一番好きな笑顔で

亜咲加奈

おめえの笑った顔が、おらぁ一番好きなんだ。

 鶏の唐揚げは余田千鶴にとって特別な料理だ。

 ガス台にかけた天ぷら鍋の下では青い炎が鍋底からはみ出るほどの勢いで吹き上がっている。

 首にかけTシャツの襟首に突っ込んだ手ぬぐいの片端を引っ張り出し、千鶴は額の汗を拭いた。油が煮え立つ鍋から最後の唐揚げを菜箸でつまみ上げ、皿に盛り上げた唐揚げの山の上に置く。火を消したあとそれを両手で持ち、注意深く居間に運び、こたつの上に置く。醤油とにんにくとしょうがの匂いが狭い居間をあっという間に占領する。

 彼女は受話器を上げ、ボタンを押す。娘の喜美枝が住む家の電話番号だ。

 喜美枝はすぐに出た。

「はいはーい」

「唐揚げできたど」

 喜美枝が大きな声を出す。

「明、トモ、ひーちゃん! ばあちゃん、唐揚げ作ってくれたって!」

 受話器の向こうから孫の明、朋也、光が順番に叫ぶ声が聞こえた。

「うおお」

「いえー」

「行こ行こ」

 喜美枝が言った。

「じゃあ、すぐ行くね。ありがと、母さん」

「充弘さんは来れるかやぁ」

「今日はちょっと無理そうかな。急な仕事が入っちゃって工場にいるの。でもメールしてみるね」

 受話器を置くとどっと疲れが出た。

 喜美枝と孫たちが住む家から千鶴の自宅までは歩いて五分だ。孫たちは競い合うように全速力で走って来た。

「ばーちゃん唐揚げー!」

 結局三人同時に到着し、三人同時に叫ぶ。

 明の笑顔が千鶴は一番好きだった。ほんとうに嬉しそうだから。

 千鶴は明の笑顔を見て報われた気分になる。だからつられて笑顔を浮かべ、言った。

「食べらっさい」


 小野充弘は喜美枝の夫で、明、朋也、光の父親である。大手メーカーに勤務していたが退職し、銀行から融資を受けて個人の工場を立ち上げた。しかし退職と起業が原因で充弘は彼の実家と疎遠になり、盆暮れ正月も喜美枝と子供たちは充弘の実家へ遊びに行くこともない。その上充弘の唯一の親族である彼の姉は明、朋也、光にお年玉もよこさない。

