悟りを開くまで出られない部屋

こくまろ

悟りを開くまで出られない部屋

 

 今日、固く閉ざされた岩室いわむろの扉がいよいよ開く。

 岩室の中には、私達の師匠が独りで籠もっていた。滝行、護摩行、山駆け、あらゆる厳しい修行を経たその最終段階として、孤独な暗闇の中で七日間瞑想するという荒行を行っていたのだ。この間は一切の食を絶ち、水も最低限しか飲まない。

 師匠は悟りの境地に至れたのだろうか。それ以前に、老齢に差し掛かった師匠の身にとってこれほどの荒行は命すら危うくしかねない。扉を開ける私達も緊張の為に息を呑んだ。

 岩室の扉を数人がかりで力いっぱい引く。重々しい音とともに扉が開き始めると、不思議なことに中から光が漏れ出てきた。岩室の中は灯りなどない完全な暗闇のはずだった。しかも、その光はみるみるうちに強くなっていく。いや違う、これは光源そのものが動いているのだ。


 師匠が中から姿を現した。果たして光源の正体は我らが師であった。信じられぬことに、全身から煌々と眩い光を発している。

 岩室の前で控えていた兄弟弟子達の口から感嘆の溜息が漏れるのが分かった。この世の奇跡を眼前にした感動か、修行を経て道の完成へと至った師を誇らしく思う気持ちからなのか、私の目からも自然に涙が零れ出た。

 師が前に進み出ると、誰が指示するわけでもなく私達は円で囲むようにして跪いた。


みな……」


 師匠がゆっくりと語りかけた。一週間絶食し、ほとんど水も飲んでいないとは思えない、厳かで力のある声だった。


「……皆の見ての通りである。艱難辛苦の道の果て、ついに儂の修行は」


 ついに、ついに師匠はやり遂げたのだ。



「ついに、完成しなかった」



 ───は?師匠が何を言ったのか理解できなかった。私だけでなく周りの弟子達も皆戸惑っていた。おかしい。師匠は一体何を言っているのだ。こうしている今も師匠の全身は静かに強い光を放ち続けているではないか。師匠の一番弟子として、私は困惑する周囲を代表して師匠に問うた。


「師匠、今のお言葉、一体どういうことなのでしょうか……。私には……私達には師匠の修行が成ったようにしか見えませぬが……」


 師匠は、やつれてなお威厳のある表情を保ったまま、ゆっくりと答えた。



「めちゃくちゃ失敗した」


「めちゃくちゃ失敗した!?」


 めちゃくちゃ失敗……???めちゃくちゃ失敗ってどういうことなんだ。弟子達に動揺が広がる。あと僅か至らなかったというのであればまだ分かる。完膚なきまでに失敗したということなのか。いやしかし。失敗したと断ずるには師匠の体は輝き過ぎていた。


「師匠……恐れながら申し上げます。師匠の姿は今や神々しいまでに光り輝き、未熟な我々の目には、ぎょうを満たし道の果てに辿り着いたお方のようにしか映りません。この光こそが悟りを開いた証、内から溢れ出る神力でなければ、一体なんだというのですか」


 師匠は私の問いに対し瞼を閉じ、しかしはっきりと通る声で答えた。



「性欲」


「師匠!!!」


 師の言葉を遮るようにたまらず私は叫んだ。


「お巫山戯ふざけも大概になさってください!言うに事欠いて性欲とは……一体なんなのですか!」


 師匠は私の叱責するような大声にも全く動じることなく、泰然として答えた。



「エッチな気持ち」


「エッチな気持ち!?」


 別に性欲という言葉の意味を説明してほしかったわけではない。あまりの驚きに鸚鵡返ししかできない自分の未熟が恥ずかしかった。というか尊敬する師の口から『エッチな気持ち』などという言葉は聞きたくなかった。周りの弟子達も唖然としている。


「師匠、落ち着いてお聞きください。この神々しいまでの光が煩悩によるものだなどと、そんな馬鹿な話があるでしょうか。何を根拠にそんなことを仰っているのです」


 実際のところ、落ち着いていないのは私の方だった。一体どういうことなのか説明してほしい。昂ぶる感情のまま師匠を詰問した。


恵心けいしんよ」


 師に名前を呼ばれ、どきりとする。こうした時は、師匠に自らの未熟さを指摘されるのが常だった。


「確かに、にわかに信じられぬのも無理はない。しかしこれは真実なのだ。厳しい修行により生命の危機に瀕した我が身は、おそらく種の保存本能としてであろう、爆発的な性欲を惹起した。そしてそれは暗闇の中での瞑想によってさらに大きく育ち、ついにエネルギーとして可視化されるまでになってしまったのだ。その証拠に……儂の身体をよく見てみるが良い」


