霞月

星海

第1話 敬遠

 人の最も重い罪とは何なのだろう。

 雲で霞む月が路地を微かに照らす深い深い夜。ただ自分の靴が地面を擦る音が響く中、街頭に群がる羽虫をぼんやりと目で追う。そんな彼らに吸い寄せられる様に、人口の光の傍に集められていたゴミ袋の山に身を預けた。

 膝を抱え、目を閉じる。羽虫たちの羽音と、ほんの僅かな冷たい風音。そして、自身の鼓動が何よりも煩く感じる。

 全身が震え、思考も上手く働かないが寒さのせいなどでは決してない。ふと掌を見て、奥歯を嚙み締めた。

 このままここで眠る事が出来れば死ねるだろうか?

 いくら肌寒くなってきたとはいえ、十月の夜の気温で凍死なんて無理に決まっている。そんなくだらない事実なんて分かっているのだ。馬鹿馬鹿しくなり口元が歪むが、声は出ない。

 と、そんな時。

 遠くで足音が聞こえた。思わず驚いてしまい、ゴミ袋に体が触れる。

 しまった、と思った時にはもう遅い。容赦無く徐々にこちらへと近付いてくる、気配。

 来るな。来ないでくれ。祈る様に目を閉じれば、迫り来る足音に合わさる様に自分の心臓の音が鳴る。

 だが、こんな俺の願いなんて神は聞いてくれないらしい。無情にも足音はピタリと俺のすぐ傍で止まった。

 男だろうか、女だろうか。どっちだっていい。頼むから放っておいてくれ。間違っても声なんてかけてくるな。黙って立ち去れ。その方がこれ以上誰も不幸にならなくて済むはずなんだ。

そう、思うのに。

「あの……」

 声色は、なんとなく想像していたものよりも若かった。大学生くらい、だろうか。しかし、だからどうした。ずっと無視を続けて一切反応を見せなければきっと去ってくれる。そう考え、俺は自分を石像か何かだと思い込む事にした。