 充弘は働き詰めだ。小野家の家計は厳しく、喜美枝は県内チェーンのスーパーで週五日パートとして午後三時から夜九時まで勤務している。

 喜美枝はげっそりした顔で千鶴に言った。

「母さん、あたしもう無理。明たちに夕ごはん作ってあげられない」

「そんなん、朝多めに何か作っておけばいいだっぺや」

「無理だよ。朝起きるのだってやっとなんだから。朝だって納豆とかできあいのお惣菜出すだけで精一杯だよ」

 千鶴は娘に言った。

「じゃあ、明たちはおれんちに帰ればいいや。おれが宿題やらして夕ごはん食わして風呂も入れておくから、おめえ、帰りに寄れ」

「ありがとう、母さん」

 そこで明、朋也、光は放課後、小学校から走って一分の場所に立地する千鶴の自宅つまり母親の実家に直帰する約束をしたのである。

 しかしその約束は守られたためしはなかった。三人ともランドセルを校庭に置き、友だちと遊び始めるからだ。

 帰ってこない三人を心配して千鶴が学校まで迎えに行くと、明はすべり台の前にいた。友だち五、六人とじゃんけんの真っ最中だ。

「明ぁ」

「ばーちゃん、なんで来たん」

「おめえ、学校終わったらすぐうちに帰って宿題する約束だったっぺや」

「だあってすべり台逆走競争するって約束しちゃったんだもん。今順番決めてっからあとにして」

 朋也はジャングルジムの内部を器用に通り抜けながら言う。

「おやつあるん?」

「約束守らねえ子にくれるおやつなんかねえ」

「じゃあいいよ、あとで母ちゃんに買ってもらうもん。ばーちゃんち、せんべいしかねーから食いたくねーし」

 光はドッジボールに興じている。ボールから逃げるのに夢中で、千鶴が来たことに気づいていない。

 三人を引き連れて千鶴が帰ったのは、町の防災無線が曲を流して午後六時を知らせた時だった。

「この曲、何なん」

 家に入るや光が千鶴に問う。

 答えたのは千鶴の夫で三人の祖父三郎だった。

「『別れの曲』っつうんだ。ショパンて人が作った」

 孫三人をこたつに並べて宿題をさせる。国語の教科書を音読する宿題では三人とも同時に読み始めるので千鶴は言った。

「ばあちゃんは聖徳太子じゃねえんだから三人いっぺんには聞けねえ。明と朋也はじいちゃんに聞いてもらえ。光はばあちゃんが聞く」

 三人が通う小学校は町で最も児童数が少ない。それだけに学校側は基礎学力の定着に力を入れており、保護者に採点を依頼する文書を児童に持ち帰らせている。千鶴と三郎は赤ボールペンを持ち、三人分の漢字ノートや算数のドリルに○と✕をつけるのだった。


 目の前で孫三人が山盛りになった唐揚げに箸を伸ばす。

「これ何個あるん」

「一人何個食っていいん」

「早い者勝ちじゃねえん」

 どの孫がどの言葉を口にしたのか、一キロもある鶏肉を揚げて意識が遠のきかけている千鶴には判別できない。

 喜美枝は苦笑しながら唐揚げをほおばる。充弘はどうしても手が離せないということで来ていない。

 千鶴も肉料理に目がないので、気力を振り絞って孫たちの箸の動きをかいくぐり唐揚げを三つばかり自分の小皿に確保し、そのうちの一つを口に運んだ。

 しゃくっ、という切れのよい音と共に鶏肉の旨味が口の中いっぱいに広がる。弾力のある肉を噛むとさらに肉汁がにじみ出る。すりおろしたしょうがとにんにくの香りが鼻腔に抜ける瞬間、彼女は至福の表情で天井に顔を向ける。

「ばあちゃんが作った唐揚げは一番うまい」

 つぶやいた千鶴に明が冷めた目を向けた。

「自分で言ってるし」


 騒がしい孫三人とあわただしく夕べを過ごすうちに、明は五年生、朋也は四年生、光は三年生になった。

 二学期があと一週間で終わろうとする日の午前一時、防災無線が棒読みの声を流した。

「火災、発生。火災、発生。○○町、△△、✕✕番地、小野、充弘さん、小野、充弘さん宅で、火災が、発生しました。近隣の方は、ただちに、避難、ただちに、避難、してください。繰り返します。火災、発生。火災、発生……」

 火の見櫓の鐘が打ち鳴らされる。

 消防車がサイレンを響かせて向かう。

 布団をはね飛ばしサンダルをつっかけ玄関の引戸を開けた千鶴が見たものは、もくもくと上がる白い煙と、勢いよく昇るオレンジ色の炎だった。

 狭く細い道路をサンダルで走った。野次馬をかき分けて燃え落ちる娘の家に近づく。

 消防士が家の中から飛び出した。

 その腕に抱えられていたのは、子供一人。

 駆け寄ると、それは明だった。

「まだあと四人いるはずなんですが」

 言った千鶴に明を抱えた消防士は早口で答える。

「火元が二階のようなんです。見つかったのはこの子だけでした」

 充弘、喜美枝、朋也そして光は遺体で発見された。明は奇跡的に火傷だけで済んだが、全身に痕が残った。


 明は学校が終わるとすぐに帰宅するようになった。

「おめえ、遊ばなくていいんきやあ」

 明は千鶴に目を向けず、静かにランドセルを下ろした。

「誰も俺に声なんかかけねえよ」

「なんでだやあ」

「俺がみなしごになったからじゃねえの」

 そう言って国語の教科書を開き、明はぼそぼそと読み始めるのだった。

 担任が千鶴に電話をかけた。緊張しながらお悔やみを述べたあと、遠慮がちにスクールカウンセラーの利用を勧めてきた。

「明ぁ、どうするや」

「いらねえ」

 利用しないことを伝えると、担任もそれ以上電話をかけてこなくなった。

 中学校に上がると明は、教師に呼ばれて話を聞かれることの多い子供たちと行動を共にするようになった。それが羽鳥、高橋、平井、富田、宮沢である。明と同じ小学校出身の子供は一人もいない。

