葉月《はづき》

結音(Yuine)

うみ。海、膿、産み。

   きみと ひろつた 貝殻からは

   昨日の 波の音が きこえる


   きみと はしゃいだ 砂浜に

   並んだ 足跡 波が さらつて


   きみと 過ごした 夏をうつした





 遺稿として発表されるはずだった。

 姉の最後の姿を知る者として、手を借りようと思っただけだ。それなのに、またもや姉の思いを踏みにじるとは。

 目の前にいる男は誰だろう。

 ほんとうに、姉がしたった男なのだろうか。

 この男の良さが分からない。

 姉の目には、この男はどんなふうに映っていたのだろうか。


『ふふふ』

 きっと、いても笑うだけで、質問者こちらの望む答えは返してくれないのだろう。

 姉は、肝心なことを叶恵けいとには伝えていなかったのだ。

 


 カラン、カラン

 レトロな喫茶店の入口は、客がドアを開けるたびに鐘が鳴る。

 店の外では、セミが鳴いている。ジリジリと。ドアを開けた時だけ、ジリジリと、その熱気が入り込む。客が店に入ると同時に、客が店を出ると同時に、その隙間から侵入する。


 おひやのコップが汗をかいている。氷はかろうじて残っている。



 男は、姉の原稿をことごとく奪っていった。今の叶恵けいとにはそう思えてならない。

 姉の原稿をまとめて、男が姉の作品を世に送り出してくれると聞いた時にいだいた感謝の気持ちは、砂となり、風に飛ばされた。


 姉の名前はどこにもなかった。

 姉の作品であるはずなのに。

 姉の名前が見つけられない。



 叶恵けいとは、この男にこれ以上姉の尊厳を踏みにじられるのは我慢ならなかった。だから、呼び出した。 


 アイスで頼んだ珈琲コーヒーは、氷が数個浮いている。

 ホットで頼んだ珈琲コーヒーは、白い湯気を吐ききっていた。


 

 聞きたいことはたくさんあるのに、第一声は、喉元でくすぶっている。

 せっかく開襟の服を着ているのにね、と姉に揶揄からかわれてしまいそうだ。


 白いシャツワンピースを選んだ。

 叶恵けいとがそれを着ていくと、同席を依頼していたショウは、ハッと息を呑み込んで、そして、かすかに笑った。


 姉が着ていたワンピース。

 白地のシャツワンピースには、共布ともぬののベルトも付いていて。前開きのボタンが縦に並ぶ。

 第一ボタンを外した状態で、えり周りには念入りにアイロンを掛けておいた。



 ぶつけたい思いをぶつければいい。

 男の目が、そう言ってくる。

 吐き出したい怒りを抑えなくていい。

 男は、叶恵けいとしゃべるのを待っている。

 それなのに。

 男の目を見ると、何もかもがお見通しであるかのように、叶恵けいとの怒りがただ分別のない子どものわがままのように写ってみえて、この子どもじみた感情をそのまま吐き出すことに躊躇ためらいを覚える。



『深く遠い目。

 のぞき込めば引きずり込まれて、底のない沼に落ちていく。

 見透かされているのは、つたな下心したごころか、遠くない未来か』


 同席を依頼したショウは、男の印象をそう語った。

 姉も同じだったのだろうか。

 


『ケイちゃんは、ケイちゃんの夢を叶えてね』

 そんな声が聴こえた気がした。


 屋外ではセミが、容赦ない暑さにもめげず、残り少ない寿命を響かせている。

 空調の効いた屋内で叶恵けいとは、とめどなくあふれる姉への思いを目の前の男にぶつけられずに居る。

 男は、スーツの襟元を緩めるでもなく、静かに、叶恵けいとが話し出すのを待っている。


「お水、冷たいものと交換しますね」

 通りすがりの店員が気を利かせて提案したが、ショウがこれを断った。しかし、何かをしなければ気が済まなそうな店員の様子に、ショウは自分のコップをからにして渡した。

「お待たせしました」と、お決まりの台詞で店員が水を運んできた。待ってもいない。待たされてもいない。けれども、店員の笑顔に、この場の空気が溶かされたようだ。

 注がれたばかりの水に大きな氷が嬉しそうに浮いている。

 カラコロ と、開いた扉の鐘の音に合わせて、コップの中でくるりと回った。

 