 何がなんだか分からなかったが、師に言われるがままに師の身体をあらためて見つめた。やはり全身が爛々と光を放っている。しかし、目を凝らしよく見ると、一部分だけさらに突出して光の強い部位があることに気付いた。左右の胸に一つずつ、そして局部に一つの計三つ。これはまさか。



「左様。性感帯じゃ」


「いや、んなわけ」


 ねーだろボケがと叫びかけた。危なかった。いかなる理由があろうと師に対して暴言などあってはいけない。感情的になるのは私の修行が足りないからだ。

 しかしなんということだろう。厳しい修行の末にまさかこんなことになろうとは。一際強い光を放つ三つの頂点が性の大三角形を成していて目に眩しい。こんな汚い星図は見たくなかった。


「事情は分かりました……。いや、今でも全然理解はできておりませんが……。とにかくお疲れでしょう。部屋にお戻りください。食事をお持ちいたしますので……」


 私が促すと師匠は静かに寺院に向かって歩き始めた。困惑を抱えたまま、私は部屋に向かう師匠の後ろ姿を見つめるしかなかった。尻の真ん中あたりも強めに光っていることに気付いた。私はまた涙を流した……。

 

 あれから師匠はずっと自室に籠もっており全く姿を現さない。私を含め弟子達も性欲爆弾と化した師匠の部屋にはおいそれと近付けず、最低限食事を部屋の前に運ぶのみで、中の様子までは伺えなかった。

 しかし、いつまでも戸惑ってばかりはいられなかった。師匠の修行の失敗によって寺院は揺れていた。師匠の存在はこの寺院全体の精神的支柱であったのだ。


 ──誰かが代わりを務めねばならない。


 私は強くそう思った。光りっぱなしの師匠に代わって、誰かがこの寺院を率いていく存在にならねば。

 そのためにはどうすればいいか。答えは明白だった。師匠が成し得なかった修行を完成させれば良いのだ。誰がやるのか。師匠の一番弟子として、私がやらねばなるまい。

 こうなってもまだ私は師匠を尊敬していた。ここまで導いてくださった恩を忘れるはずもない。師を越えることこそ、弟子としての最大の奉公とも言えるだろう。


永澄えいちょう祥月しょうげつ。私は師匠と同じ修行をする。準備を頼めるか」


 信頼する弟弟子おとうとでしに声を掛けると、二人共心配そうな顔でこちらを見つめ返してきた。


「恵心様……私は不安です。あの師匠でさえ煩悩に負けて輝くようになってしまって、この上もし恵心様まで……」


私は二人を安心させるためにあえて笑って案ずるなと答えた。

 もちろん何の保証もない。不安がないと言えば嘘になる。しかし、それ以上に私には覚悟があった。

 性欲になんて、絶対に負けない。






 修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行。私の頭は修行のことで一杯だった。決していやらしいことではない。これは修行のことを考えているのだ。必死に自分にそう言い聞かせた。

 結論から言えば、修行を終え岩室から出た私の身体は師匠よりもさらに激しく光っていた。もうギンギンだった。甘かったと言わざるを得ない。あの師匠でさえ成し得なかった修行なのだ。

 私は光りながら煩悩の苦しみに悶えた。百八の煩悩全てが性欲になったかのようだった。火照る身体とギンギンになった光をどうにかしたかったが、どうにもならなかった。

 師匠の例に倣って私も自室に籠もった。誰かに出会えばこの光が爆発しそうだったからだ。

 私は今更ながら師匠の偉大さを実感した。

 岩室から出てきた時の、あの師匠の落ち着きはなんと立派だったことだろう。自分を見つめる青々しい視線と肉体に囲まれて、それでも一切動じる様子がなかった。そして今なお、激しい光の暴走をそれを上回る強靭な理性で抑え続けているのだ。師匠は凄かった。やはり師匠は凄い、凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い師匠師匠師匠師匠師匠師匠修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行修行師匠修行師匠修行師匠修行修行修行修行修行修行修行修行修行


 危なかった。意識が飛びかけていた。

 とにかく目下もっかの問題としてこの光をどうにかせねばならなかった。自分でも限界が近付いていることに気付いていた。どうすれば良い?どうすればこの苦しみから逃れられるのか。誰か助けてほしい。救われたい。師匠、修行、師匠……



─────!