「え、っと……もしもし? 大丈夫ですか?」

 戸惑いと心配の色が混じった声。少しばかり心が痛むが、別に俺は助けなんて求めていないのだ。いや、求めてはいけない、が正しいか。

 だが、声の主は微動だにしない俺に対して次は焦り始めたらしく、

「ちょっ、え? あの、本当に大丈夫……あ、いや……まさか……? ど、どうしよう。警察……より先に救急車? え? あれ? どっちだっけ?」

 まずい、かもしれない。

 一気に脂汗が全身から噴き出る。俺はただ余計な干渉はせずにそっとしておいてくれれば良かったのに。大事おおごとにしないでくれれば良かったのに。

「きゅ、救急車……って911? いや違う、119……だったよね」

「待った」

「ひえっ! え、あ? しゃ、喋った?」

 意を決して顔を上げれば、暗い中でも分かるほどにそいつはお人好しそうだった。毒気が微塵もない、純真そうな青年。

「い、生きてる……。よ、かった~……」

「……勝手に殺すな。というよりも放っておいてくれないか。別に怪我してるわけでも酔いつぶれたわけでもないから」

 出来るだけ冷徹に、怒気を孕んで言ってやった。それから再び顔を伏せる。これが俺なりの拒絶だ。もう構うな。

 ところが、不意に手首を掴まれ、そのまま無理やり立ち上がらされた。

「っ!」

「何があったのかは知りませんけど、この状況でじゃあさようならって言える性格してないんです、僕」

「は? いや、離せよ!」

「しー! 夜中ですよ、今。お静かに」

 呆れたような表情に思わずムカついてしまい、勢い良く腕を振り払おうとする。だが、見た目に反してこの青年は俺よりも力が強いらしく、出来そうもない。

「僕が借りてるアパートすぐそこなので。一応お酒もありますし」

「どうだっていいそんな事。離せ」

「出来ません」

 あざでも残りそうな握力で掴まれているのに、痛みは感じない。だからこそ、自分の中で警報が鳴っている。こいつに必要以上に関わってはいけないと。

 嫌な予感からか再び汗が背筋を伝う。

「ほら、行きましょうよ」

 悟られては駄目だ。なら、一先ずは大人しく青年の言う事を聞いて、隙を見計らって逃げた方が賢明か。

「……分かった」

 渋々頷いた途端に風貌ふうぼう通りの爽やかな笑顔を見せる青年。しかし手が自由になる訳では無かった。

 無言で足だけを動かし、どこか冷静な頭で辺りを見回す。明日が土曜日なせいか、電気が付いている家がちらほらとある。逃げるなら夜明けまで待った方が最良か。そもそもどうやって逃げるかを先に考えなければならないのだが。

 重苦しい思考が脳を支配する中、目の前の青年の足が止まる。

「ここです」

 そこはなんともボロい二階建ての木造アパートだった。特段変わった建物でも無いが、周囲の比較的新しそうな一軒家達に囲まれている立地だからか、非常に浮いている。

 切れかかった蛍光灯が不気味に点灯している薄暗い廊下。先ほどまで進んできた住宅街とは違い、このアパートには人が住んでいる気配を感じられない。

「僕以外に住んでるの皆おじいさんやおばあさんなんですよ」

 心でも読まれたかの様なセリフに、一瞬だけ呼吸を忘れる。が、当人はごく自然に最奥の部屋の前に立ち、ズボンのポケットから鍵を取り出した。

「どうぞ」

 他の住人を気遣っているらしく、出来るだけ静かな動作で開けられたドア。しかしその際に丁番ちょうばんの金具が軋む音が妙に五月蠅く響き渡った。

「やば、早く入って下さい!」

 背中を押される形で室内に踏み入れた時、気付く。ほんの数秒でも逃げるチャンスだったんじゃないのか、と。

 靴が三足くらいしか並べられないであろう狭い玄関に男二人が同時に立てるはずも無く、急かされるがままに靴を脱いで廊下に足を付ける。

「出来るだけ静かにお願いしますね」

 苦笑いを浮かべる青年に対し、ならやはり放っておけば良かっただろとより一層思った。

 スリッパなんてものは無いようで、どうぞどうぞと無理やり奥へと進まされる。建物のボロさに対し、中は綺麗に整頓されていた。というよりもむしろ、ほとんど物が置かれていない質素な部屋だ。

 間取りは1Rの和室で、廊下に簡素なキッチンがあるような形だが部屋自体は広い。恐らく八畳くらいはあるだろう。だが、そんな広めの部屋に置かれているのは薄っぺらいマットレスとテーブル、それから小さめのテレビくらいだ。