 明と羽鳥、宮沢はサッカー部に所属しているが、高橋は柔道部、平井と富田はソフトテニス部の部員だ。

 部活動のあと明についてほか五人は自転車で千鶴の自宅に乗りつけ、お邪魔しまーす、と玄関で声を揃える。

 千鶴は指示を出す。

「明ぁ、羽鳥、そうめん茹でてくれやあ」

 二人は敬礼で答える。

「サー、イエッサー!」

 なぜその返答なのかと千鶴は首をかしげつつ高橋、平井、富田、宮沢にも指示する。

「高橋、鍋ぇ出して油ぁ半分まで入れて火ぃつけろ。平井、ちくわに天ぷら粉つけて、油が煮えたら入れろ。富田、人数分のお椀と箸とめんつゆ持ってけ。宮沢、冷蔵庫から麦茶出してコップに注げ」

 四人もまた敬礼で応ずる。

「サー、イエッサー!」

 千鶴は三郎に問うた。

「じいちゃん、サーって何だやぁ」

「サーって、英語で、目上の男を呼ぶ言葉じゃねんか」

「おらぁ女だで」

 八人でこたつにひしめきあいながらそうめんをすすり、ちくわの天ぷらをはふはふとほおばる。

 教師に舌戦を挑んでばかりいる平井が二本目のちくわを口にする。

「家で揚げた天ぷらなんて初めてだ」

 売られた喧嘩は必ず買うが自分からは喧嘩を売らない高橋がそうめんをざるから箸ですくう。

「うち、そうめんなんて茹でたことねえし」

 小学三年で父親が急死して以来静かな教室から逃げ出すようになった羽鳥がめんつゆをお椀に足す。

「うちもー」

 やたらとSNSに詳しく、ほかの生徒や教師のページを見つけ出しては覗き見している富田がつゆを飲み干す。

「うめー」

 もと不良だった父親の指導のもとこっそり自宅の裏の空き地でスクーターを運転したことのある宮沢が麦茶をおかわりする。

「余田ちゃんの茹で加減まじサイコー」

 明がそうめんを飲むようにかき込んで笑う。

「だろ?」

 しかしその笑いは千鶴の知る明の笑いではなかった。親兄弟を亡くしてからというもの、明は滅多に笑わなくなった。黙っている時の明の顔は千鶴でも怖いと感じる時がある。

 明含め六人が教師から指導されるたび、千鶴は六人を家まで連れて帰り、鶏の唐揚げを大量に作った。下ごしらえを六人に指示し、千鶴が揚げる。そして二枚の皿に分けてこんもりと盛りつけた唐揚げを、六人と千鶴そして三郎は、黙々と食するのだった。

 自分の娘と三人の孫に振る舞っていた大量の唐揚げを今、一人残された孫と、その友だち五人が食べている。

 千鶴はこぼれた涙を首にかけた手ぬぐいでごしごしぬぐった。

 ぬぐったあと、明の顔を見る。明は笑顔だ。でもその笑顔は、弟二人や母親と一緒に唐揚げを囲んだ時のそれではないと、千鶴は思った。


 明と羽鳥、高橋、平井、富田、宮沢は地元の実業高校に進んだ。この高校はクラスごとに各科に分かれているので三年間クラス替えがない。同じクラスになったのは明と高橋だけで、羽鳥、平井、富田、宮沢はそれぞれ別のクラスになった。

「不良みごとに五分割じゃん」

 千鶴や明たちと共に鶏の唐揚げを口に運びながら平井が苦笑する。

 高校でも明たち六人は、教師に呼ばれ、事情を聞かれることの多い生徒には変わりなかった。特に多かったのが他校の生徒との喧嘩だ。明たちは直接自分に売られた喧嘩でなくてもそれが友人に売られた喧嘩であれば揃って出向いた。

 空手部に入部し基本動作を教わり組手も体験したものの当てない空手に面白味を見出せなくて退部した明と、柔道部がないので部活動に所属していない高橋がにらみを利かせると、たいていの相手は拳を交える前に退却した。

 しかし実際に事を構えていなくても喧嘩の場に行った事実があるので、教師たちは明たちを呼び、詳しく話を聞く。学校から電話が千鶴にかかってくる。むろん羽鳥たちの保護者にも電話連絡が入る。