 その瞬間、脳内に閃光が炸裂した。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのか。どうすれば良いのか。修行しかない。当たり前だ。修行で乗り越えられなかった壁は、やはり修行で越えるしかないのだ。そして、修行には適切な場所が必要だ。


 私は部屋を飛び出した。ずんずんと寺院の廊下を歩いていく。途中何人かとすれ違い、皆慄いて私を避けたが構うことはなかった。目的地に向かって、私は猛然と進み続けた。

 師匠の部屋の前に辿り着き、扉をバン!と音を立てて開く。師匠はいた。部屋の奥で坐禅を組んでいた。前よりも少し痩せ、光はさらに増したようだった。

 私は師匠に断りも入れずに部屋に上がると、扉を閉め閂をした。これでもう、誰も入ってこれない。私は師匠に向き直り、ゆっくりと言った。



「師匠、ここは岩室です」


 師匠は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着いた表情を取り戻した。


「なるほど。確かにここは岩室だ」


 師匠は先の私の一言だけで全てを了解したようだった。


「そうです。ここは岩室。誰も入ってこれませんし、修行を終えるまで出ることもできません」


「当然、その通りだ。我々は修行をせねばならんな」


「そうです、修行し合うのです。私と、師匠で」


 視線と視線が交錯する。空気が張り詰める。部屋には私と師匠の光が充満していた。

 師匠がぽつりと「しかしちょっと汗をかいておるし、修行の前に身を清めてこようかの」と言い、私が「そんなの、必要ない!」と叫び飛び掛かった。それが修行開始の合図だった。

 師匠の手が私の光を受け止めるようにむんずと摑んだ。いつもの師匠からは考えられない荒々しい手つき。私はその激しさに興奮しさらに光を怒張させた。くそっ修行が足らない。私は自分の未熟さに顔を赤らめた。しかし師匠の両手は容赦がなく、神の手と言って差し支えない技巧で私の身体を激しく修行した。指がこんなふうに動くなんて!

 成すがままにされる私の肉体を、師匠の光が貫いた。瞬間、脳内に幾万もの曼珠沙華が花開いた。思わず「嗚呼!」と声が漏れる。喘ぐ私などお構いなしに師匠は光を何度も打ちつける。なんて激しい修行だ。負けじと私も師匠の修行の足りない点、即ち三角形の頂点を厳しく修行した。師匠に技術があるように、私には若さがあった。極限まで研ぎ澄ました鋭い光でもって師匠の肉体を貫き返した。師匠の身体がり一際強い輝きを放った。しかし師匠は私のように不様な声など漏らさなかった。流石師匠だ。私はたまらなくなって「師匠、師匠」と叫び修行のために身を捩った。

 攻防は一進一退。強烈な光で照らされた室内はもはや昼も夜もなかった。身体の内から湧く光をし尽くすまで、私達は寝食も忘れてお互いを貪るように高め合った──。



 どれほど時間が経ったのか。気付くと真っ暗な部屋の中に横たわっていた。身体はもう光っていなかった。自分の中の煩悩が綺麗さっぱり消えていることを実感した。

 師匠はどこだろう。飲まず食わずであれほど激しい修行を。師匠は無事だろうか。


 「師匠」


喉がかすれてうまく声が出なかった。しかしすぐ隣から


「恵心、ここにおるぞ」


と声が返ってきた。師匠も私と同じようにして横たわっていたようだ。


「これが、悟りの境地なのですね」


「うむ、これでようやく部屋からも出られるな」


 悟りを開き、部屋を出る。誇らしいことだったが、なんだか少し寂しい気もした。師匠もきっと、同じ気持ちだったと思う。暗闇の中で、どちらからともなく相手に向かって手を伸ばしていた。お互いの指先が触れ合う。そしてそのまま、指を絡め強く握った。すると、どうしたことだろう。私の身体が再び仄かに淡い光を放ち始めた。なんということだ。せっかく煩悩を捨て去ったというのに。

 しかし師匠の方を見ると、師匠の身体も同じように淡く光っていた。互いの光に照らされて、驚いた表情が暗がりの中に浮かび上がっていた。

 師匠は苦笑して言った。


「やれやれ、まだまだ修行が足らんな」


「そのようですね」


私達はくすくすと笑い合って、光を重ねた。


─了─

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悟りを開くまで出られない部屋 こくまろ @honyakukoui

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