  ゆかないで

  とめないで

  どうか わたしも 

  つれてつて


  ふれないで

  やめないで

  どうか あなたも

  ともに まいらせ



 男が本を差し出した。

 姉の名前が見当たらない本。

 表紙も、裏表紙も、背表紙さえも真っ白な本。……では、なかった。

 叶恵けいとの元に送られた本は、表紙も裏表紙も、背表紙さえも、真っ白な本だった。だから、同じ大きさの同じ色の本を見て、叶恵けいとは勘違いした。

 噴き出しそうになる怒りをどうにか抑えて、叶恵けいとはその本を見る。

 差し出された本は、叶恵けいとの着るワンピースのように真っ白だった。

 男は、わざと裏表紙を上に置いていた。

 

 男がいくつかのページを開いて見せる。

 そこには、懐かしい姉の言葉が舞っていた。


「姉さん……」

 思わず、本を抱き寄せた叶恵けいと

 その姿を見守っていたショウが、何かに気づいて、男に目配せをする。男は、ゆっくりうなずいた。


 ショウ叶恵けいとうながす。

「ねぇ、見て」

 

 表紙に書かれた文字に、叶恵けいとの目が大きく開かれ、そして、涙があふれ出す。



葉月はづきは、おまえあとたくす、と」

 男は、それだけを伝えると冷めた珈琲コーヒーを一気に飲み干す。


 目の前で涙する

 

 の友人であるショウに気づいたのなら、自身もそれに気づかない訳はない。



「姉さん……」

 叶恵けいとが表紙の文字を見つめながら「ありがとう」とつぶいたのを、男はその目で確認した。

 

 それだけで、よかった。



「では、これにて」

 と、机上に紙幣を置いて男は席を立っていった。去りぎわにふっと笑みを漏らしたことを、叶恵けいとショウも気づかない。葉月はづきの残した想いにひたっていたから。




  ナツをさらつて いきませう

  うみにしずめてしまいませう

  しずかに

  そおつと

  ナツをさらつて いきませう




 葉月はづきは何処かへ消えてしまった。

 葉月はづきは二度と戻らない。

 葉月はづきは想いを遺していった。


 最愛の弟が、自由に羽ばたけるように願いながら、自らの鎖は断ち切れずにからまって逝った。

 ほんとうに、消えてしまったのか。


 あの時、男が、葉月はづきの手を離さなければ。そんなありきたりな後悔も、いつか葉月はづきが投げつけた言葉で打ち消される。


ケイちゃんは、何があっても追いかけてこないで』

 それは、葉月はづきの優しさなのだと、男は知っている。

 同時に、葉月はづきの残酷さだとも。

 葉月はづきは、自分が消えるのを前提に、ケイにすべてを託していったのだから。


『いつか、ケイちゃんから渡して欲しいの』

 葉月はづきへ残した思い。そこに、ケイへの想いはカケラもなかった。


 それでも、男は、葉月はづきの願いをカタチにした。

 に手渡した。

 メッセージは伝わっただろう。

 きっと……


 男は、叶恵けいとの隣にいたショウの姿を思い出す。

 が気付いたのだから。きっと、彼から弟へ告げてくれるだろう。葉月はづき叶恵けいとに伝えたかった思いを。

 そこに確証はない。けれども、彼ならきっとを大事にしてくれるはずだ。


 いどむようなショウの瞳。

 あれは、叶恵けいとが予測している以上に、ショウ叶恵けいとへ寄せる思いの強さだ。これは、単に彼らより年が上であるという男の「勘」でしかないが。あながち間違いではないだろう。

 何より、叶恵けいと姿を見ても動じなかったばかりか、あのワンピースが葉月はづきのものであることを察した彼だ。葉月はづきなき後、叶恵けいとを支えるのは、ショウしかいないだろう。