 千鶴は自転車にまたがりスーパーへ走り、しょうがとにんにく、そして唐揚げ用の鶏肉を購入する。自宅へ急ぎ帰ってしょうがとにんにくをボウルにすりおろす。そこに鶏肉を入れ醤油で満たすと、時計を見て放課後であることを確認したのち、明に持たせた携帯電話に電話をかける。

「羽鳥たち連れて来いな」

「なんで」

「唐揚げ食え」

「また雪野電話したん?」

 雪野とは明と高橋がいるA組の担任だ。臨時教員として三年間他校で勤務したのち明たちの高校に新採用で赴任した、在校二年目の機械科教諭である。

「おめえたちがまーた喧嘩するからだっぺや。いーから早く帰れやれ」

「喧嘩する前に相手が退いたんだって。俺ら手ぇ出してねえよ」

「次の電車あと十五分したら出るべえや。早く帰ってこらっさい」

「おう」

 明たち六人と千鶴、そして三郎はこの日も、山と詰まれた唐揚げを平らげたのだった。

 だが、唐揚げ作りも明たちが一年生のうちだけだった。二年生からはさすがに落ち着いた。皆、家計を助けるためにアルバイトに精を出すようになったからだ。

 土日、明は宮沢の父親が始めた運送会社で積み込みのアルバイトをし、就職先もそこに決めた。三年生になってからは週三回放課後に焼肉屋でもアルバイトをするようになった。

「じーちゃんばーちゃんに迷惑かけられねーから」

 千鶴の記憶にはない笑顔で明は答えるのだった。


 その明が、千鶴が一番好きな笑顔をまた、見せてくれた。

 今、三郎が熱中症で緊急入院している。幸い来週には退院できるのだが、電車もバスも本数が少なくタクシーも流れていないこの町では自動車運転免許を持たない千鶴は病院通いに支障が出る。そのため明が一週間休みを取ってくれたのだ。ちなみに明は宮沢の父親が起こした会社がコロナ禍で倒産したため、都市部の製造業の物流部門に転職して三年になる。

 その明が呼んだのが、日野誠司。

 現在の勤め先で仲良くなったのだと言う。整った顔だちだが雰囲気は優しく、何より目が綺麗だ。

 今年の二月に彼と帰省した明は、緊張しながら千鶴と三郎に告げたのだった。

「この人が俺の大切な人だよ」

 さすがに千鶴は驚いた。しかし明があまりにも真剣なので、一緒に、隣の新垣さんからもらったチョコレートケーキを三郎も交えて食べたのである。

 そのあとで明が日野に向かってあの、千鶴が一番好きだと感じた笑顔を見せたのだ。

「日野さん、行こっか」

「もう帰るの? 余田さん、もっとおじいちゃんおばあちゃんとお話ししたらいいのじゃない? 俺は大丈夫だから」

「でももう、言うことは言ったんだし」

 日野が千鶴に心配そうな目を向ける。

「びっくりなさったのじゃありませんか。いきなり大切な人だって、男を紹介されて」

 千鶴は飲んでいたぬるい緑茶を卓に置いた。

 明は日野を、いとしくてたまらないと訴えるまなざしで見つめている。千鶴にはそんな明がとても幸せそうに見えた。火事で親兄弟を亡くして以来、初めて目にする表情である。

 日野はまるで実の祖母を気づかうような表情をしている。

 千鶴は日野の目を見て、言った。

「おめえさんたちさえそれでいいなら、いいんじゃねんか」

 明の顔が明るくなった。まるで唐揚げの山を前にしたあの時のように。

 日野もほっとしたように笑う。

 その日野誠司は今、千鶴の隣にいる。すりおろしたしょうがとにんにくを入れたボウルにパックから鶏肉を菜箸で移し、和え始める。

「手際がいいなあ」

 千鶴が感心すると、明も鶏肉を和えながら彼女の好きな笑顔で答える。

「日野さん、料理、超うまいんだぜ」

 日野は恥ずかしそうに笑う。

「揚げ物、実はあまりしたことなくて。よくわからないのですよね。教えてもらえますか」

 千鶴も笑った。その顔のまま、日野に言った。

「じゃあ、一緒にやるべ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一番好きな笑顔で 亜咲加奈 @zhulushu0318

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画