「適当に座って下さい。あ、僕ビール飲めなくてチューハイくらいしか無いんですけど良いですか?」

「……別に要らない」

「え……あ、じゃあお茶は? 水出しなので薄いかもしれないですけど」

「要らない」

 そもそも、俺は何故ここに居るんだ。こんなはずじゃなかったのに。ため息を吐きながら、窓の近くに腰を下ろす。

「……そういえば、名前。僕は林崎はやしざき圭吾けいごです」

 俺とは逆に廊下側に座った林崎は背負っていたリュックの中身を取り出して整理し始める。

「ちなみに大学生です。中大なかだいの三年」

 リュックから出てきたのは弁当箱や参考書、そしてノートパソコン。

「レポート書かなきゃいけなくて……あ、テレビでも見ます? って言ってもこの時間ってテレビショッピングくらいしかやってないかな」

「……お前さ」

「はい?」

「何がしたくて俺を連れて来たんだ」

 人の行動には必ず目的があるものだ。意識的だろうと、無意識だろうと。

「明らかに訳ありだって分かってただろ。それなのに何も聞いてこないし、気まずいくせに無理に取り繕って、何がしたいんだよ」

 段々と自分の声が感情的になっていくのが分かった。そうして、気が付く。今の俺は、この青年が怖くてたまらないのだと。真意が読めない、というのもあるが、何よりも。

 俺が、罪を犯してしまったから。

「目的は何だ? 金か? それとも性処理か?」

「えっ、え? はい?」

 戸惑い、混乱している林崎の顔に妙に苛立ち、羽織とTシャツを乱雑に脱ぎ捨てる。ベルトに手をかけながら、

「早く脱げよ」

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。僕はただ――」

 林崎は言葉を濁し、そのまま俯く。その顔に、何とも無性に腹が立った。ただし、彼に対してでは無い。

 思わず、自分で自らの頬に拳を殴り付ける。

「っ! えっ、えぇ⁉」

 口の中が切れてしまったらしく、鉄の匂いが広がる。林崎が狼狽えるのも無理は無いだろう。目の前の男がいきなり意味の分からない事を口にしたかと思えば、突然自傷行為に走ったのだから。

「だ、大丈夫ですか……? 湿布とか家には無いんですけど……あ、でもこの場合って氷の方が良いんでしたっけ」

「――い」

「え」

「要ら、ない」

 じくじくと滲むような痛みの感覚が少しばかり冷静さを取り戻させてくれる。

 なんて間抜けなんだ、俺は。

 あんなにも騒ぎを起こしたくないと思っていたくせに、この始末だ。勝手に苛立って、勝手に暴走して。恐らくここまで来ると言い逃れなんてもう出来ない。何があったのか、と聞かれるに決まっている。そうなったら、なんて言い訳をすれば良い? どんな誤魔化しようがある?

 いっそ……この林崎という人物も、この手で。

 血の味のする唾液を飲み込んだ、その時だった。

 不意に、握っていた拳に弱々しく手を重ねられたのだ。反射的に林崎を見れば、どこか苦し気な面持ちをしている。それでいて、その眼差しはどこまでも優しいもので。

「上手く言えませんけど、安心してください。あなたに何があったとか、僕気にしませんから。この部屋だって、別にいつまで居てくれても良いんですよ? まぁこんな味気の無い部屋、つまらないでしょうけど」

「……んで……なんで、だよ……」

 素直に疑問が先立った。この青年からは打算や企みなんかを一切感じ取れない。ならば何故、名前も知らないくたびれた男にここまで率先して関わろうとするのか。全くもって理解し難いが、頭の片隅に一つの直感がずっと残っているのを思い出す。

 そしてその直感は、見事に当たってしまった。

「なんで、って聞かれるとちょっと難しいんですけど……あぁ、でも僕これでも警官目指してるんです。親に保険で大学は出ておけって言われたんで、卒業したら警察学校入ろうかなー、なんて」

 果たして、俺は今呼吸が出来ているだろうか? どうして不思議と追い詰められている時ほど嫌な予感というものは当たってしまうんだ、といつも思う。

「あ、そうだ」

 やはり俺はこの青年から離れるべきだ。一刻も早く。このままだと、いずれ感付かれてしまう。いや……もしかするともう、彼も分かっているんじゃないだろうか。

「名前くらいは、聞いても良いですか?」

 柔らかく微笑む林崎。この顔は、どっちなのだろう。気付いているのか、いないのか。

 得も言えぬ不安が心を支配して行く。

「――ら、……つぐ」

「?」

「……榛村はいむら勝嗣まさつぐ

「榛村さんですね。変な縁ですけど、よろしくお願いします」

 一度抱いた不安なんて払拭どころか薄める事すら簡単には出来ない。そう思うと、俺はこの純朴そうな青年に対し、素直に本名を名乗るほど馬鹿にはなれなかった。

 人の最も重い罪とは何なのだろう。

 自分で自分に問いかけ、胸の内にある一つの結論を噛み締める。

 それは――犯してしまった罪を、隠す事だ。

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