 まだ、叶恵けいとは気付いていないようだったが。

 叶恵けいとがこの先、どれだけ苦しむか。それは、もしかしたら葉月はづき以上の苦難なのかもしれないけれど。

 

 でも、それでいい。

 なにも、ケイがすべてを語る必要はないのだ。


 ジリジリと、焼け付くような熱が男のスーツの背に刺さる。黒地のスーツは未熟なの憎悪を全て受け止め、道を示した。


 ――これで、良かったのか、葉月はづき


 どれだけ求めても男のものにはならなかった少女。

 どれだけ願っても応えてはくれなかった少女。

 それなのに、葉月はづきは自分の思いだけ男に託して……


 訊いても答えてくれはしないのに、男は尋ねずにおれなかった。

葉月はづきは、おれのこと、好いてはいないのか』と。

 葉月はづきは『ふふふ』と笑って、

ケイちゃんは、ケイちゃんの夢を叶えてね』

 と、白いワンピースをひるがえして、駆けて行った。

 ケイではない、への想いをちらつかせながら。


ケイちゃんへの大好きは、わたしではない誰かからもらってね』

 葉月はづきのつぶやきは、ケイの耳に届かない。

 この時、葉月の目に浮かんだ涙のことも、誰も知らない。



「それにしても、暑いなぁ」

 男がたまらずこぼした声も、蝉の泣き声によって上塗りされる。


 ふと、立ち止まって空を見上げる。


 どこまでも澄んだ空は、男の手には届かないほど遠く、この手に抱きしめることが叶わなくなった少女の面影おもかげをかげおくりのように浮かび上がらせた。


 


   あぁ、いとしいひと

   なぜ、いくの

   わたしをおいていかないで


   あぁ、かなしいひと

   なぜ、わらう

   なきたいときほど

   ほほえんでいる

   あなたのかなしさ

   ほほえまないで


  


 叶恵けいとが落ち着くまで、ショウはその横に座って見守った。


 男は、本を残していった。

 表紙には「かなゑ」の文字。

 白地の表紙に金色の文字。

 白地の布に金糸で刺繍をしたかのような、美しい三文字。


 それは、叶恵けいとの希望であり、夢であった。

 叶恵けいとのやりきれない思いを姉は静かに聞いてくれた。

 吐き出された愚痴ぐちは、姉によって、美しい言葉に換えられた。


『これは、かなゑちゃんの言葉ね。

 かなゑは叶恵けいとであり、叶恵けいと叶恵かなゑなんだよ』


 そう言って、姉は言葉を書き留めた。

 それが、この本に記されている。


 姉の言葉を反芻はんすうしながら、叶恵けいとはゆっくりと表紙の文字をなぞる。その手で本を抱きしめる。

 

 叶恵けいとの震える背中に、ショウがそっと腕を伸ばす。

『大丈夫。ボクは、どこへも行かない』

 その想いを伝えるように、優しく叶恵けいとの背をでる。

 

 そして、氷の消えたアイスコーヒーが、ショウの喉をうるおした。




   あおい あおい

   波が さらつて

   わたしのハルを

   ハルが消えてく


   あおい あおい

   波が 寄せてく

   ハルはあおくて

   あおくてあかい



   

 喫茶店を出ると、強すぎる日差しが叶恵けいとの着る白いワンピースを照りつけた。


「暑い」

 と思わず口に出せば、

「そうだね」

 と、ショウが返してくれる。


 アスファルトの照り返しがまぶしい。足元に転がったセミの姿。腹を上にしてひっくり返ったセミは、自分からはぴくりとも動かなかった。


 歩き出す。

 降り注ぐ光を色に例えれば、残酷な赤。

 否、しゅか。


 朱夏しゅか



 青春アオハルは終わった。

 葉月はちがつが告げた。


 自分の人生だ。

 どう生きていこうと、構わないではないか。 

 


 


 そうか、それならば、これからは『かなゑ』として、生きていくよ。


 白いワンピースが、叶恵かなゑを包む。



 その日、庭の片隅で山百合の白い花弁が、口を開いた。












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葉月《はづき》 結音(Yuine) @midsummer-violet

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