。おじさんの友達にも言っておこう。お名前だけ教えてくれるかい?」

 少女は少し安心した様子でランドセルからノートを出した。【なまえ】欄に書かれている文字を差しながら、

神田かんだ海羽みうです。おばあちゃんは神田かんだ登喜子ときこ

「海羽ちゃん。登喜子さんの名前と一緒に伝えておくよ。さ、学校に遅れるからもう行っておいで」

 海羽と名乗った少女はランドセルを背負い直し、俺たちにお辞儀をして野次馬の列を縫って走って行く。

「……及川さん。女の子に優しく出来るなら私にも優しくしてくださいよ」

「バーカ。俺はいつだって優しいだろうが」

 無線で海羽ちゃんの事を報告しつつ、パーキングエリアへ向かう。あの小さな女の子の不安を少しでも払拭出来るようにと願いながら。

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